●「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」
NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」
※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!
●731部隊について
「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし
生理学が専門だった吉村が命じられたのは、凍傷の研究でした。当時は関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていました。
その症例と対策を探る目的で、人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊軍医・西俊英の証言
第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。
そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。
「731の問題」-戦中・戦後ー奈須重雄 2018.4.29
※吉村寿人
※戸田正三はじめ、京大・東大の医学者の多くが731の仕事に係わった。そして戦後の日本医学界にも大きな影響を与えた。
731部隊で行われた人体実験・細菌戦などは国家機密だったため、携わった医学者は誰一人声高に叫べず、自責の念のあるものは、自殺した。日本政府・医学界は、731部隊の罪業を、いまだに反省・謝罪していない!!
今の日本医学界に、この影響がないのだろうか???
※清野謙治京大教授も、京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった満州731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め、人材確保・指導などに「異常なまでにてこ入れした」とされる。
※清野事件
清野は、幼少の頃から考古学を趣味にしており、仕事の傍ら古人骨・古文書・民俗学資料などの収集に情熱を傾けていた。 1938年に医学博士号を取得した直後、「誠に奇妙なる精神状態」のうえに収集癖が高じて、京都の古寺から教典や古文書を盗む窃盗事件を起こす。 清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。 このことから清野は京大を免職になったばかりか、濱田耕作京大総長も辞意を表明した。
記者会見 :研究者が戦争に協力するとき 2018.4.14(京都大学)
※1938年8人の京大研究者が731部隊に派遣される。
8人は石川太刀雄丸、岡本耕三、林一郎、田部井和、湊正男、吉村寿人、斎藤幸三郎、田中英雄
凍傷実験で有名な吉村は、日本学術振興会から研究資金が出ていた。
吉村の恩師は、正路倫之助【軍医学校(731部隊に指令を出していた所)の嘱託】。正路は1946年に、兵庫県立医科大学の学長に就任する。そこに戦後、吉村、岡本、田部井が職を得る。兵庫県立医科大学は、後に神戸大学医学部になる。
岡本は清野の弟子、田部井は木村の弟子だった。
※戸田正三、木村簾両京大教授(軍医学校嘱託)は、戦後医学界として石井機関の医学者をかばったという理解は誤りで、医学界が守ろうとしたのは医学界そのものであった。(『医学者たちの組織犯罪』常石敬一著より)
戸田正三
長與は、1919年から1934年まで、東京帝国大学伝染病研究所の所長であった。1930年から長與はうつ病になっていた。
この1930年代初頭から、背陰河で人体実験が行われていた。
長與又郎
東大総長(1934年~1938年)
総長退任後の1940年、満州へ渡航し関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会等を通じ、石井四郎軍医と交流があった。
果して、長與は731部隊についてどのような思いを持ったのであろうか??
1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。
民間情報部(CIS)にS・Iと名乗る人物から届いた手紙には、
石井の妻が学習院院長荒木寅三郎の娘で、元陸軍大臣の荒木貞夫と非常に親しく、彼から限りない助けを得ていた事実を述べている。
荒木貞夫と荒木寅三郎は、細菌戦・戦争にどのように係わったのか?
1927年(昭和2年)・・・石井四郎、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。
1928年(昭和3年)4月 - 1930年(昭和5年)4月、海外視察。本当に海外視察か?背陰河に行っていた可能性はないのか?
1936年(昭和11年)、東郷部隊が正式な部隊となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫部を編成。
荒木寅三郎・・・荒木は、京大総長時代に、娘を石井に嫁がせた後、学習院長や枢密顧問官をに出世している。京大総長(1915年~1929年)、学習院院長(1929年~1937年)、1937年4月枢密院顧問に親任される。1942年、急逝。
荒木貞夫・・・日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。
皇道教育の推進・・・1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。
戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。
また以下の2人は731部隊の細菌戦を積極的に推し進めた中心人物ではないのか??
軍医学校長小泉は、陸相荒木貞夫の強い支持を受けていた。
1933年陸軍軍医学校校長、1934年陸軍軍医総監、陸軍省医務局長、BCG接種を実施、1941年から厚生大臣。
小泉親彦
第5代伝研所長
宮川米次


※1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!
※731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!
当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!
※笠原十九司著『日中戦争戦争全史』(下)には以下の記述が見られる。
「日本軍が華北で使用した生物兵器は華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士・民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性(びらんせい)毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95%が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。」
※731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。
また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。
講演とつどい 学問が戦争に協力する時―731部隊の生体実験をめぐって
※日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!
※番組では、川島清を第一部(細菌研究)部長としているが、第4部 細菌製造部部長(軍医少将)の時もあった。

