細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

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731部隊・100部隊のパネルの貸し出し予定 

7月27日(月)~31日(金)

「戦争の加害」パネル展 

かながわ県民センター1階展示室

 

●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
 ※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、                             毒ガス訓練写真

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

  

 


 

 

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp

 

 

1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

 

1月5日

晴風寒し 最高4度 最低20度 お昼の炊事係僕です  ご飯が炊ける様になった―タコのス味?僕の腕前も立派になった独身生活する可能性多々有

又酒?新年宴会だからなと 云ふて呑むわけではない勤務中だからな・・・地方では酒の出る所だ 忘年会だ 正月だ 年始回りだ2日だ3日だ酒々々々々々々々々5日の新年宴会また酒々々々か  中隊から電話・・・その内容・・。「鳴―々 モシモシ炭坑ですか」「は―いそうです」「斎藤おります?」「斎藤デス.誰方ですか」「ほんと―斎藤?斎藤? 」「そうですよ」小さい声でうるさいな「ヤイヤイ 斎藤、俺を知ってるかい」「ウームわからないです」「ぼやぼやするでない」「中隊の山本知らんか」「ヤイコノ山本大きな事云ふな 斎藤々と安売りではあるまい」「まあ、そんなに怒んな女の声で話をするよいいか」「よろしい用事は何だい?」「あのね斉藤さん、私 今日外出するのよ」「勝手にしろ 勤務しているのを知らんか」「鞍山の活動に行くの」「山本、女の声はやめろ活動はないよ」「ありますよーだーよー」「用事は何か」「活動見に行くから斉藤に知らせて喜んでもらうんだ」「食わしたなー山本さんお土産たのむよ」「オーライ高盛堂ハオ・・ナ」「テーラ」「では行くよ」「たのむよ」

 

 ●パネル展「日中戦争―その実相に迫る!」感想(2020年2月8日~13日)

 

 

2月9日(日)

17. 子どもがべトちゃんドクちゃんの写真にショックを受けていました。小さい子に対して、どのようなことが起こっているのかうまく説明できません。今の学校の教育ではさほど教えていないと思います。戦争について、もっと子どもたちに教育していく機会が必要と思います。たまたま去年も上の階で年1回の打ち合わせがあって立ち寄りました。同じ人々の活動かは分かりませんが、今後も続けてください。ありがとうございました。(女、40、市内、偶然)

 

 

 

 

 

 

 

 

    

●映画「ひろしま」アンケート(1月13日 横浜)

( )は性別・年代・住まい・情報

60.戦争の被害面だが原爆のことを映画を通して思い出した。伊福部昭の音楽がとても効果的だった。平和を願う作曲家だった。多くの関係者の皆様「上映」の準備をして下さってありがとうございました。

(男性・70代・市内・朝日新聞)

 

 

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!


●細菌戦
【真相】(unit731)

・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)

 

V 私は中国軍の捕虜だった

<ー総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

「あの兵器は、陛下がお許しにならぬ」
 石井部隊長は着任すると、部隊業務の重点をそれまでの研究から兵器生産へと転換した。彼は、まずペスト兵器の量産を呼号し、約3000名の全隊員及びその家族に鼠の飼育を命じた。私も宿舎で鼠を小箱に入れて飼育、量産につとめる羽目になったのであった。
 こうして量産した鼠をペスト菌に汚染させる。これらのペスト感染鼠を餌にして、蚤を飼う。鼠の斃死とともに、蚤は鼠を離れ、ペスト蚤となるのである。広大な作戦地にこのペスト蚤を放ってこれを汚染地とするには、ペスト蚤をトン・プランで生産しなければならぬ、ということであった。

 

 

 

・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 

 

堀口正雄供述書(1954年8月28日)

問:牡丹江で憲兵分隊長をしていた機関の活動と、犯した犯罪行為について詳しく述べよ。

答:1939年の初め頃、牡丹江市で牡丹江の軍情偵察をしていた3名の抗日地下工作員を逮捕し、拷問を加えたのち、憲兵隊長に報告した。それから司令官の許可を受けて、1名を「特移扱」でハルピンの石井機関に細菌実験のために送り込んだ。ほかの2名は検察庁に送られ処刑された。また、1939年5月と6月に前後して、東京城に潜入した5名の抗日連合軍の隊員を逮捕し、拷問を加えたのち、2名をハルピンの石井機関に「特移扱」として送った。2名は検察庁送りとなり、1名は特務機関に引き渡した。

     (1)119-2、40、1、3

 

 

 

  

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

4 対ソ戦を想定した毒ガス兵器開発と人体実験

 

中国東北での大規模な毒ガス演習

 

 事件後、参謀本部と関東軍司令部の関係者の多くは責任を問われて更迭されたが、参謀本部作戦課長を務めた稲田正純大佐は1939年秋に陸軍習志野学校付となり、以後、彼を中心として対ソ戦を想定した大規模な毒ガス戦演習が中国東北地方で始まっていく。稲田大佐は、ソ連との戦争が始まった場合、堅固なソ連軍の陣地を突破することが日本軍の作戦上重要だが、そのためには膨大な量の砲弾が必要になるので、「既に之等闘資材の相当行詰りある今日、之が打開を求めて当然想起するのは毒物なり。瓦斯並びに細菌の使用なり」として毒ガスや細菌兵器に関心を寄せたうえで、「満州国」東部からのソ連領内への侵攻作戦で毒ガスは威力を発揮する「絶好の機会を発見し得」るとして、即効致死的な毒ガスの大規模放射やイペリット弾の大規模集中射撃などの毒ガス用法について論じており、最後に、「化学戦は国軍にとり極めて重要なり」としたうえで、大規模集中的で急襲的・攻勢的な使用を提言していた(稲田大佐「化学戦概論」)。この意見は、稲田大佐の個人的な見解も含まれているだろうが、参謀本部の作戦課長を務めた者が毒ガス兵器や細菌兵器を対ソ戦の構想の中でどのように位置付けていたのかを示すものとして注目されるものである。

