細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


黒岩知事に抗議!
第5回 三多摩平和交流会
旧日立航空機(株)変電所ほかフィールドワーク
脱原発!!
もっと知りたい、見つけたい(peace8)八王子
佐々木寛講演会
前川喜平講演会
東京発!“核関連施設立地地域と東京を繋ぐ”核燃料サイクル計画映画制作プロジェクト
「日本の毒ガス戦と遺棄毒ガス」展
「医学者たちの戦争犯罪ー731部隊・100部隊」展
「731部隊犠牲者遺族の声を聞け!①のご案内
沖縄と枯葉剤
日本はこういう国だった  戦後に生まれたあなたに
2019 平和をねがう中央区民の戦争展2
天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
北支那防疫給水部留守名簿
平沢正欣論文を検証する(人体実験は行われたか?)
武蔵村山の国立感染症研究所問題!!




日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

人体実験疑い 京大調査継続せず
今につながる問題!!
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

731部隊・100部隊のパネルの貸し出し予定
8月10日(土)~8月11日(日) 東京都中央区の戦争展
9月8日(日)~9月13日(金) 岩手県盛岡市の戦争展
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません


731部隊全景

100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。

細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。

中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。

日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。   
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―

731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
                
7 部隊全景

8 731部隊の始まり                  
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験     
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に

100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに




(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚) 


2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)


3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)



4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真



5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地

6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後                                                
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。


3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp






「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日


●横浜「戦争の加害展」感想


2月15日

21.朝鮮への侵略の歴史が少しだけあったのは良かったと思います。毎年開いていただくことで少しずつでも事実が広がり加害の歴史を受け止める人が多くなることを期待します。(男性、60代)

●(「琉球処分」から140年、今の沖縄を考える)パネル展感想

90.「琉球処分」という言葉もよく知らなかったので、びっくりしました。日本の中国やアジアへの侵略戦争は大変ひどいことだと思っていた。沖縄が戦時中受けた被害や今も続く辺野古の基地建設強行、米軍からの被害、よくわかるパネル展示でした。そもそも「琉球処分」から…。子どもが中学生の時(今高校生)育鵬社の歴史教科書だった。ひどい教科書だとはおもっていたが、琉球処分のこともちゃんと記述されていなかったことを改めてわかった。(女.40.市内.会場で)



●細菌戦(『三光』より (篠塚良雄、旧姓田村良雄)

大木の顔を一目見た宇田は、解剖刀を受け取ると、切るところを見極めるために須藤の腹をなで始めました。治療してもらっているんだ、と思い込んでいる須藤はあえぎの中から「課長殿、すみません、早くしてください。苦しいです。早く早く」と叫び続けました。解剖刀を持った宇田の手は、かすかに震えていました。
解剖台から一歩ひいて眺めた大木は、ヒステリックな声で、「早くやれ」と怒鳴りました。「須藤、成仏してくれ」宇田は解剖刀を逆手に握ると上腹部に刺しました。





●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より

第7章  残虐な毒ガス戦

瀕死の抵抗―山西汾陽(フェンヤン)における日本軍毒ガス使用の罪状

付記:将軍の証言

将軍の日記の中に、日本軍が無抵抗の民間人に毒ガスを用いた惨状を記録した1ページがある。
1942年3月7日、要塞において、「毒ガス!!」
今日午後の自由時間、私は周維兄と渉県まで散歩に出た。通りにさしかかると突然、笛太鼓の音。芝居がかかっているのかと思って、行ってみると葬式の行列であった。1人の青年が言った。「日本の野郎ども、今度は家に来て飲み食いどころじゃない、手当たり次第に毒を撒いた。高粱がらが散らかっていた。母親が帰ってきてこれを片付けたら、触った途端、手に水膨れができて、しびれ、全身が腫れて、頭痛がし、医者もなく、1日も経たないうちに、もう・・・・」。青年はここまで喋ると顔を覆って泣き出した。私たちもそれ以上尋ねることもできず、悲痛な思いでその場を立ち去った。







●証言 人体実験(731部隊とその周辺)
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

1、第731部隊本部

秦正氏供述書(1954年9月14日)

