731部隊について
NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」
※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!
「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊軍医・西俊英の証言
第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。
そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。
ナレーション
人間を凍傷に罹らせる実験をしたという吉村。部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。
論文には様々な条件に人間を置いて実験していたことが記されていました。
絶食3日、一昼夜不眠などの状態に置いてから、零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。
裁判の音声テープ 731部隊憲兵班・倉員証人
人体実験を自分で見たのは、1940年の確か12月ごろだったと思います。
まずその研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰を掛けております。それでその中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。それは、吉村技師のその時の説明によりますと、凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。
長與又郎
石井四郎の嫁は、京大総長(第7代1915年~1929年)荒木寅三郎の娘、
荒木は、学習院長や枢密顧問官を歴任する。


※1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!
※戸田正三
※731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!
当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!
※笠原十九司著『日中戦争戦争全史』(下)には以下の記述が見られる。
「日本軍が華北で使用した生物兵器は華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士・民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性(びらんせい)毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95%が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。」
※731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。
また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。
※日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!
※番組では、川島清を第一部(細菌研究)部長としているが、第4部 細菌製造部部長(軍医少将)の時もあった。

※勿論731部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??
unit731
※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)
※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。
黒い太陽731
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
岡9420部隊(威9420部隊)
1943年4月に参謀本部で開かれた「ホ号打合」の会合の内容を業務日誌から見てみます。
*金原節三大佐(陸軍省医務局医事課)の業務日記から
南方軍、
イ、昨年9月より研究を開始す。
ケピオス(注:Keopisネズミの事)粟南方において発育良好なり。
繁殖力も大なり。
ロ、南方では山稜地区に肺Pestあり(気温15℃)、海岸には腺Pestあり。
一般に四季を通じ散発しあり。
ハ、南方のKeopisは硬度大なり。
熱に対する抵抗も強し。
アスファルト道路(45℃)では1分で死亡するも、草原その他では2日以上生存す。
ニ、原法。使用場所小。使用人、餅麦。増殖率小
改良第一法。南方に適。
改良第二法。保存適。
ホ、捕鼠は捕鼠器の約1割弱(南方1年を通じ同率で捕獲し得)。北方は時季により異なる。
ヘ、南方では気候の干渉で四季増殖に適す。
雨と日光とを避ければ到る処飼育場となる。
ト、北方より輸入の鼠は馴化に1ケ月を要す。
チ、種餅を1回輪入すれば、あとは現地自活も可能なり。
リ、人員265名を要す。50Kgの生産可能なり。
※「ホ号」とは、細菌戦のこと
黒い太陽731
731復元CG
・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!
●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦
・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。
細菌戦被害の人々
●近藤昭二氏講演
●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
松村講演1
松村講演2









ヒルレポート(総論)




●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!





侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】
731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!
ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか?
●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
70年間の沈黙を破って
ドイツ精神医学精神療法神経学会の2010年総会における謝罪声明
ナチ時代の精神医学―回想と責任
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年11月26日
ベルリンにおける追悼式典の談話
DGPPN会長 フランク・シュナイダー
訳:岩井一正
ナチ時代のドイツの精神医学の歴史の研究は1980年代の初頭からは本格的にはじまりました。精神科医としては、クラウス・ドェルナー―最初は1969年で、1980年代に入っていくつかの著作を書いた―、アムスム・フィンツェン、そしてヨアヒム・エルンスト・マイアーが主にあげられます。歴史家としては、ゲルンハルト・バアダー、ディルク・ブラジウス、ハンズ・ヴァイルター・シュムールをあげておきます。1983年にはエルンスト・クレーのナチ国家における「安楽死」という目覚まし的な本が出版されました。当時わたしは信じられぬ思いでこれを読み、暗澹としました。これも私に衝撃を与えた本でした。
※なぜ、日本人は731部隊の犯罪、日本精神医学会の犯罪を問わない???
1992年のニュース

・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)

『陸軍軍医学校50年史』(1936年)より
大牟田「爆発赤痢」事件
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
小島三郎
紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件
作者:久保 親弘
紅白の殺戮者 くぼちかひろ
第四章
校長は,容易ならない事態が進行しつつあることを知り,ただちに電話を通じて,市内居住の全職員を招集した。実はこのとき錦織校長は,床に臥せり,激しい腹痛と戦っていた。昼頃から下痢が続き,立とうとしても下半身に力が入らない。校長自身,自分も中毒に罹患したと考えざるを得なかった。果たして登校できるかどうか,校長も自信がなかったが,とにかく校医を自宅に呼んで,善後策を検討することにした。馬淵貞司学校医の診療所にも一中生は受診している。
夕方頃,市内で開業医を営む馬淵校医は,校長宅を訪れた。校長は馬淵校医が驚くほどに,すっかり目がくぼみ,憔悴している有り様が著しかった。それでも床から半身を起こすと,次のような事項を校医から聴取した。
一・本日診察した一中生の病状はどのようなものであるか
二・中毒とすれば,何の中毒であるか。毒物の中毒か,食物の腐敗か,
あるいは何らかの黴菌によるものなのか。
三・治療方法,あるいは家庭でできる看護の方法
などを問うたのである。
小島三郎について(『医学者たちの組織犯罪』常石敬一著より)
人体実験の業績
E・ヒルとJヴィクターは、第1章で述べたように軍医学校の嘱託であった小島三郎、細谷省吾、内野仙治を「ハルビンあるいは日本で生物戦に関して研究していた人たち」の一員として尋問している。したがってヒル&ヴィクター・レポートにある尋問記録は、小島たちが石井機関との関連で行ったと述べた研究その他を記述したものと考えるべきである。
彼らが軍医学校防疫研究室の嘱託として行った研究を見て行くと、嘱託であったからこそ可能だった研究をいくつか指摘することができる。その内容はワクチン開発など人体実験によって研究が著しく進展したもの、あるいは軍という機関と関係を持ったことで得た疫学情報が、研究の中核をなしてたもの、などである 。
※この小島の南京出張(栄1644部隊)はどんなものだったのか?1644部隊に行って、人体実験のアドバイスを行っていたのではないか??

※日本は、731部隊での研究を白日の下にさラすべきである。
※1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過
1936年5月10日 浜松一中で運動会が開かれる。
5月11日午後、食中毒発病
軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。
※まことに素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。
※小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。
※前年の1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)小島が防研の嘱託になった年。
※果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??
※陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。
※小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!
※ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。
8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。
・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴 三井不動産系
※枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。
731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ヴェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
他分野の協力者出現
小林教授は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病」の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。そして何らかの手がかりがつかめると思った。かつて農林省には亜鉛、鉛などによる鉱毒と報告したが、あまりに農作物の被害がひどいことから、それ以外の何かがあると考えていた。小林教授は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取してほしいと郵送してきたのだった。
御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!この人は細菌戦にどのように関わったのだろう??
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
●日本軍が中国で行った細菌戦
・細菌戦パネル展(731部隊のやった細菌戦)

・細菌戦被害地(中国)の旅
・細菌戦被害地(中国)の旅
・細菌戦被害地(中国)の旅
※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より

731部隊展のホームページです。
ご覧下さい!!
731部隊展