●人骨発見から30年
●日本軍の毒ガス戦
●7.7「戦争を始めた日」国会前集会
●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却 1949-1956
●旧陸軍毒ガス詳報、確認 中国北部で使用部隊が記録
●平沢正欣論文を検証する(人体実験は行われたか?)
●記憶の継承を進める神奈川の会
●沖縄
●戦争とは何だろうか??
●軍事研究に関する学長声明 龍谷大学 学長 入 澤 崇
●第24回 スタディツアー 事前学習会
●文学者の戦争協力
●北宏一朗さんを偲ぶ
●長崎731部隊・100部隊パネル展
●京大 学位授与問題!!
●長野平和の旅
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
●武蔵村山の国立感染症研究所問題!!


日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
人体実験疑い 京大調査継続せず
今につながる問題!!
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
731部隊・100部隊のパネルの貸し出し予定
8月10日(土)~8月11日(日) 東京都中央区の戦争展
9月8日(日)~9月13日(金) 岩手県盛岡市の戦争展
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません

731部隊全景
100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。
細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。
中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。
日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―
731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」

7 部隊全景

8 731部隊の始まり
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に
100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに
(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚)

2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)

3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)

4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真


5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地
2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地
6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地
貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル
⑥ 馬具補助パネル



※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。



3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝
※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp




●「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
●安倍政権の歴史改ざん政策(中国人ビザ発給拒否裁判)
エボラ出血熱のウィルスなど危険の高いものをなぜ輸入する?
日本は全く細菌戦の反省をしていない!!
危険性高いウイルスの取り扱い 住民に伝達 国立感染症研究所
危険性高い病原体扱えるBSL4稼働へ 武蔵村山の施設
●横浜「戦争の加害展」感想
2月14日
・初めて見る資料が多く、タメになった。こういう情報は語り継がなければと思った。今日は時間がなくて、見切れなかったので、また見に来ます。(男性、50代)
●(「琉球処分」から140年、今の沖縄を考える)パネル展感想
6 月 24 日
20.沖縄のことを自分事として考える人をもっともっと増やしたい!!「日米地位協定見直し」を各地から声を上げよう。(女.60.市外.チラシ)
●「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
解説
―この作品の信憑性について―
編集部 竹村 一
(1)
そこには、原因と結果が社会的、または歴史的につかまれない。ただその戦局の軍事的原因と軍事的結果があるのみである。あるいは、全体は、個々との関係においてあるのではなく、個人から独立して全体があり、個人は全体のもとに完全に従属する。権力はいついかなる時も、正しい。あるいは、生と死の間に対決する人間心理こそ絶対であると考え、この瞬間が最も偉大であり、価値あるという思想である。
これらの考えは、戦争をいかに、ありのままに客観視しようとしても、戦争肯定の立場に陥らざるを得ない。最も非人間的なものが、最も人間的なものと錯覚される。生死の境の絶体絶命の異常心理が、健康な普通の心理の拡大集中だと錯覚される。最も悲愴なものが最高の美となる。すべてが錯覚と幻想との上に成り立つ。
僕は、この『特殊部隊731』をいわゆる「戦記もの」とは思わない。特殊部隊そのものは、非人間的そのものであるが、この作品を貫くものは、まさに健康な人間精神そのものである。小社が『特殊部隊731』を刊行する理由はここにある。
●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第7章 残虐な毒ガス戦
山西曲沃(チューウォ)戦役(1938.7)
第20師団は指令を受け、第1から第4特種指導班及び迫撃砲第3大隊を配属し、1万8000個のあか筒を準備し、命令に準じて主力の攻撃、襲撃時にこれを使用するべく配置した。
作戦は曲沃付近の澮河両岸において展開された。7月4日、日本軍は中国軍の秦崗鎮駐地に対して毒ガス弾を発射。7月5日、日本軍第20師団は大砲、迫撃砲を用いて、盈村、南下村を守る中国軍陣地に向け毒ガス弾390発を発射し、3.3キロ四方の毒ガス汚染地区を作り出した。7月6日朝、35門の大砲を西陽村、白水村、西明徳一帯の中国陣地に向け約1600発の毒ガスを発射。5時20分、日本軍は曲沃東南において澮河南岸の儀門村、北樊村一帯、4~5キロ四方に向け噴嚏性の毒ガス筒6000~7000個を放出。

