細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

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731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」

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731部隊・100部隊展

記憶の継承を進める神奈川の会

 




 

隠された毒ガス兵器
 




 

●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
 ※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

  

 


※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』




二月十二日
明日よりこの思い出を期に2,3日日記を捨て、去年の日記が無いのを幸い、思い出すために上陸から今に至るまでの生活を書いて反省してみよう。
私の通った所には決して不正もなければごまかしもない堂々たる道だ。最も軍隊なら私は軍隊で不正な 自分の信念に反する生活を2ヵ年したと言っても、決して地方の人は信じるものではない。軍隊は地方人が見るより一層神聖な少しの穢れのないところであると思う。
 私は大隊長に怒られようが中隊長に罰せられようが私は平気だ 私は天皇陛下の小供だから・・・と云われた人がある。笑いの中に涙ぐましい軍人精神が満々しているのが見えるようだ。



●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)


7月31日(金)
9、これだけの資料を集めコロナ禍の中でパネル展をなさったことに敬意を表します。昨日(7月30日)NHKのクローズアップ現代プラスで戦争の資料を集めた資料館が次々と閉鎖に追い込まれていることを改めて知りました。戦争の記憶がどんどん薄れていくこと、とりわけ日本の加害の歴史を直視する人がどんどん減っていくことに暗澹たる思いです。20年以上前に都立の平和祈念資料館の建設が企画されたとき都議の一部が自虐史観であると反対し建設計画はストップし、集めた膨大な資料は倉庫に収まったままであることを知りました。日本の加害の歴史は遠ざけられ韓国や中国がいくら日本に反省を求めてもただ反発する人が増え続けるであろうことを危惧します。
(70代、市内、チラシ)【平頂山、その他すべて】



●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)



挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より

1  広島への最初の旅
『ひろしまの河』にそのような眼のふたりの老婦人の証言がある、
もう1つの証言ー
≪島屋町にいた姪が2人真裸でたどりつきました。江波で一夜を明かし、来る道で人から浴衣を1枚貰ったのを裂いて2人が躰に巻いていたそうです。家主からは、うつるうつると嫌われるほどむごたらしい様子で、妹の方が死にますと、姉は、伯母ちゃん、私はああいうようにならんうちに殺してね、と言いながら妹の後を追って死にました。年寄りが1人残って、若いものが皆死んでしもうた≫
不意に安井郁氏の熱っぽい言葉が、むなしい、その場限りの、具体的には何一つ約束しない誠実の空手形の、欺瞞の声として思い出されてくる、≪私に今しばらくの時をかしてください≫






日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

●『細菌戦部隊』
731研究会編

Ⅰ 731部隊  1996年9月(核時代51年)初版発行

ノミの大量生産
細菌の毒力試験の生体実験を行った

篠塚良雄
731部隊・少年隊

731部隊へ

教育
私たちに教育が開始されたのは、部隊に着いた翌日からだったと思います。最初は配属憲兵によるものでした。まず“軍機保護法”を教えられました。一言で言うとこれは、機密を漏らしてはいけない、機密を漏らせば処分を受けるという軍隊の法律です。「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。教えられたというよりも脅されたという印象が強かったわけです。


 

・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』

中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」

田上末蔵供述書(1954年10月8日)

問:富錦憲兵分隊における犯罪行為について述べよ。
答:1943年12月、富錦憲兵分隊で補助憲兵人事係内務班長・准尉の任にあった際、分隊長庄治常二少尉の命令により、拘禁していた中国愛国者2名を、部下の小野光男と陰地茂一に命じてハルピンの石井部隊迄護送させた。
 1943年12月、富錦憲兵分隊長庄治常二少尉は曹長畠山藤吉郎、軍曹小野武次及びその他の憲兵10名、補助憲兵20名を率いて、「清流工作」という暗号名で、綏浜県に於いて抗日地下工作員及びこれに関連する一般住民100名を逮捕した。

 残酷な拷問を加えた後、発疹チフスに罹って分隊拘留所で死亡した者2名、重病ににより釈放された者10名、石井細菌部隊に送って惨殺された者11名、残りは釈放された。当時、私は部下の補助憲兵20名に命じ、逮捕、拷問、監視に加担させた。さらに補助憲兵8名に命じ、中国人抗日工作員11名を相次いでハルピンの石井部隊に護送させた。1944年5月26日、鶴岡に転勤になった際、石井細菌部隊に護送される中国人8名と同じ船で佳木斯(チャムス)に到着した。
(1)119-2、500、1、第4号













