●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
●元731部隊軍医と強制不妊手術
●731部隊・100部隊と戦後の流れ
●細菌戦部隊員の戦後
●731部隊の問題(1)
●731部隊の問題(2)
●731部隊の問題(3)
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
今につながる問題!!
細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

731部隊全景
100部隊の煙突
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。
細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。
中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。
中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。
「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。
日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。
皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―
731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」

7 部隊全景

8 731部隊の始まり
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文

32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄

35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に
100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配」
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」

27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34 「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに

58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料

62 「100部隊」の新展示
63 おわりに
(付録パネル)
1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
(A3版7枚)

2、細菌戦部隊の戦後
(A3版12枚)

3、元731部隊軍医と強制不妊手術
(A3版10枚)

4、731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真


5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地
2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地
6、軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地
貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル
⑥ 馬具補助パネル



※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚)
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります。



3、模型・・・貸出料1台7日以内(5000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm
④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝
※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554(五井信治)、nobu51@jcom.zaq.ne.jp



横浜の「戦争の加害展(2月10日~16日)」が無事終了しました。
今回で4回目になりますが、今までで一番多い2500人以上の方が来場されました。
ご来場ありがとうございました。
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
野外実験所の記録
明石氏と会った翌日から、私は、書棚に並んでいる細菌学の分厚い書籍をひまあるごとに繰りながら、人体実験の事実を自分の眼で確かめようと思い始めていた。
だが、それらの書物には、もとより人体実験の記録は載っていない。ことにペスト・コレラなど、死亡率の高いものは、実験の事実はそのまま殺人行為に等しいわけであるから、公然と発表できるはずが無いのであった。しかし、そうした目的を持って注意してみると、今まで別段気にかけなかったものまでが、いわくあり気に目に映ってくるものである。
私は、研究室の書棚のかたわらにある「持出禁止」と書かれた書類箱に特に目をつけた。
ある昼休みに、私はそれをこっそり開けてみようと思い立って、昼食のため誰もいないその部屋に入っていった。ふだんは何気なしに出入りしているのだから、このときも誰に怪しまれるわけではないのだが、目的が目的だけに悪事を犯す時のような、胸のときめきを感じる。鍵はかかっていないようだし、見てはいけないとも書いてはいない。持出しはいけないが、その場で見るのなら差し支えあるまい、とそれを口実にするつもりだった。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り