※勿論731部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??昭和天皇の責任は無いのか???
unit731
※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)
※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。
731部隊の設計図が1枚も見つかっていない!!(建築学会でも731部隊は全く無視されている!!)
アピール3 大学・研究機関における軍事研究を阻止するために 広原盛明(元京都府立大学学長)
ロ号棟の建設について設計図を出してください!!
大林組・白石社長が辞任へ リニア談合で事実上の引責
黒い太陽731
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
1940年、日本軍資料
1942年、日本軍資料
次の沢田中将の記録を見ると沢田中将は細菌攻撃にかなり批判的だったことが 分かります。
*第13軍司令官・沢田茂中将陣中記録
(自衛隊防衛研究所 1942年分 静岡大学名誉教授藤本治氏論文から)
8月16日
X日(注:大規模な細菌戦開始日)を8月19日と定むる旨 命令す
8月22日
午前8時半より衢州飛行場破壊の状況を視察す
25日終了の予定
それ迄の使用延べ人員約10万にして 内半数は俘虜なり
※「○ホ」とは細菌戦のこと
『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶
4、風間博の父が語った「告白」と息子の決意
「あの時代のことを、少しずつ記憶に新しいところから文章に整理していくと、どんどん頭が整理されていってね」
引き揚げ後は近くの亜炭鉱山で働き、作業後は父から聞いた話を記録していった。どんなに疲れても、また、父を助けて農作業に明け暮れる繁忙の季節であっても、天理村の記録を書くことを風間は怠らなかった。1人きりで、ぼろ紙に殴り書きすることもしばしばだったという。頭が整理されればされるほど、日本軍、ひいては天理教団がやったことは侵略以外の何物でもなかったと気づかされた。
父の告白によって事実を知った風間は、教団をはじめ満洲天理村を開拓した自分たちは戦争に加担した加害者として反省するよう、幾度となく教団本部に訴えた。しかし、教団が彼を相手にすることはなかった。それでもひるむことなく、彼は告発し続けた。
※「マルタ」と呼ばれた人達は、囚人ではない。色々な容疑を吹っ掛けられ、捕まえられ、裁判も無しに、人体実験に供された。
4、日本軍による人体実験より
「マルタ」にされたのは「特移扱」と呼ばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人たちでした。彼らは「諜者」(スパイ)や「思想犯人」(民族主義者や共産主義者)の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などで、その中にはごく普通の農民や女性・子どもも含まれていました。彼・彼女たちは七三一部隊からの要求に応じて各地の憲兵隊から汽車でハルビン駅へ護送され、ハルビン駅からは擬装された列車やトラックで平房の部隊の監獄へと送り込まれました。また、ハルビンでソ連のスパイとして捕まったロシア人は特務機関へ回されて取り調べを受け、口を割らなかったり、二重スパイになるのを拒んだり、逃げようとした者が「特移扱」になりました。こうして実験材料にされ殺された人々の数は3000人以上にのぼるといわれています(ちなみにこの3000人という数字は、背陰河の施設や、七三一部隊以外の石井機関の施設における犠牲者の数を含んでいません。これらの施設や陸軍病院での犠牲者も含めると、総数はずっと多くなります)。
満洲天理村
『国民精神の歌』と天理教
●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦
・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。
細菌戦被害の人々
●近藤昭二氏講演
●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
「731部隊を検証する」4月11日 質疑応答




●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!





侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】
731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!
ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか?
●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■治療の独占
戦争とインフレーションによって中間層が貧窮したのに伴い、開業歯科医たちはきちんと治療費を支払ってくれる顧客の大部分を失った。歯の損傷が、とりわけ貧しい住民層の間に、ひどく蔓延したので、治療薬による新しい私的歯科治療が行われるようになった。20年代にボン大学病院歯科のアルフレート・カントロヴィッチは児童ならびに学童のための国立予防サービス施設を作り、歯科患者の予防を推し進めた。診察、記録、治療を一体化させた彼のモデルにならって、他の諸都市にもたくさんの学童歯科センターが作られ、学童の歯槽膿漏、パラドントーゼ、歯並びに欠損症の罹病率は著しく減少した。
旧優生保護法訴訟「人を人とも思わない法律」 国側は争う姿勢
医学界では当たり前か?女性差別!!
【日本共産党】吉良よし子参議院議員にきく「東京医大 女子一律減点・合格者抑制問題」
医学界では当たり前か?女性差別!!他大学の医学部でもあった!!
東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制
東京医科大が女子を一律減点し合格者を抑制 - 不公平、女性差別との批判
医者と製薬会社の関係は??
製薬会社から謝礼もらった医師、年1917万円受領教授らの見解
強制不妊手術 宮城県議要求で急増…60年代 行政と連携
※なぜ、日本人は731部隊の犯罪、日本精神医学会の犯罪を問わない???
強制的に「不妊手術」させられたーー60代女性が訴える「旧優生保護法」の問題とは?
強制不妊手術 宮城県議要求で急増…60年代 行政と連携