●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章毒ガス兵器の製造と教育

1、日本はどのような毒ガス兵器を装備していたか
日本軍が制式化した毒ガス

 本章では、日本軍はどのような毒ガス兵器を装備し、それらをどれだけ製造したのか、そして、毒ガス戦の教育はどのように行われていたのかについてみてみたい。
 まず、日本陸海軍がどのような毒ガスを制式化(兵器として正式に採用する)していたのかをみておこう。次頁の表3に示したように、陸軍は毒ガスの性質ごとにカラーネームを付した上で、番号を付けて呼称した。一方、海軍は毒ガスを「特薬」と呼び、性質ごとに番号を付した。以下に掲げる日本軍の毒ガスは、第1次世界大戦ないしはその後に欧米列強が開発したもので、日本軍独自の新しい毒ガスの開発には成功しなかったと言われている。

 










・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章
毒ガスは消えず

苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査

 13日、私たちは崔先生に教えていただいた通り、もう1人の証人―黒竜江省商業庁に周乃栄先生を訪ねた。周先生は今年67歳でやはり退職しておられた。私たちが崔先生の被毒のことを話すと、周先生は私たちに重要な補足をしてくださった。
「当時私は団(共産党青年団)書記と補導員であり、又自然科の教師をしていた。私たちの学校は昔の偽龍江県の役所の建物だった所で、建設しようとしていたのは教師の宿舎だった。建築場所は元の日本人の家で、対外的にはそこは日本の『薬品工場』であると言われていた。工事は煙突の基礎を取り払おうとしていて、普通のガソリンの物よりやや小さく大体3分の2ぐらいの2つのドラム缶を掘り出した。これはかなり綺麗なもので、上には3つのネジ蓋の他に2つの輪が付いていた。




 



毒ガスの工場の焼却

大久野島国民休暇村


日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
糧穀の略奪
(冷酷非情な取り立て)

引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳


老婆は悲鳴をあげ、うつぶせになり、土間の衣類櫃の所でしたたか頭を打ち付けて、「ウーン」と、うなっている。子どもは泣き出す。壁をドシンドシンと突いて、とうとう突き崩してしまった。積んである粟殻をひっくり返す。高粱殻をプツリプツリと槍で突き刺しているものもいる。引地は、李警長に、「おいっ、あの納屋を調べろ」と命じた。李警長は、外の班員とともに納屋に走って行った。息子は、垢の付いたひび割れた大きな手を固く握り、つりあがった眼を光らし、ジロリと引地を睨んだ。








 


●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告

和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

第2『衛生学校記事』裁判の問題点と争点

第4 私達の情報公開裁判闘争の目的

 
 このような経過を経て、自衛隊の中には対生物戦の専門部隊が、2007年に創設された「陸上自衛隊中央即応集団」隷下の衛生部隊として編制されました。
また、2015年に改訂された新「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」で、「作戦支援活動」として「CBRN(化学・生物・放射能・核)防護」が重視されています。このような背景の下で自衛隊が米軍と結託して北朝鮮や中国に対して謀略的な生物戦を実戦展開する危険性が指摘されています。




DEMO RESE TV「731部隊の真実part1」





第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1



金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
二 生物・化学兵器と階級的視点

生物・化学兵器と階級的視点


生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)
1969年7月2日

自然のバランス崩す

1、すべての兵器は人の生命を破壊するが、生物・化学兵器は、その効果を生き物だけに対して発揮する兵器の部類に属する。生物兵器が故意に病気をまき散らすために使用できるという考えは、人々に恐怖の念を生じさせる。ある種の化学薬品や細菌は場所と時を問わず、その潜在的な力が無限であるという事実、また、それらを大規模に使用すると、自然のバランスに有害かつ取り返しのつかない影響をもたらし得るという事実はこの種の兵器の存在によって生じる不安の念と緊張感を増大させる。これらの点を考慮すると、現在続いている軍備競争に関しては、これらの兵器は独自のカテゴリーに属する。







第5代衛生学校長

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)




イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
水俣病問題
小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
小泉親彦と宮川米次の絆
ヒロシマからフクシマへ
宮川正
「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
ビキニ「死の灰」世界各地へ
自衛隊とサリン
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
日本の国家機密
兒嶋俊郎さんを偲ぶ



●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。






●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!




第13章 遅すぎた降伏

 天皇と木戸が当初から東郷の立場に立ち、4条件派の軍指導層に反対していたかどうかは疑わしい。両者はともに、即時に無条件降伏するよりは自滅的な戦争の継続を望む軍人や文民の徹底抗戦派に、いまだに同調していると思われる節があったからである。8月9日、近衛が細川護貞を軍令部に出向かせ、ポツダム宣言受諾を天皇に説得するよう弟の高松宮に(木戸を通じて)働きかけたり、さらにその午後遅く、4条件派に立つ木戸を説得しようと近衛は外交官重光葵の助けを借りたりしているからである。実際、木戸は、高松宮や重光に説得されて東郷の見解に立場を変えたのである.