問:研究会の状況と自身が研究を行ったことを述べよ。
答:その研究会は731部隊長の北野の主宰で、通常、毎月1回開かれた。出席者は経理官、衛生将校のほか、各部の少尉以上のメンバー及び少尉相当以上の技師は誰でも出席できた。通常は4,50人出席するだけだった。研究会で発表されたのは、主として各部門の1ヵ月来の研究活動報告であるが、すべての部が報告するとは限らなかった。私が出席していた頃、研究報告で一番多かったのは、第1部の細菌兵器生産に関する基礎研究の報告である。発表者は主に二木技師、高橋正彦軍医少佐、吉村寿人などだった。私自身は、この会で2回補足報告を行った。1945年1月、高橋正彦は3名の中国人にペスト菌を注射し、肺ペストと腺ペストを発病させた後、日本製のサルファ剤を使って「治療」を試行して死に至らしめた件について報告した。当時私はソ連のペスト研究に関する論文を翻訳していたので、その内容について補足し報告した。1945年1月、第1部吉村班の武藤技師が中国人1名に、多量の食塩を使用して基礎代謝の実験を行い、毎日若干量の血液を採取して測定した結果、食塩の増加によって基礎代謝が高まるという結論を確認した。武藤がこの報告を行ったとき、私は「基礎代謝の向上に潜伏期はあるか」という質問をし、結果として彼の研究を助けた。




●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳

■狂信的な健康への意志
57.内科と自然療法の大学教授であったカール・ケッチャウは、全力を挙げて、彼がその代表である専門領域を選別と除去の組織に組み直した。それはある種の内的論理をもっていた。つまり彼は「慈善看護に代えて戦闘的予防を」という原則を宣伝したのである。「古いスタイルの病院」を建てる代わりに「衛生病院」をつくることに彼は尽力した。この病院では「健康になり、生産力を高めることを目指さ」なければならない、と彼は言う。「目標はあくまで健康と生産力である。」ある程度の乳幼児死亡率は、彼にとって、選別の一形式を意味するものであった。戦争も同様だ、と彼は考えた。「このような戦争の中では、役に立たない者は選別される能力を持たない」と彼は1944年ナチ党のフランケン管区指導部の内部報告新聞に書いている。さらに彼はこの新聞でこう付言している。「外国人であるユダヤ人によって精神活動の上層部が占められたため、多くの人間が自分たちの人種の力を信用できなくなり、今日なお民主主義に依拠するユダヤ人が誇示しているような、ごたまぜの統一的血統こそが追求に値する人類文化の目標であると考えるようになったのだ。」


●自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作ってもいいのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

●「化学学校記事」情報公開裁判
次回 11月13日(水)11:30~ 東京地裁522号廷


●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
12月12日(木)14:00~419法廷

金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
しかし、それも一致するだけで、寄贈されたものではないという。
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊


第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

『BC兵器』 久保綾三著(1969年)より

2、ベトナムにおける生物・化学兵器使用とその背景

アメリカにおける生物・化学兵器の開発


BC兵器の軍事研究は軍付属施設以外でも、注意深く行われている。1960年度において、陸軍のBCW研究は4200万ドルを費やした。これらの18%が軍以外の民間研究所で使われている。ステュブ将軍はこのことについて議会で、1961年の全計画の33%が民間研究機関に、1962年には43%が使用されていると証言している。
2年後、デルモア中将ー化学部隊の責任者ーは化学兵器の研究費を大幅に増額し、大学と民間の研究機関での研究計画を拡大したと証言している。
民間の研究機関では、宇宙航空会社にまでBC兵器の研究を契約している。
その中にはリットン社、スペース・ゼネラル社、ブーズ・アレン、ノースアメリカン・アビエーション、ロッキード社などの名が出ている。





●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

第10章 戦争の泥沼化と拡大

7月10日、畑陸軍大臣と閑院宮参謀総長は軍備について内奏するため葉山に向かった。昭和天皇は中国の「桐工作」が失敗に終わったら、少なくとも 「第3国を仲介に利用することとなるが、(中略)結局独といふことになるがうつかり頼むと後にて難題を持かけらるゝが如きなしとせざるを以て、此辺十分準備行動を要すべし」と述べた。中国に数多くある陸軍諜報機関のひとつが、1939年12月末に香港で開始した和平工作は、宋美齢(蒋介石の妻) と宋子良 (宋美齢の弟を自称)を標的としていた。この発言の時点で、昭和天皇は、交渉の打ち切りや再開を繰り返していた重慶政府との秘密交渉を、もはや重視していなかった。交渉は、日本軍の中国駐留、満州国承認、停戦協定、南京の汪兆銘政権の位置付けをめぐって堂々めぐりを繰り返していた。一方、昭和天皇は、ドイツを利用すれば高い代価を支払うことなく、中国と和平を結ぶことができるとの確信を持っていたわけでもなかった。