細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


ABC企画委員会
防衛省731部隊情報公開裁判の途中経過から見えてきたこと
原子爆弾症研究者都築正男と米の核戦略
731部隊関連行事
(戦争と医の倫理)パネル展とシンポジウム
武見太郎と金原節三の関係
4月18日(木)ビザ発給拒否国賠裁判(最大の山場)
ABC企画総会・講演、「講演と合唱の夕べ」
情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演
731部隊関連年表
人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
日本の核開発(加藤哲郎さん)

日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

人体実験疑い 京大調査継続せず
今につながる問題!!
細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

731部隊全景

100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。

細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。

中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。

日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。   
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―

731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
                
7 部隊全景

8 731部隊の始まり                  
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験     
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に

100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに




(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚) 


2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)


3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)



4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真



5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地

6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後                                                
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。


3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp







●北京にも細菌部隊(1950年1月10日 AKAHATA)


部隊の存在を抹殺
隊長ら、背広で逃げ帰る

8月9日ソ連の参戦と同時に細菌戦研究所の人員は銃を持って張家口方面に出動して作業は不可能になりブラブラしているうち8月15日の終戦になった。
例の正午のラジオ放送の終わった20分後、篠田は細菌研究所の破壊を指令した。作業は3日3晩徹夜で続けられれ太。
中庭に大穴が掘られ、ノミをその内に入れ、ガソリンをかけて焼き払った。重要書類、細菌培養器具はすべて焼却された。ノミ培養の石油缶1万個はトラックで、どこかへ持ち去られた。
終戦7日目、私達は破壊作業を終わり、本部に集結したが、それと同時に中国国民党の目をごまかす為、部隊の解散が指令され、北支那防疫給水部の名称は終戦直後、北支那派遣軍の名簿から抹消され、所属の将校は各陸軍病院へ転属させられた。



京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)

731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に

●横浜「戦争の加害展」感想
2月11日


・パネル展示、講演共にあまりに胸痛い資料でした。後世に語り継ぐことの重要性、それらの活動に大変なご苦労が多かったことはよく解ります。頭が下がる思いです。何が「戦争へと駆り立てるのか」世界的にも過去様々な戦いが歴史で見られますが、空からの攻撃、細菌攻撃等はそれでも近代のことと思うのですが、今も各地で行われている戦争、侵略(大義のない)、戦争武器産業等…。何から、どこから始めればこの地球上の戦いを終結させることができるのか。(女性、60代)


●横浜「731部隊・100部隊・毒ガス戦パネル展の感想(4月29日~5月3日)
4/29(月)
8.男.70.市内.「被害回避が必ずできたとは言えない」と良くまあ考えたと思うひどい判決(遺棄毒ガス被害訴訟)。裁判これじゃあ、アジアの中で今後生きていけなくなると思う。とも角、少しでも多くの人に知ってもらうこと。いろいろな場所で頑張りましょう。

●「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部

浜中の脱走

私は電流に打たれたように、そのとき、初めて事態のただならぬことを悟った。
支給された被服はきちんとたたまれ、いつもある日記やその他の見廻り品は何1つないのである。意識的に整理したものであることが、歴然としている。
森島も起きてきて、ただならぬ表情で、どうしようと言う風に私を見つめた。
「報告してこようか。俺たちだけで探したって、とても分りゃしないだろうからね」
私は、野口傭員のいる夜警詰所に駆け出して行った。
「どうした?」
私のそぶりはやはり尋常ではなかったのだろう。野口傭員が待ち構えていたように立ち上がってきた。
「浜中が、まだ帰ってこないのであります。それに、私物はすっかり整理されています」
「ん?」
と、野口傭員は目を丸くして、
「すぐゆく」
と、同僚たちに事態の説明にかかった。
「やれやれ、やっかいなことをしてくれぁがったなぁ」




●陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り




京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず




●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校

付記・日本陸軍習志野学校跡考察記









●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第五展示室
第五展示室では、日本軍の戦局の悪化に伴う本土決戦体制の構築の流れと、その一つであった登戸研究所の移転の様子を展示しています。また、敗戦・占領政策と登戸研究所の関係や、登戸研究所が資料館として生まれ変わる過程を、高校生と元所員との交流を中心に紹介しています。


