細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係

731部隊の行なった細菌戦


731部隊・100部隊のパネルの貸し出し予定
4月16日(木)~6月29日(月)
アウシュヴィッツ平和博物館(福島県白河市)
「日中戦争における馬と兵隊ー100部隊」

731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書)

第1章 二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する
温暖化で山火事が起こる?
2009年2月にオーストラリア南部で森林火災が発生し、数百の人命と数千の家屋が失われ、オーストラリア史上最大の森林火災による災害となった。そのため、旱魃(かんばつ)や猛暑が原因だと騒がれたが、最大の原因は、人口増加で住宅地域が広がり、自然な森林の内部にまで人間が進出していったことにあった。また、先住民のアポリジニが数万年という長い歳月にわたって続けてきた野焼き(ブッシュファイア)が、西欧環境保護団体のヒステリックな「自然破壊」という反対運動のためにできなくなり、長年、森林が手入れされずに放置されていたことが、延焼を拡大した原因であった。


●核実験(ウキペディアより)
若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?
月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子
インド
詳細は「インドの核実験 (1974年)」および「インドの核実験 (1998年)」を参照
1974年5月18日 ラジャスタン州ポカラン砂漠で初の原爆実験。
1998年5月11日・13日 熱核反応装置(水爆に相当)実験に成功。



水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)


●核なき世界へ!!
Toward a Nuclear-Free Future


人体実験疑い 京大調査継続せず
今につながる問題!!
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません


731部隊全景

100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。

細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。

中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。

日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。   
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―

731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
                
7 部隊全景

8 731部隊の始まり                  
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験     
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に

100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに

(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚) 


2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)


3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)



4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真



5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地

6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後                                                
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。


3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp






「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日


●パネル展「日中戦争―その実相に迫る!」感想(2020年2月8日~13日)

10. 強制連行、虐殺、毒ガスすべて、印象的。中国の国に戦争を仕掛け、滅ぼしたこと、本当に申し訳ない思い。謝っても謝りきれない。自分の身だったらと思うと死んでも死にきれない。ありがとうございました。(女、60、市内、折込み)

●映画「ひろしま」アンケート(1月13日 横浜)

( )は性別・年代・住まい・情報
17、重みのある映画、映像が縦長?残念です。出来たらお友達の映画館でやって頂けたら嬉しいです。
(女性・70代・市内・講演会)



日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●細菌戦
【真相】(unit731)
・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)

Ⅲ ペスト攻撃班、恐怖の実戦秘録
―第2部5課(攻撃・実戦担当)K・S
マニラで細菌戦の予備訓練を受ける

こうした「実戦」出動は、私に関する限り1回だけであったが、何回かは行なわれたはずである。5課では、この「実戦」出動に備えて、中国人に変装する訓練さえ行なわれたのであった。
その際、特にくどいほど注意されたのは、顔の洗い方である。どんなにうまく中国語が話せても、あるいはどんなにうまく中国人に変装しても、顔の洗い方でバレてしまうと言うのである。ふつう日本人は両手で洗うが、中国人は片手で顔を洗う。うっかりしていると、無意識のうちに、日本人の習性が現われてしまう。しかし、顔の洗い方1つが、まかり間違えば命にかかわる重大事である。みんな真剣に中国式の洗顔法を習得したのであった。

*第5課はペスト菌担当で班長は高橋正彦であった。



・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

二 大規模な細菌生産と残虐非道な人体実験

山内豊紀自筆供述書(1951年11月4日)

このほか石井部隊の人体実験は、我々の班で行なったもの以外に、私の知るところでは次のようなものがあった。
凍傷、耐寒実験について。
我々の研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人が見えた。吉村博士(生理学専門家)は6名の中国人に一定の重荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。見ていると、彼らは日増しにやせ衰え、徐々に凍傷に冒されて、1人1人減っていった。12月上旬になると1人もいなくなったので、死亡したに違いない。

