細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


「あいちトリエンナーレ2019」
2019  所沢
元徴用工の強制労働めぐり 不二越に謝罪と賠償求める/富山
京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
日本の毒ガス
北支那防疫給水部留守名簿
人骨発見から30年
日本軍の毒ガス戦
7.7「戦争を始めた日」国会前集会
ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却 1949-1956
旧陸軍毒ガス詳報、確認 中国北部で使用部隊が記録
平沢正欣論文を検証する(人体実験は行われたか?)
記憶の継承を進める神奈川の会
沖縄
戦争とは何だろうか??
軍事研究に関する学長声明  龍谷大学 学長 入 澤  崇
第24回  スタディツアー 事前学習会
長崎731部隊・100部隊パネル展
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
武蔵村山の国立感染症研究所問題!!





日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

人体実験疑い 京大調査継続せず
今につながる問題!!
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

731部隊・100部隊のパネルの貸し出し予定
8月10日(土)~8月11日(日) 東京都中央区の戦争展
9月8日(日)~9月13日(金) 岩手県盛岡市の戦争展
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません


731部隊全景

100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。

細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。

中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。

日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。   
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―

731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
                
7 部隊全景

8 731部隊の始まり                  
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験     
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に

100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに




(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚) 


2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)


3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)



4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真



5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地

6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後                                                
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。


3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp






「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日

●横浜「戦争の加害展」感想

2月14日
・真実が不明なことが多すぎると思う。もっと語ってほしい。戦後70数年、本当のことを知りたいとみみんなが思っています。(男性、60代)



●(「琉球処分」から140年、今の沖縄を考える)パネル展感想

後田多敦氏の講演会場で回収。

29.沖縄について、過去の歴史が、今まであまり知られていなく、また、認識がかなり異なっていることを思い知りました。歴史教育のあり方、教科書を編纂する場合の立場によていかに変わるか、恐ろしい気がした。(男60.市外.友人)

●「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

解説
―この作品の信憑性について―
編集部       竹村 一
(2)

そのほか、いろいろ明らかになったことがある。例えば、西教育部長と書かれてあるのは、西俊英中佐のことである。西俊英中佐は1943年1月第731部隊教育部長に配属され、一般部隊付特別隊(一般部隊とは軍属の部隊だと考えられる)の細菌戦実行専門要員の養成にあたった。彼は、1945年8月ソヴェト軍の接近に際し、鬼畜の証拠隠滅をはかった残虐なる「マルタ」の大量焼殺、および731部隊の造営物、設備、一切の文書の焼却の命令者であり、責任者である。西俊英中佐は、ソ同盟最高ソヴェト常任委員会法令第1条により、18年の刑を科せられ、収容所に収容された。本年6月11日収容所より、釈放され、内地に帰ってきた関東軍司令官山田乙三大将は、西俊英大佐と10年間起床をともにしている。
ちなみに山田乙三大将は、関東軍司令官として、関東軍直轄の第731部隊の責任を問われたのである。山田乙三大将は、裁判所において、次のように供述している。
「第731部隊ハ、関東軍司令官タル私ノ直轄下ニ在ッタ。第731部隊ニ対スル、細菌兵器ノ製造並ニ其ノ実用等ノ諸問題ニ関係アル戦術上ノ指導権ハ私ガ有シテ居タ。之ハ、敵国ノ軍隊ニ対シテ、細菌兵器使用ノ必要ガ発生シタ場合、之ニ関スル命令権ハ、私ノミニ在ルコトヲ意味シタ。何故ナラバ第731部隊ハ関東軍司令官タル私ノ直轄特殊部隊デアッタカラデアル」(「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ罪デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」外国語図書出版所、モスクワ1950年版)






●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より

第7章  残虐な毒ガス戦

第11軍の長江両岸に沿った進攻

8月22日早朝、日本軍第11軍は瑞昌方向において大屋何、城子鎮に向かっての進攻時に窒息性毒剤の赤筒420個を使用、国民党第81師団の2個大隊の官兵は、これより以前に負傷し前線を退いていた隊長(李戈)、小隊長1人、兵士2人の被毒は比較的軽かったが、他300余名の官兵は毒に当たった後、1人残さず刺し殺され、その死体は累々と野に続き目を覆うばかりの惨状であった。








●天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
田中利幸
4)明仁宛公開書簡の目的―天皇「人間化」の試み

結論:「象徴権威」打破のための方法について具体的な思案を!