大本営移転計画と登戸研究所の移転
戦局が悪化し、日本本土での地上戦を覚悟した大本営は、天皇・軍・政府機関などの長野県松代への移転計画を本格的に推進するようになりました。この計画に伴い登戸研究所も長野県を中心として、北陸・関西地方へ移転することになります。本土決戦体制が構築されていく中、登戸研究所もその一翼を担いました。1945年3月から4月にかけて長野県上伊那地方、北安曇野への登戸研究所(主に研究の継続と秘密戦の実行を任務とした班)の移転が行われましたが、それらの地域では、施設の提供や缶詰爆弾をはじめたとした兵器製造への動員など、地元住民が巻き込まれていきます。しかしながら、疎開先での本格的な研究活動が行なわれる前に日本は敗戦することとなり、研究所の記憶は長い間封印されることになります。

1945年6月8日付「中澤国民学校 学校日誌」
登戸研究所関係者の来訪が記録されている。「午前8時より登戸研究所長陸軍中将篠田鐐閣下、体練場において国民学校青年学校生徒に一場の御講話あり。引き続き東庭にて学徒隊結成式挙行」(駒ヶ根市立長沢小学校所蔵)








●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表

2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか

病理学、細菌学、外科、内科等の学会でも、戦争関連の論文発表が増えました。このような機運が高まる中で、「戦時中においては、学会(協会)の総力を動員して、後方戦力の労働力の確保に大いに貢献するところがあった」と言われた日本産業衛生学会(1927年)、ハンセン病患者の絶対隔離を求めた日本癩病学会(1927年)、「生命の根本を、浄化し--国家を繁栄せしむ--」との趣旨を掲げた日本民族衛生学会(1930年)等が設立されました。



●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
第21回『衛生学校記事』情報公開裁判



第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

衛生学校の人々
園口忠男(第8代衛生学校長 在任期間 1969.8.1~1971.6.30)
S14 熊本医大
S15.6.18~18.4.1
19.12~〇 軍医少佐 731部隊第2部教育部長
寧波作戦の輸送指揮官
(1940年)「寧波作戦の陸路輸送指揮官をやっていましたね。私も陸路行きの1人だったんだけどね。園口は軍医学校を終わったばかりでね。軍医中尉に任官して来たばっかりでしたよ。15年の6月頃来たんじゃないですかね。来たばかりで輸送指揮官になって杭州に私らを引率して行ったわけですよ。8.9.10.11と向こうにいて12月半ばにハルピンに帰ったですよ。その間、奈良部隊と名乗っていました。」


※金原節三の遺族は、金原が所蔵していた文献資料を2000点以上を防衛省の彰古館に寄贈したが、今、その資料の紛失が問題になっている!!



※CBRとは化学(Chemical)、生物(Biological)、放射性物質(Radiological)用いた兵器はそれぞれの頭文字をとってCBR兵器と呼ばれている。

※明らかに、自衛隊では、化学兵器、生物兵器、核兵器の積極的利用を考えている!!
理研では、核兵器の研究を戦後もずっとやっているのだろうか?


※細菌戦に関わった金原と、戦後日本医師会で権力をふるった武見。こんな2人に関係があると、日本医師会が細菌戦のことなど反省するはずがない。防衛医科大学校は、武見と金原の人間関係で設立された。もちろん、生物戦、化学戦、原子戦などを想定して、色々なことに取り組んでいるのではないかと思う。すべて防御のためと称して。




●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年


第8章 昭和維新と統制



「国策の基準」は起草者に都合のよいように解釈できるあいまいでお役所的な表現で書かれ、各省庁が横並びで事務を分担する日本の官僚エリートの特徴を示していた。これが、その後、危機に際し日本外交があらゆる場面で示した意思決定のパターンだった。この傾向が日中戦争前夜に顕著となったことは重大である。首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長は、見解の相違を理路整然と徹底的に議論することを放棄してしまったからである。