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「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


731部隊について


NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし

大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。


戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていたことがわかりました。それを裏付ける戸田の研究報告書です。


陸軍などから委託された防寒服の研究で8000円、軍の進出先の衛生状態の研究で7000円…(注:ほかの委託研究費も含めて)現在の額で合わせて2億5000万円にものぼる研究費を得ていました。
軍との関係を深めていった戸田。そのきっかけとなったのが満州事変でした。(1931年~)
傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。現地の人を病気から守る防疫活動【当時の写真】のためとしてポスト争いを始めます。戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。東大や慶大などと競いながら【東大 1933年35人→1940年48人、慶応 1936年40人→1940年54人】、京大はその数を倍増させていきました。【京大 1936年36人→1942年75人】


当時戸田は、医学者も国の満州進出に貢献すべきだと語っていました。
戸田の発言【満州日々新聞1936年「移民衛生調査委員会議」より】 
今まで未開であったところの東洋の北部を開く指導者になることは、我々に与えられた一大試金石である。





吉村寿人

※戸田正三はじめ、京大・東大の医学者の多くが731の仕事に係わった。その後の日本医学界にも大きな影響を与えた。
しかし、国家機密の壁があったのか、誰一人声高に叫べず、自責の念のあるものは、自殺した。日本政府・医学界は、731部隊の罪業を、いまだに反省・謝罪していない!!
今の医学界に、この影響がないのだろうか???

戸田正三
東大・京大総長も石井四郎に、協力した!!
長與又郎

石井四郎の嫁は、京大総長(第7代1915年~1929年)荒木寅三郎の娘、荒木は、学習院長や枢密顧問官を歴任する。





※1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!

※731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!
当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!


※笠原十九司著『日中戦争戦争全史』(下)には以下の記述が見られる。
「日本軍が華北で使用した生物兵器は華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士・民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性(びらんせい)毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95%が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。」

※731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。
また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。


※日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!

※番組では、川島清を第一部(細菌研究)部長としているが、第4部 細菌製造部部長(軍医少将)の時もあった。



※勿論731部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??昭和天皇の責任は無いのか???
unit731


※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)

※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。

ロ号棟の建設について設計図を出してください!!
リニア不正入札、「名城非常口」巡る容疑 大林組を捜索

黒い太陽731


国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より



日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」

教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)


敗戦時の731部隊の処理
*新妻清一のメモ  (原文カナ)
特殊研究処理要領  20.8.15  軍事課
一. 方針
敵に証拠を得らるる事を不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す
二.実施要領
1.ふ号、及び登戸関係は兵本草刈中佐に要旨を伝達後直ちに処置す
(15日8時30分)
2.関東軍、731部隊及び100部隊の件関東軍藤井参謀に電話にて連絡処置す(本川参謀不在)
以下省略
しかし731部隊では、日本の敗戦が明らかになり、
またソ連が「日ソ中立条約」を延長しないと通告してきたことから、
1945年の3月頃から部隊を縮小し、いち早く部隊員たちは日本への帰国をし始めました。
日本の敗戦が確定してきたため軍の参謀本部は終戦工作を急ぐようになります。
軍を温存し日本再建を目指すため
大陸命(大本営陸軍部から出る天皇の命令)1378号及び大陸指(参謀総長命令)が出ました。
この命令書の現物は敗戦時の焼却処理で残っていません。
大本営作戦参謀朝枝繁春中佐の手記(回想録)から記憶で大陸指の要旨を引用します。


黒い太陽731


731復元CG



・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!






●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦


・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。

細菌戦被害の人々



近藤昭二氏講演



●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
松村講演1



松村講演2











ヒルレポート(総論)





●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!







侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】

731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
 日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
 731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!! 
 ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか? 