 

 

 

 

  

  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第12章 癒しがたい傷

付記・忠海病院及び行武正刀院長訪問記

 私はもっとたくさんの問題を尋ねたかったが、もう12時になっていた。間もなく船に乗って大久野島へ向かわなければならない。行武先生も意を尽くせなかった様子で、1つの資料を取り出して私に下さった。それは大久野島で被害を受けて亡くなった人の慰霊碑の説明で、被害者の数、病状などが書かれていた。表紙は慰霊碑の写真であった。大変荘厳な記念碑で、大きな自然石を組み合わせて構成されていた。これが日本における碑の特徴である。上のほうが主要部分で、大きな石の上に「慰霊碑」の3文字が書かれている。下には3つの巨石があり、平らに削られた面に碑文が刻まれている。

「これは1985年に建立されたものです。その目的は毒ガスのために生命を奪われた大久野島毒ガス工場の人たちを追悼するためですが、それと共に、被害者に対する援助活動を推進するためでもあります」と説明した。

※ここには中国の毒ガス犠牲者については全く触れていない。

 

 

 

 

              毒ガス工場の焼却

 

 

現在、大久野島国民休暇村

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

細菌戦ー731部隊の蛮行

 田村良雄(たむらよそお)防疫診療助手 兵長

(略歴〉

1939年5月  元関東軍防疫給水部本部(731部隊)に入隊

1943年3月  退職

1944年3月  元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊

1945年8月  元関東軍125師団軍医部兵長

1952年6月  逮捕さる。河北省永年県において

 

本籍地=千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢=34歳

 

大木は、さっきから須藤と私を交互に見ております。大木の視線に合った私は、消毒薬で須藤の全身を拭き始めました。平静を装うために私はできるだけ乱暴に行ないました。「よし、科学者は冷静であるべきだ」課長は私を褒(ほ)めたんだな、と感じ取った私は、中国人に対したと同じように消毒薬を浴びせました。消毒薬の冷たさで正気に返ったのか、うつろな目を見開き左右を見回そうとして首を動かそうとしました。動かすごとに首かせが食い込んでいきました。

「班長殿、班長殿、胸が・・・胸が・・・・」顔をゆがめもだえたと思うと、グーグー口からドス黒い血を吐き出しました。「班長殿、班長殿」と須藤はこの病気に感染して以来ずっと叫び続けてきたであろう、治療を要求しておりました。

 

 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告

和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

第4 私達の情報公開裁判闘争の目的

1号の94頁には、2号(19578月号)の予告が掲載されていますが、2号には園口忠男氏が「生物戦研究は一般社会に役にたったか?」を発表しています。このように731部隊時代の研究成果を交えた細菌戦(生物戦)研究論文が掲載されています。

 旧日本軍は、日中戦争中、731部隊や1644部隊などの細菌戦部隊を使って、細菌兵器開発のために中国人等に人体実験を行ない、更に実際に中国各地で細菌兵器を使用し、中国全体で数万人にのぼる膨大な犠牲者を出しました。

 これは、1925年のジュネーブ・ガス議定書が禁止する「細菌学的戦争手段」に該当し、著しく残酷で人道上決して許されないものでした。

 

 

 

・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷

緊急事態宣言が出たため、4月の裁判は延期になりました。

 

・次回 2020年6月3日(水)11:30~ 東京地裁522号廷の予定でしたが、

新型コロナウィルスの影響の為、延期になりました!!



第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊


第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1          


金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み

1、 生物・化学兵器の開発の歩み

恐るべき人体実験

 

また、昭和17年には次のような謀略行為を行った。

南京の俘虜収容所に収容されている中国人約3000人に対してチフス菌を注射器で注入した饅頭を食べさせた。

第643支部衛生兵であった古都が証言している。

(答)「饅頭は細菌で汚染した後、収容所に送り、そこで中国語を知っていた通訳春日がこれらの饅頭を中国軍の俘虜に食べさせるために配布した。そして中国軍の俘虜は、チフス及びパラチフスの流行を惹起するため、収容所から全員が出された。」

 ベトナムで毒入りキャンディを米軍が配った事実が報道されたが、石井部隊は細菌で汚染したビスケットを配布したこともあった。

 

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 
2001年ピュリッツァー賞受賞


※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!          


第12章大元帥の試練

 

典型的な舞台裏の人物である木戸は、かつて天皇とともに東条を高く評価していたが、東条倒閣に際しては中心的な役割を担っていた。東条の後継首相、小磯国昭大将の在任中、木戸は天皇とともに陸海軍の海軍の戦争推進派を支持しつづけた。換言するならば、東条の辞任は、天皇や木戸の戦争終結の意図を示すものではなかったのである。

東条の失脚後、天皇は戦争に楽観的ではなくなった。それにもかかわらず、天皇も木戸も依然として早期和平の実現を考慮しようとさえしなかった。B29が間もなく東京を空爆することを十分に知っていながらである。同じことは、近衛公爵の周辺で「和平工作」に関わった多くの重臣にも当てはまる。