細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」

ABC企画委員会
731部隊・100部隊展

記憶の継承を進める神奈川の会

 

細菌(生物)戦争
米中の生物兵器開発?
WHO 新型コロナの調査チーム 14日に中国入国へ 中国政府発表
「国や医師会に憤りを感じる。このままでは医療崩壊だけでなく“居酒屋崩壊”だ」緊急事態宣言の再発出を前に、厚労省の元医系技官が訴え
謎の感染拡大ー新型ウィルスの起源を追う―
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
私が背負った昭和の業(731部隊員の父と過ごした戦後)
ひとさらい(731部隊員の父と過ごした戦後 野崎忠郎)
父は獣医師だった
ツベルクリン反応検査方法について 美馬聡昭(医師)
「主権免除」も通用しない!!
日韓関係の冷え込みさらに…元慰安婦訴訟判決の衝撃

「人骨問題と731部隊」鳥居靖さん(軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会事務局長)

 

731細菌部隊と帝銀事件との真相1

犯人像
・毒物の取り扱いに慣れていた人物
・もし、この犯人が変装にたけていたなら、731部隊とか、研究者関係は除外されるのではないか、むしろ
特務機関とかの謀略活動をやっていた人物ではないのか?
・旧軍関係者の虐殺行為はGHQと繋がっていた有末機関によって隠蔽された。
・警察は敗戦から3年で、日本の秘密戦部隊の残虐性を把握したが、国民には全く伏せていた!!
戦前と戦後の連続性 -帝銀事件と戦争責任-【後半】質疑応答

戦前と戦後の連続性 -帝銀事件と戦争責任-【前半】講演本編

 

 

米中の生物兵器開発?
謎の感染拡大ー新型ウィルスの起源を追う―
 

zoomによる講演会「731部隊と大連黒石礁事件」2021.1.21:18:30~お話:根岸恵子さん

●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
 ※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。


 


入所者479人の遺体解剖 ハンセン病療養所が報告書―熊本

ハンセン病 文書が明らかにした“遺体解剖”の事実




終戦から75周年の今、新たな動きを受けての改訂新版!
『長き沈黙【増補版】父が語った悪魔の731部隊』 2020年11月10日初版第1刷発行 1000円+税
父は自らが隊員であった旧日本軍731部隊の罪状をマスコミに告白し、その2年後に世を去った。
父の遺志を受けて、485回にに及ぶ「語り継ぐ活動」を行ってきた著者。
「憲法改正」が声高に叫ばれ、70年間守られてきた平和憲法が脅かされる今、学び取ってほしい戦争の真実を伝える。
第1章 関東軍防疫給水部731部隊員になる
第2章 731の亡霊 私たちは何を学び取るか
第3章 悲劇を繰り返さないために 教育・学校を考える
混声合唱組曲『悪魔の飽食』

 


『スパイの妻』黒沢清監督 ヴェネチア銀獅子賞に輝いた最高傑作!
映画『スパイの妻』
第77回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞した、黒沢清監督最新作『スパイの妻』。
731部隊が行なった生体実験、細菌戦を世界に訴えようとした勇気ある行動!!
世界は、もう事実を知っているのに、なぜ日本政府は、
きちんと事実を認め、謝罪しない??

黒井秋夫講演会

 

おめでとう!!核廃絶!!
核兵器禁止条約発効へ ホンジュラス批准し50カ国・地域達成 「核なき世界」へ一歩

 

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」1

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」2

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」3


 

隠された毒ガス兵器
 

今の日本の実態!!
多摩労務管理事務所闘争に勝利するための集会 2020.9.26




 

 

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

  

 


※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp




●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』



三月三〇日

朝食の検食に中隊長先ず土井御用商人ひどくたこをつれば?先ず商人平謝りに事を済む 然し―昼食が腐敗していたとの事で 作った夕食百六十名分がふいになる。気の毒ながら 身から出たさびだ。
忙しいような暇なような一日が終わった 夜の七時半に思いがけなく大隊の非常演習がある。第二六四の無蓋列車に乗って遼陽に行く 此の時の気分は実際演習とは云ふものの 中々悲壮な感じがする。中隊から駅までの内に重機の為に一汗かいた 四拾分みぞれの降る中に風を切った故に非常に寒く震えてしまう 帰りは第十八列車なれども非常に眠くてやりきれない。勤めは辛いね。名月煌々として。






●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)


挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より

Ⅱ 広島再訪
 法律、あるいは国家の確実な保護の窓を開いておく、というのが重藤院長の現実的な思考法の基本的な態度である、金井論説委員のいわゆる≪平和運動家の宗教戦争≫の間、具体的な施設や資金に関わっていえば、曲がりなりにも次第に被爆者の援護のプランを進めて来たのは保守党の政府であり、今も現に実績を上げようとしているのは保守派の議員たちである。僕は広島で、一人の保守派の地方政治家の、戦中・戦後を通じての、些かいかがわしい噂を度々聞いたものだ。しかし客観的に見て、この夏、彼が援護強化の政治的折衝に最も効果的な役割を果たした一人であることも又否定できない。  


唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

●『細菌戦部隊』
731研究会編

Ⅰ 731部隊  1996年9月(核時代51年)初版発行

小笠原 明(おがさわら あきら)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1928年生まれ。
1943年4月 731部隊少年隊に入隊
1944年4月 第2部(実験部)第2課田中班に配属。ペスト菌などを宿らせ伝染させるためのノミ増殖に従事。
1945年8月 日本への撤退途中で中国人民解放軍に入隊、4年間従軍
1949年 帰国。
■この証言は石川(金沢)731部隊展(1993年11月)、栃木(宇都宮)同展(94年9月)、沖縄(那覇)同展(94年1月)、広島同展(94年3月)の『報告集』よりまとめたもの


標本室

 その年(1943)の6月の末、確か部隊創立記念日の為の掃除がありました。部隊本部棟2階の部隊長室近くにあった標本室に、私を含めて3人の者が呼ばれて掃除をするように言われました。標本室に入る前に憲兵曹長の高取と言う人が来て「今日ここで見たものは、内務班に帰ってからも、またハルピンに友達がおって話す機会があっても、絶対に話してはならない。秘密を守らなかったらとんでもないことになるぞ!」と言いました。



●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

六 第731部隊の各支隊

鑑定書(1956年5月28日)

 第1の問題点榊原秀夫の指揮した162支隊(林口支隊)の行なった活動は、どんな目的のためだったのか。
 鑑定の結果、我々は、162支隊の活動はその専門的性格と内容から見て、細菌兵器の製造と細菌戦の準備のためであったと考える。この結論は以下の事実に基づくものである。
1、162支隊は、旧日本関東軍第731部隊に所属した最大の支隊であった。731部隊及びこれに所属する各支隊の業務はもっぱら細菌戦実施のためであり、この事実は既にソ連沿海州軍管区軍事法廷における旧日本陸軍軍人による細菌兵器の準備、使用に関する件の裁判資料で証明されている。







●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第3章

2 国内民間人の防毒訓練

市民用ガスマスクの生産

 1938年に関東地方の防衛を担当する東部防衛司令官から、ガスマスクが無い場合の個人応急防護の研究依頼がなされた時、陸軍科学研究所のガスマスク研究員が出したプランは、底を切った瓶や竹筒などに毛布や炭を詰めてこれを口に当てて呼吸し、鼻は洗濯ばさみで閉じ、目には水中メガネを付けるといった原始的な方法であった。これを研究した当人は、「当時の国民防毒面の普及状態からこの種の応急策もやむを得ない状況であった」と回想している(山田桜「軍用防毒面類の研究」防衛庁技術研究所編『本邦化学兵器技術史』。このように、一般国民は、毒ガスに対して事実上無防備状態におかれていたのである。







・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第2章 地図から消えた神秘の大久野島


「毒ガスの王」と「死の露」

A2工室はドイツ方式でイペリットガス(きい1号甲)を製造し、1937年に生産を始めてからは昼夜を分かたず作業が続けられた。作業場は通風が悪いのでいつも湿っぽかったという。作業員は一日中毒ガスと付き合っているので、皮膚は黒褐色になり、潰瘍ができた。イペリットは製造した後は黒褐色の液体で、油に溶ける性質を持っているので、いったん人体に付着すると皮膚や粘膜の表層を透して細胞に達し、破壊する。触れるとまず皮膚に赤い斑点ができ、その後火傷のように水泡になり、さらに進めば破裂して潰瘍となる感染する。この種の潰瘍と糜爛は治療がとても難しい。たとえそれが治っても皮膚には痕跡が残り「毒ガス斑」を形成する。これらの毒剤が発した気体を吸い込むと、呼吸器と消化系統に出血と潰瘍が起こり命は危なくなる。人間の致死濃度は0.1ppmで、30分ほどで死亡することから、「毒ガスの王」といわれる。




 





