あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


731部隊について


NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし

ナレーション
この時の記録には、東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。東大からは戦時中、少なくとも6人が集められたことがわかっています。

東大で開かれた微生物学会の集合写真、

石井を囲んでいるのは、全国から集まった名だたる教授たちです。大学の幹部と石井が結びつく中で、優秀な医学者が集められていったのです。

※長與又郎(ウキペディアより)
ながよ またお(またろう?)、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山
医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎、正則学校、一高を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。・・・・
伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された[1]。
昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会等を通じ、石井四郎軍医と交流があった。
また癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。享年63。

長與專齋と福沢諭吉の繋がり・・・大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。


吉村寿人

※戸田正三はじめ、京大・東大の医学者の多くが731の仕事に係わった。その後の日本医学界にも大きな影響を与えた。
しかし、国家機密の壁があったのか、誰一人声高に叫べず、自責の念のあるものは、自殺した。日本政府・医学界は、731部隊の罪業を、いまだに反省・謝罪していない!!
今の医学界に、この影響がないのだろうか???

戸田正三
東大・京大総長も石井四郎に、協力した!!
長與又郎

石井四郎の嫁は、京大総長(第7代1915年~1929年)荒木寅三郎の娘、
荒木は、学習院長や枢密顧問官を歴任する。





※1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!

※731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!
当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!


※笠原十九司著『日中戦争戦争全史』(下)には以下の記述が見られる。
「日本軍が華北で使用した生物兵器は華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士・民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性(びらんせい)毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95%が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。」

※731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。
また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。


※日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!

※番組では、川島清を第一部(細菌研究)部長としているが、第4部 細菌製造部部長(軍医少将)の時もあった。



※勿論731部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??昭和天皇の責任は無いのか???
unit731


※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)

※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。

ロ号棟の建設について設計図を出してください!!
リニア不正入札、「名城非常口」巡る容疑 大林組を捜索

黒い太陽731


国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より



日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」

教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)


細菌戦部隊が行なった細菌戦

細菌戦に関しては別のテ-マで詳しく書きますのでここでは簡単にします。

「終戦間際の細菌戦」 1998年 BBCテレビの取材から
*証言  上川紀一(仮名)
1933年から衛生兵として満洲の林口陸軍病院に勤務。
その後731部隊で専門教育を受けた。
1945年の3月から 約2週間「秘密部隊」派遣命令を受けて細菌攻撃をした。
部隊は9人で、全員汚れた中国服を着て、認識表以外に日本軍と分かる物は身につけていなかった。
軍用トラックで林口駅を出発し、2週間で4ケ所回ったが、
どこへ行ったのか地名や方角など一切分からなかった。
9人は私のような衛生兵、満州語通訳、朝鮮語通訳、16ミリの撮影係り、運転手など仕事の分担があった。
移動は1日か1日半程度だったが、数件の家が集まっているような、
小さい孤立した村落をねらって、3,4人ずつに分かれ、
通行人のようなふりをして、共用している井戸にアンプル入りの細菌を投げ込んだ。
だいたい5日程たって、発病する頃に戻っていった。
村人は腹痛、下痢などの症状で苦しんでいた。
「治してやる」「薬をやる」などといって騙し、エーテルで麻酔をかけて、そのまま解剖した。
解剖してみて始めてパラチフス菌を使ったということが分かった。
ある程度腹を開いたところで、撮影班が撮影を始めた。
直径20センチくらいのホルマリン・アンプルを渡されたときは、
明らかに病変の見える臓器の一部を切り取った。
全員が発病していても解剖は1体か2体だけで、後は毒殺して井戸に捨てた。
菌に侵されていない子どももいたが、どうしようもないので、死体と一緒に処理した。
最後は部落に火をつけて、秘密がばれないようにした。
すべて命令どおりにやるほかなかった。
だいたい1日半くらいで、トラックが迎えに来るので、その間に資料のまとめをやった。
トラックで指定された次の憲兵隊司令部へ着くと、次の資材が待っていた。
4ケ所で、子どもも入れて、30人くらいを手にかけたと思う。


黒い太陽731


731復元CG



・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!






●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦


・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。

細菌戦被害の人々



近藤昭二氏講演



●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
松村講演1



松村講演2











ヒルレポート(総論)





●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!







侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】

731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
 日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
 731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!! 
 ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか? 