●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア

夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳

■医療の危機
1917年から1918年にかけてドイツ兵士の間に「精神的伝染病」が広がった。「戦争ノイローゼ」である。軍医たちはこのような患者に対してカウフマン式電撃「療法」を施したが、そのモットーは、電撃「療法」の恐怖は前線のそれよりも大きいから、兵士たちは嫌でも必ず前線に戻るようになる、というものであった。
医療公務員は飢餓に苦しむ民間人に「最後まで頑張り抜け」というスローガンを与え、戦争末期には多くの医者が革命の鎮圧に関与した。
戦後の困窮の中で、彼らは患者に新しい「国民病」である事故ノイローゼ、年金ノイローゼという診断を下した。カール・ボンヘッファーやエーヴァルト・シュティーアのような一流の精神科医や保険鑑定医が、診断書の申請をしてくる人々を「すぐに泣き言をいう」「根拠のない」仮病使いとみなした。このような連中に対する唯一有効な治療法は、保険年金拒否である、とかれらはいっている。
医者と患者の間に信頼関係は破綻した。大学医学が、とりわけ癌と心臓血液循環病の分野で、わずかしか成果を挙げることができなかったため、人々は治療師、擬似治療法、素人療法にますます殺到するようになった。新しい「国民病」に代わって、すべての医療政策者のいうところの「医療の危機」が始まった。



※なぜ、日本人は731部隊の犯罪、日本精神医学会の犯罪を問わない???
不妊手術強制で国を提訴へ 宮城の女性「旧優生保護法は違憲」



1992年のニュース










・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること

などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)


『陸軍軍医学校50年史』(1936年)より

大牟田「爆発赤痢」事件

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

小島三郎

紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件
作者:久保 親弘
紅白の殺戮者                くぼちかひろ

第八章
東京朝日新聞の号外は,「患者千二百を超え,死者ついに二十六名,必死の救援陣も力及ばず,浜松一中 中毒事件重大化す」というショッキングな見出しが紙面におどっていた。
見出しの解説として
「浜松市を中心に一市四郡を戦慄させた大福餅中毒事件はその後刻々拡大,深刻化し一三日午前一時半現在(県衛生課調査)の患者総数は浜松署管内千四十六名のほか,その他六警察署の管内を合わせて実に千二百三十一名に達した。死亡者は午前二時現在で二十六名を数え尚増加の見込みがある。市当局はじめ県当局その他全県,隣県の関係方面は事態の愈々重大化をきき十二日夜から十三日朝にかけ続々救援に急行しつつある。原因については尚不明で全西遠は不安の空気に蔽はれて居る。」と大きな活字で事件を速報していた。



※この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?1936年にはハルピンニ正式に関東軍防疫部(731部隊)が設立される。

小島三郎の記述


小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。

『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績
浜松に出かけて調査をした感激を小島は、帰京からまもない5月27日に行われた「食物中毒に関する座談会」で「・・・今回は初めて私がゲルトネル氏菌を研究室以外で扱ったので、つまり街頭進出でありまして・・・」と述べている(『日本医事新報』第717号)。これ以前は、いつも事後に食中毒を知らされ、1度も現地調査をしたことがなかったのだった。だが、彼が死の直前1962年8月に高田で講演し、死後印刷された回顧録では「日本国サルモネラ委員会」については多くが語られているが、そのきっかけとなったはずの浜松への出張については、それ以外の出張と一緒にわずかに触れられているだけである。20年もすると感激が薄くなるということであろうか、あるいはまた石井とのつながりで出かけたことが、気持ちにひっかかりを生んでいるのだろうか。



※731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が柳沢謙によって行われていた!!
結核予防接種と人体実験

※日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。

※1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過
1936年5月10日 浜松一中で運動会が開かれる。
5月11日午後、食中毒発病
軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。

※本当に素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。
※小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。
※前年の1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)小島が防研の嘱託になった年。
※果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??
※陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。
※小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!
※ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。
8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。




・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴 三井不動産系

護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶

※枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。
731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ヴェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。


イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。



国会での証言と初の公害認定

翌昭和43年5月8日、この日は日本の公害の歴史において記念すべき日となった。園田厚生大臣は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省見解が次のように発表された。
「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外にはみあたらない」このように厚生省は、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたのである。さらに厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。



御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!この人は細菌戦にどのように関わったのだろう??
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。

※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。


三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞

●日本軍が中国で行った細菌戦
・細菌戦パネル展(731部隊のやった細菌戦)



・細菌戦被害地(中国)の旅


※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!

『細菌戦資料センター会報10号』より





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