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発
1、第1次世界大戦と毒ガス戦
毒ガス戦の幕開け
窒息性毒ガスに対してガスマスク(防毒面)が開発され防御が可能になると、新たな性質を持つ毒ガスが登場した。ドイツ軍はジフェニルクロロアルシンとジフェニルシアンアルシンというくしゃみ性・嘔吐性ガスを開発したが、これらは常温で固体で、これを充填したガス弾が着弾して爆発する時に生じる熱によって非常に細かい粒子となる。これを吸い込むと激しい苦悶状態に陥り、回復までに30-40分かかるとされるが、このガスはこれまでの防毒面では防御することができなかった。このガスを使用して、苦悶する兵士が防毒面を脱いだところを見計らって、窒息性ガスで攻撃するという戦法が採用された。


・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
毒ガスの焼却
こうして、甘い餌と威嚇によって、どうにかこうにかこの工場を取り壊したのである。ところが、これが、労働者たちの不安を一層掻き立てることになった。多くの労働者たちはこの時、自分が島で働いたことを証明できるすべての証拠を、同時に焼却してしまったのである。こうすれば自分もこの罪深い島との関係から抜け出せると思ったのだったが、この島との関係は一生かかっても断ち切れないものだということには思い至らなかったし、又思い至ることは不可能だった。




日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題




●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
軍医の野天解剖
小美野義利
戦務班長 憲兵曹長
〈旧部隊名〉
関東軍特別警備隊2大隊本部

山垣内に押さえられている35、6歳の中国人は、ボロボロに引き裂かれた上衣から赤銅色の厚い肩をブルブル震わせ、怒りをむき出しにしていた。小笠原軍医は今度は俺の番だと言わんばかりに、血でグシャグシャになった地面を見ていたが、小美野に、「ここへ草を敷いてくれ」と、言いつけた。桐原と小美野は草を敷き詰めた。土倉衛生曹長が注射器を持って立ち上がった。
「ここへ寝かせてくれ」小笠原軍医は眼鏡をずり上げながら、山垣内と小美野に眼を走らせた。2人が「こっちへ来い」と怒鳴り、押しても引いても中国人の足は土にめり込んだように動かない。太田曹長は「歩け」とうなりながら、刀の峰ですねをなぐりつけた。不意に後ろから叩かれた中国人は横倒しになった。桐原と山垣内は足首をつかみ、ずるずると引きずったが、怒った中国人にポンと腹を蹴られた桐原は血海の穴に落ちそうになり、「ギャーッ」と悲鳴をあげた。


●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作ってもいいのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える



●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

第3『化学学校記事』裁判の問題点と争点

私達は、被告国の主張を覆す証拠として、上記の藤井治夫氏が収集した資料の保管者から提供を受けて『化学学校記事』16号(1970年発行)の写しを法廷に証拠として提出しました。
しかし被告は、『化学恰好記事』16号が1970年1月に発効された事実を指摘されながら、不合理にも認否を拒否し続けました。
私達が被告の不誠実な訴訟態度を強く批判した結果、ようやく被告は2020年2月の準備書面で、『化学学校記事』第16号に関与した人物1名に接触し、『化学学校記事』16号の発行の事実を初めて認めました。しかし、その一方で「高齢であって体調面にも大きな不安があることから陳述書作成に協力を得られなかった」と弁明し『化学学校記事』がいつまで発行されていたのかを調査しようとしません。


・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)
緊急事態宣言が出たため、4月の裁判は延期になりました。東京地裁419号法廷

・化学学校記事」情報公開裁判 (第16回)
次回 2020年6月3日(水)11:30~ 東京地裁522号廷



第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊





●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
爆発赤痢事件

爆発赤痢事件というのは、文字通り、爆発的に発生した集団赤痢事件、12332名が発病、712人の死者を出しいる。当時、この事件の調査団(内務省予防局防疫課、県衛生課、医学陣、陸軍省医務局、久留米12師団軍医部によって編成)は、約50日間にわたって調査を行ない、「水道汚染以外には到底考えられない」との結論を出した。このため当時大牟田市の水道課長であった塚本久光さん(1950年9月、50歳で逝去)は、引責辞職を強いられた。

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!

第12章大元帥の試練


当時、天皇はソロモン作戦と、ヨーロッパの戦況を懸念していた。このころになると、欧州戦線も枢軸側に不利となり、このため陸軍は5号作戦の準備を中止した。しかし、ラバウルの第8方面軍司令部では、海軍に対する不信が根強く、また参謀将校の多くは自尊心が強いためにガダルカナル撤退の必要性を公然と認めることができなかった。まして、敗退を利用して陸軍全体を再編することなどできなかった。