京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」

日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第4章 科学はいかにして罪業となったか
多種多様な化学兵器
軽型装甲車で牽引し、円盤式撒毒器で散布する。車の壁には3~5ミリの鋼板が取り付けられている。1935年、糜爛性毒剤の散布器が制式化された。1940年には、ちゃ剤ときい剤と発射できる重さ15トンの大型化学戦車を試作した。しかし密封条件が良くなかったため、ずっと実用化されなかった。このタイプの撒毒車を使用する際は、通常、化学毒剤を積んだ車が後について行き、すぐに撒毒車に対して毒剤を補充できるようにした。
噴射器には、1933年に制式化された「94式」毒ガス雨下器と、1941年に開発に成功した携帯式噴射器がある。これらは基本的に第1次世界大戦時のタイプで、形状は噴射器に似ており、兵士が背負って毒を撒いた。
東京第二陸軍造兵廠曽根製造所
平成十二年八月六日、「平和のための戦争展 in 北九州2000」の企画で、旧軍施設の見学会が催されました。見学先は、「東京第二陸軍造兵廠曽根製造所」跡地です。それに参加したときの写真です。
ここは、表向きは普通の爆弾製造工場とされていましたが、実際は、「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(広島県竹原市大久野島)」製の毒ガスを、「小倉陸軍造兵廠(福岡県北九州市小倉北区)」製の砲弾・爆弾に充填する化学兵器製造所でした。日本の製造した毒ガス弾の2割がここで充填されたと言われています。
●B1棟(仕上げ場)
左側の建物がB1棟です。奥に背の低いE1棟の一部が見えます。B1棟の隣りに冷却室、B2棟と並んでいます。
●登戸研究所資料館
学内史跡
明治大学生田キャンパスは登戸研究所跡地に建てられたため、キャンパス内には動物慰霊碑・消火栓など、登戸研究所の面影を残す史跡がいくつか残っています。ここでは、キャンパス内に残る史跡を紹介し、現在のキャンパス内に残る史跡を紹介し、現在のキャンパスから登戸研究所が所在していた過去を振り返ります。
動物慰霊碑
生田キャンパス正門の北東側裏手、駐車場の奥にあります。石碑本体は高さ約270㎝、幅 約95㎝、奥行 約15㎝あり、研究所で用いられた実験動物の霊を慰める目的のものとしては大変大きな石碑です。この碑を建てた費用には、1943年春、当時の首相兼陸相の東条英機から授与された陸軍技術有功章の副賞である金一封(当時の金額で1万円、現在の1000万相当)が使われたとされています。
※登戸所員は人体実験を南京で行なったため、その慰霊もあるのではないか?
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
4、ドイツではどのように向き合ったのか
■世界と日本での議論の進展
―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。
学術会議は、1984年には公選制が廃止され、学会推薦・内閣総理大臣任命制へと改悪され、学会などで推薦された者が会員に任命される制度となりましたが、学術会議では731部隊に関する初めての議論が行われていたことが、2003年の日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会報告「生命科学の全体像と生命倫理―生命科学・生命工学の適正な発展のために―」の報告により明らかなりました。同報告では「生命倫理を考える契機になった近代史上の最初の事件の一つとしてあげておかなければならないのは、第2次世界大戦中のナチスによる大量虐殺や大学医学部医師も参加した日本軍731部隊による非人道的な人体実験である。これら事件は人間として余りにも常軌を逸したものであって、いくら厳しく糾弾されても足りるものではない。このうち、731部隊の事件に医師たちも参加していたことは長い間隠蔽されてきたが、ナチスによる事件については敗戦国ドイツに対する1945年の国際軍事裁判で明らかにされた」と明記されています。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

復刊衛生学校記事1(2)(井上義弘)
1961年7月
昭和20年の頃
5、原爆調査のまとめ
調査の期間も短く、観察も十分ではなかったが、「為さると遅疑するとは最も戒むべき所」と作戦要務令で教えられている陸軍では、それまでの調査の結果を最も有効に利用したものであり、まことに時期適切であって、全国の新聞はその要旨を記載した。内務は原爆の人体に対する影響を述べ、被曝した人は今後どのようにすべきか、原爆傷を治療する医師はどの様な点を観察し、どんな注意と検査をしなければならないか、治療の要点は何か、どんな治療法を取るべきか、薬剤類は何を用いるか等詳細に向かうべきところを示したのであった。
昭和20年11月30日内地では「陸軍」という名のあるものは全く消え去った。(元衛生学校長 元陸将補)
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第7章 満州事変
V
日本における諸勢力の対立もまた内向化した。皇道派の将官とその支持者たちは、依然、権力を握っており、海軍と陸軍は相変わらず不和だった。重巡洋艦高雄に乗務していた28歳の高松宮は、1933年6月11日の日記に、陸軍は「ファッショの気分」に包まれていることを政治家は理解することが必要であると記した。停戦合意は天皇を喜ばせはしたが、それだけでは十分ではなかった。高松宮によれば、「今こそそれを何とかして軍人の横車に突き倒されず、財閥の我がままをおさへて、よく治まった和合の日本に立ちかへらせねばならぬ」。数週間後、高松宮は、「国民所得の9割を約1割の人口に当る金持ちがとつてる様」と記した。7月21日、彼の懸念は「充分に理解する人はない」海上力に向けられており、「単に山海関の砲撃とか上海事変」ばかりではなく、国際的な危機に際し、「よくあれだけの活動を陸軍なり外交なりにせしめた」海軍の将来を憂慮していた。数ヵ月後、彼は海軍ならびに社会全般に急進主義の兆候が拡大していると記した。1933年も終わろうとしているころ、皇太子明仁が誕生したことで、高松宮は喜びとともに自分自身が皇位継承者としての重荷から解放されたことを安堵した。男子の誕生によって皇統が守られたというニュースは、国全体に一時的とはいえ幅広い安堵感をもたらした。