●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア

聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳カスタマー・レビューより

1938年11月9日*を思う
*「水晶の夜」
ベルリン医師会の声明

・・・・・・・
ベルリン医師会はまた1934年から1939年までの『国際医師報ー国際社会主義統一医師団機関誌』の復刻版(ナチズムの保健・社会政策の叢書第7巻、1989年、ベルリン、ロートブーフ社)を刊行し、これまで歴史の中で埋没してしまっていた、亡命医師たちに関する唯一のドキュメントを公開した。
ベルリン医師会理事会は、たった9ヶ月でこれら全ての事業を成し遂げた全ての関係者に感謝の意を表したい。
このプロジェクトは、多数の医師たち、バーデン=ヴェルデンベルグ州医師会、ブレーメン州医師会、ハンブルグ医師会、ノルトライン州医師会、シュレースヴィッヒ=ホルスシュタイン医師会および、いくつかの会社、銀行、ベルリン市参事会、ドイツ階級別宝くじ財団、州労働局およびその他のスポンサーから、寛大な財政的援助を受けた。とりわけベルリン医師会理事会は、第92回全国医師会の会期中、展示会の取りまとめに尽力された連邦医師会会長のカルステン・ヴィルマル博士に感謝申し上げたい。ベルリン医師会は、この展示の成果が医師の間で自分たちの過去を公然と論議するのに役立ってくれることを希望する。ナチズム時代の医学を思い起こすことによって、医師たちは、自己批判をおこない、今日の医療の倫理の諸問題に一層敏感にならざるをえない。
ベルリン医師会理事会を代表して  
ヘルムート・ベッカー博士
エリス・フーバー博士


※なぜ、日本人は731部隊の犯罪、日本精神医学会の犯罪を問わない???
不妊手術強制で国を提訴へ 宮城の女性「旧優生保護法は違憲」



1992年のニュース










・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること

などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)


『陸軍軍医学校50年史』(1936年)より

大牟田「爆発赤痢」事件

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

小島三郎

紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件
作者:久保 親弘
紅白の殺戮者                くぼちかひろ

第五章

第六章

(平野林はやし,福岡県出身,昭和十三年軍医少将,北支方面軍軍医部長,昭和十六年予備役)

平野一等軍医正は防疫学教室の主任教官である。平野軍医正は,防疫学教室の主幹である石井四郎二等軍医正と相談し,細菌性の食中毒の可能性が高いことを知った。毒物混入の疑いについては,すでに安倍衛戍病院長の検査が行われていることから,その可能性は低いものと考えられた。平野軍医正は防疫学教室の総力を挙げて,食中毒事件の解明にあたることを考え,その旨ただちに,軍医学校長に具申して了承を取った。総責任者として石井軍医正を指名し,まずは北野軍医正を浜松に派遣することにした。

(石井四郎・千葉県出身,昭和十一年関東軍防疫給水部長,昭和十六年軍医少将,第一軍軍医部長,昭和二十年軍医中将,関東軍防疫給水部長)





※この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?1936年にはハルピンニ正式に関東軍防疫部(731部隊)が設立される。

小島三郎の記述


メリットと業績
『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
小島は何回か南京を訪れているが、『日本医事新報』の1004号(1941年)の「消息」欄には次のような記述がある。「小島三郎氏 (伝研所員)陸軍軍医学校の依頼により学術研究の為、約2週間の予定を以て南京に出張さる」。『小島博士追悼録』によれば中国には1941年と1944年1月に文部省から派遣されて出張、となっている。


※小島三郎は、戦時中南京1644部隊に出張していた。そのときにも、いろいろ隊員にアドバイスをしていたのだろう。
増田とは、731部隊の南京支部、「栄1644部隊の副部隊長」増田知貞のこと
飯田とは、東京大学伝染病研究所の助教授、コレラ菌のエキスパート。
飯田のお姉さんと増田が結婚していた。




※731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が柳沢謙によって行われていた!!
結核予防接種と人体実験

※日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。

※1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過
1936年5月10日 浜松一中で運動会が開かれる。
5月11日午後、食中毒発病
軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。

※まことに素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。
※小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。
※前年の1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)小島が防研の嘱託になった年。
※果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??
※陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。
※小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!
※ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。
8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。




・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴 三井不動産系

護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶

※枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。
731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ヴェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。


イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。



失意の日々と妻の死

萩野は四面楚歌となった。なぜ真実を信じないのか。苦しんでいる患者を救おうとする研究成果をなぜ信じないのか。彼を苦しめたのは、学者や行政だけではなかった。彼を最も苦しめたのは、県政、企業の論理に操られた周辺住民の冷ややかな目であった。萩野ほどの人物に対しても、彼が有名になればなるだけ周辺住民のねたみも大きくなった。三井財閥からの無言の圧力が幽霊の声となって富山県を動かし、富山県から婦中町に、婦中町から住民に大きくのしかかった。


御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!この人は細菌戦にどのように関わったのだろう??
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。

※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。


三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞

●日本軍が中国で行った細菌戦
・細菌戦パネル展(731部隊のやった細菌戦)






・細菌戦被害地(中国)の旅


・細菌戦被害地(中国)の旅



・細菌戦被害地(中国)の旅


※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!

『細菌戦資料センター会報10号』より





731部隊展のホームページです。
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