●天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
田中利幸
4)明仁宛公開書簡の目的―天皇「人間化」の試み
B.京都大学訪問の天皇裕仁への公開質問状
裕仁をあくまでも1個の人間ととらえ、その人間の感情に真剣に訴える、非常に感動的な内容の質問状である。「少なくとも1人の人間として憲法によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳を傾け、私達の質問に人間として答えていただくことを希望する」という要求は、我々に「天皇の象徴性」について熟考することを迫る。第1章で規定された天皇には「人間性」が完全に欠如している。我々生きている国民1人1人、喜怒哀楽を持ったその1人1人の人間性を、本来は「日本国民統合の象徴」である天皇が象徴していなければならない。ところが、そのまさに象徴である天皇には人間性を持つことが許されていない、この解決しがたい根本的な矛盾が憲法に深く根を下ろしているのである。
●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■医療の危機
■ドイツ国民の健康への奉仕
帝政と革命が倒れた後、社会参加を目指した医者たちは、新しい公衆衛生制度の樹立に希望をかけた。国立の公衆衛生組織がバラバラで影響力を持たない現状を克服するため、彼らは厚生省を設立し、統一的な保険制度をつくり、法律によって保証された、有効な、結核・性病・アルコール中毒克服の医療を行うことを要求した。レーテ運動が挫折してかなりの希望が失われ、当初の遠大な計画はその痕跡しか残らなかったものの、とりわけ地方自治体レベルでは、また社会民主党が政権にあるプロイセンでは、新しい社会福祉制度のモデルがつくられるようになった。
大都市には新生児介護センターや結核患者養護施設が作られ、アルコール中毒患者と性病患者の相談所、結婚・性衛生相談所などが作られた。経済的に比較的安定していた(1924年から1928年までの)数年間は、結核患者の死亡率と新しい感染患者の数が減少したが、それはとりわけ栄養状態がよくなり、健康重視の住宅政策がとられたためであった。


●「化学学校記事」情報公開裁判
9月4日 11:30~(522号法廷)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
9月26日(木)11:30~419法廷
金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
あとの資料はどこに消えたのか?
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
「衛生学校30年の歩み」によせて
12代目の懐想
第12代校長 新家 清
第4代学校長 金原節三陸将補が入隊着任されたのは30年8月で、在日軍事援助顧問団(MAAGJ)びウェルジー軍医中佐(翌年6月大佐に昇任)との毎週火・金曜日に行われた「日米衛生懇談会」については、開校10周年記念号の「衛生学校記事」に詳しいので割愛する。33年春、最後の米軍医務顧問ブリニ―大佐の帰国に際し、若干の米留を除いて衛生部門では軍事援助に値するものではないとの結論に達し、同部門の閉鎖が決定された。そこで、「米軍顧問団及び陸上自衛隊衛生部門の沿革と概要」となる報告書を作成する一方、陸幕衛生監 金原陸将のお奨めにより、同年8月30日、霞が関の陸上幕僚監部宛幹部志願票を送達したのだった。9月29日の医官採用試験びあと11月末に陸上自衛隊幹部採用予定通知書を受領し、12月19日、顧問団を人員整理のため退職し、翌20日付で衛生学校に入隊した。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第9章 聖戦
Ⅱ
閣僚が平沼の懸念に答えたあと、御前会議が午後2時、昭和天皇「御臨席」のもとに開かれ、広田外相からトラウトマン工作には何ら成功の見込みがなく、それゆえ、「支那との戦争の終結を目指して戦争による解決を強化しなければならない」との意見が出された。閑院宮は、参謀本部のために「国民党政権を完全に敗北したものとみなすような政策は慎重を期しいま少し保留する事」を口にしたが、会議の合意に従った。御前会議は、もし国民党政府が日本の提出した条件による和平の受け入れを完全に拒絶するならば、日本は国民党政府を承認せず、他のより従順な政権に和平を提案するという条件の文書を採択した。昭和天皇にとって最初の御前会議であり、大正天皇が第1次世界大戦参戦の裁可をして以来、25年ぶりの御前会議を天皇は軍正装で主宰し、そして裁可を与えた。70分に及ぶ会議に天皇は一言も発することなく臨席した。事態に対する天皇の中立性を保っているように見えたが、実際、昭和天皇は参謀本部の提案よりも、より強硬な軍事方針を強く支持していた。