大久野島国民休暇村


日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
強姦
赤ん坊を殺し母親を犯す

石田幹雄
兵長
〈略歴〉
1913年 山梨県の中農の家に生まれ、
1928年 小学校卒業と同時に東京に出て、印刷労働者となり、
1941年10月20日 補充兵として東部63部隊に入営。
1942年5月末 中国に侵略し、
1945年8月22日 59師団54旅団110大隊兵長として朝鮮においてソ連により武装解除を受ける。


「よし、あそこだ」思わず口に出た言葉を呑み込んで、釜に近寄る私の足にしがみついてきた母親を蹴飛ばし、つきたての餅の様にフワフワした赤ん坊の足首を握り返して、頭を逆さまにしたまま釜を目掛けて投げ込んだ。ギャーッ・・・釜の湯を吹き上げ、ひときわ高い赤ん坊の悲鳴が、私の耳に錐(きり)を揉み込まれる様に鋭く食い込んできた。そして、一瞬静寂に返った空気の中に、キーッと絹を裂くように我が子を奪われた母親の叫びが壁を揺すぶった。





 


●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?



2020年12月16日に『化学学校記事』の情報公開裁判があった。防衛省は、「衛生学校記事」と違って「化学学校記事」は、公文書として管理していないという。同じ自衛隊の中の機関誌でありながらなぜこうも扱いが違うのか?防衛省は最初「化学学校記事」は12号まではあったと主張していたが、原告が16号を提出すると、2年間も回答をしなかった。そしてやっと存在を認めた。そして20号まではいっていないと思う。何号まで発行されていたかは分からないとの曖昧な回答。
なぜ、防衛省という公的機関の機関誌の存在を、防衛省はきちんと把握できていないのだろうか?
何を隠そうとしている??
次回「衛生学校記事」情報公開裁判 2月5日(金)15:00~419号法廷
「化学学校記事」情報公開裁判 3月3日(水)11:00~法廷未定
自衛隊におけるCBRN対応
         長岡大学教授  兒島 俊郎
2 陸上自衛隊におけるCBRN対応
(3)教範から見えるCBRN対応
「化学科運用」とほぼ同じ時期、CBRN全般を対象とする「陸自教範21-101特殊武器防護」が刊行されている。これは「案32-119 化学防護:に替わるものであり、特殊武器の定義を明確にするなど、陸自内部ではCBRN対応が整理されてきたことを示している。こちらは以下に紹介する通り、核兵器、化学兵器、生物兵器を特殊武器として一括し、それへの対応を示すものとなっている。「化学防護」の内容は未見であるが、1950年代の米軍の方針が、核戦争下で化学科部隊が重要な任務を負っていたことを考えれば、その内容に核兵器が含まれたと考えられる。それを受けたものである。




*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。




第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1



金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


4、日本本土も汚されている

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る

国会におけるBC兵器論争

(前略)
〇楢崎委員 佐世保で使われました例のCN、クロルアセトフェノンでありますが、これは自衛隊も催涙ガスとして用意されておりますね。自衛隊はどこからそれを買っておられるのですが。
〇増田国務大臣 催涙ガス等の研究はいたしておりましたし、また水に混ぜてやるということの研究もいたしておりますが、私の調べたところでは、必ずしも、警視庁で使用されたものとは違うということを申し上げておきます。
〇蒲谷政府委員 関東化学株式会社から買っております。催涙剤の方は関東化学でございますけれども、筒の方については細矢火口から入っております。


第5代衛生学校長

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)




イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
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「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
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●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!




第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制
 Ⅲ
 GHQは10月22日に教育改革と、軍国主義を主張し占領政策に敵意を示すすべての教師の追放を命ずる指令を発した。以後も、各方面の戦時指導者たちは危機にさらされた。1945年10月30日、GHQは、宮内省提供の大幅に低く見積もられた数字に基づいて皇室の総資産を公表した。天皇の臣民はこのとき、彼が15億9000万円の資産を有していることを知った。豊かな森林、牧場、株式、国債・都道府県債・地方債など莫大な保有物からの収入、さらに巨額の金塊や通貨を所有していたことからも明らかなように、天皇は他の追随を許さぬ大地主であり、もっとも裕福な人間であった。幣原内閣と帝国議会の政治家たちは、民衆が天皇の有する巨額の富の問題に飛びつき、もつとも高名な戦争指導者たちに対する批判が日々、紙面をにぎわし、さらには共産党が「天皇制」の廃止を要求するのを目の当たりにして、「国体」ばかりか、自分たち自身の地位すら維持できるかどか確信が持てなくなっていた。