(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)

『陸軍軍医学校50年史』(1936年)より
大牟田「爆発赤痢」事件
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
小島三郎
紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件
作者:久保 親弘
紅白の殺戮者 くぼちかひろ
第十三章
一五日の夕方,鴨江病院から緑川衛生課長に報告があった。北野軍医正から貰った免疫血清を用いて細菌の同定を行ったところ,一中生の糞便からゲルトネル氏腸炎菌が検出されたというものであった。その事実によって,浜松一中で発生した食中毒と,浜松の衛戍部隊で発生した食中毒とは,まったく同じ原因菌によるものであることが立証された。
午後一一時,静岡県衛生課は左記のような発表を行った。
今回の浜松市に於ける中毒事件に付其原因を探求した結果ゲルトネル氏腸炎菌と認むべきもの一四種中三種を選び血清学的確定試験を行いたるにゲルトネル氏腸炎菌と断定すべき菌を認めたり,而して本病即ちゲルトネル氏腸炎菌に依る疾病は主として動物間に流行し人より人に接触伝染すること殆どなきものなればこの点一般は先ず安心して可なり。
※今、改めて考えると、やはりこの食中毒に軍医学校の関与があったのではないか?
※石井がわざわざやって来て、「人為的細菌感染の有無」を調べる??この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?何で、糞便検査を一中生にはしなかったのか??
1936年にはハルピンの郊外平房に正式に関東軍防疫部(731部隊)が設立される。
※北野政次は最初から目星をつけていたのではないか。軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためでだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。西とは西俊英軍医大尉(当時)、後に731部隊で活躍する。
小島三郎の記述

小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。
小島三郎
来歴
・1888年(明治21年) - 岐阜県羽栗郡川島村河田(現・各務原市川島河田町)にて厳田弾之丞の三男として生まれる。
・1909年(明治42年) - 東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。
・1912年(明治45年) - 第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。
・1916年(大正5年) - 東京帝国大学医科大学卒業。
・1917年(大正6年) - 伝染病研究所に入所。
・1920年(大正9年) - 医学博士。
・1926年(大正15年) - 細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。
・1935年(昭和10年) - 東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。
・1947年(昭和22年) - 国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。
・1954年(昭和29年) - 国立予防衛生研究所所長に就任。
・1958年(昭和33年) - 国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。
『検証・中国における生体実験』(美馬聡昭著より)
小泉親彦と昭和天皇
一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。
その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、『陸軍軍医学校五十年史』に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。
「天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。
それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」
「いつの間にか始まった石井部隊」 常石敬一 (人骨の会代表)
「テロリスト伊藤博文」の懺悔

※731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が行われていた?
結核予防接種と人体実験
※日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。
※1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過
1936年5月10日 浜松一中で運動会が開かれる。
5月11日午後、食中毒発病
軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。
※本当に素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。
※小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。
※前年の1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)小島が防研の嘱託になった年。
※果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??
※陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。
※小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!
※ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。
8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。
・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
「化学兵器とアジア」ー現在進行形の加害と被害を考える!!
※枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。
731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ヴェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。
毒入り油で手料理 母悔恨「知らなかった」「ごめんね許して」 家族全員発症 カネミ油症50年の証言
カネミ油症事件
カネミ油症事件ですが、カネミ倉庫とカネカに責任はあるのですか?
PCBは三井グループのカネカが製造していた。
PCB(ポリ塩化ビフェニル:鐘淵化学工業製造)
2004年(平成16年)「鐘淵化学工業株式会社」から「株式会社カネカ」に商号変更。
横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴 三井不動産系
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
予期せぬアメリカの評価
萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。
※萩野さんは、戦争中どんなことをしたのだろうか??
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の人体実験をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄も金沢医科大学出身である。
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
●日本軍が中国で行った細菌戦
・細菌戦パネル展(731部隊のやった細菌戦)

731部隊展のホームページです。
ご覧下さい!!
731部隊展