再度述べておくが、真の民主主義確立のためには、重大な戦争犯罪行為とその責任を隠蔽したまま、国民を国家権力に従属させるために、国家と国民統合の象徴として強力な影響力=象徴権威を発揮し続けている天皇/天皇制、とりわけ「我らの内なる天皇制」をなんとしても打破しなければならない。現在の「1億こぞって天皇万々歳」の状況下、天皇制打破は容易なことではない。この状況は、新元号の発表や天皇退位・新天皇即位などの儀式を安倍政権が大いに利用することで、「天皇のもとで平和な国民統合」という虚妄の「平和と統合」=実は「軍国化と国民支配」を推し進めていくことで作られているのである。まさに「彼らの内なる天皇制」の強化と浸透そのものである。こうした状況を打破しない限り、日本にとって明るい民主主義的な未来は決してやってこないのであろう。その目的に向かっての有効な一歩は、天皇を雲上から我々と同じレベルにまで引き下ろし、我々と同じ1人の人間としてみなし、取り扱うことができる社会を作り上げることであると私は信じる。



●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳

■進歩
ケーテ・フランケンタール(1889ー1976)は、社会衛生学者でドイツ社会民主党の衛生政策担当者で、1928年にベルリン=ノイケルンで開業医と校医の代表になった。彼女は、無料で避妊薬が配布される結婚・セックス相談所を開設し、保健衛生制度の枠内で、貧困家庭の人々のための住居、食糧、衣服の調達を組織した。1933年、「非アーリア人」の血統のため解雇された彼女は、プラハ、チューリヒ、パリを経てニューヨークへ亡命し、そこで精神分析医として働いた。





●自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、過去の旧日本軍の毒ガス使用の反省・謝罪もないまま新たな毒ガスを作ってもいいのだろうか??
日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

●「化学学校記事」情報公開裁判
9月4日 11:30~(522号法廷)

●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
9月26日(木)11:30~419法廷

金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
あとの資料はどこに消えたのか?
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。



第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

「衛生学校30年の歩み」によせて
12代目の懐想
第12代校長  新家 清
1か月後の11月9日の幹部教育で、受閲の心構えと各部の重視事項を示し、同日をもってD-Dayと設定し、実質的な検閲たる「補助官事前研修」第1日目である54年5月15日を第1回のV--Dayとして作戦を開始し、それぞれの分野において『全力投球』を要求し、準備の万全を求めた。校務整備については、私の着任直後の定期異動で副校長兼企画室長に着任した宮崎利雄陸将補(現陸将、陸幕衛生部長)に、彼の教官、教務課長あるいは教室長としての経験を活かして精力的に指導にあたってもらった。年が改まって、衛生記事「ふかみどり」の「新春所感」では、「事に臨んでは」と「戦闘力の維持増進」について述べ、業計2次指示受領直後の3月1日には、幹部教育の際、D-Dayまであと75日であり、受閲の結果は「良好」以上でなければならないこと、よろず「即日決算主義」に徹することを強く要望した。おりから、会計検査院実地検査の受検が54年度の初期に行われることになり、学校の真価を発揮できる千載一遇のチャンスと心得、益々「即日決算主義」により「全力投球」で当たるよう要望し、一層の精進を期待したのだった。



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


第9章 聖戦



ふたたび、日本は中国軍の早期壊滅を期した。1938年末、圧倒的な地上、海上、空中での優位をほしいままにした日本軍の攻勢は、事実上、あらゆる戦闘で大勝利を収めた。しかし、中国の抵抗は頑強なため、日本軍はしだいに化学兵器に頼るようになった(これには西洋に先例がある。もっとも悪名高いのが、第1次世界大戦、ドイツによる最初の毒ガス使用であり、そして1935年にはファシスト・イタリアがエチオピアでこれを使用した)。11月までに日本軍は華中の揚子江沿い〔湖北省の東部〕にある武昌、漢口、漢陽の「武漢三鎮」と華南の広東を占領した。日本軍は中国の主要鉄道の要衝を制圧し、中国でもっとも富裕で発展している沿岸諸省に飛び地を設けて支配した。蒋介石は、戦争の継続を宣言し、全政府を日本軍の追撃能力の及ばない、さらに奥地の山岳都市重慶に後退させた。