7.7.集会 中国全面侵略戦争 80年と東京裁判(衆議院第1議員会館)
1937.7.7集会 ノーモア7.7
731部隊について
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
現に安倍のおじいさん岸信介は、1936年当時、満州国国務院総務司長であり、軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当していた。
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
安達野外実験場
3.付近住民への被害
1943年の春、富本村(注:安達のすぐそば)で伝染病が流行したことがある。
当時、全村の戸数は100あまりで、1回の伝染病で70人あまりが死亡した。
* 証言 倉島壽亀 1911年生まれ 731部隊で石井四郎の専属運転手
(西野留美子論文 1994.11.18週間金曜日)
・・・・たびたび飛行機で安達実験場に行ったよ。
実験に使う「マルタ」を飛行機やトラックで運んだこともあった。
安達で細菌の投下実験をするときは、逃げないように何メ-トル間隔かで「マルタ」を杭に縛り付けて立たせ、
その頭上から細菌ネズミが入っている細菌弾を落下したわけだ。
飛行機には操縦していたわしの他に、整備士、観測士、通信士が乗っており、連携して作業にあたった。
例えば「高度1000メ-トル」と言うと、スイッチを押す。
そうすると飛行機の胴腹から爆弾が落ちるわけだ。
ヒュッヒュッヒュって落ちていく。
たいてい1個の爆弾に25匹から30匹の細菌ネズミが入っておって、それを4,5個落とした。
早くて4,5日おきに、1週間、10日と間を開けてやったこともある。
通常の実験で使ったのは、3人か5人位のマルタだ。
高度によって落下範囲はどのくらいで、どれだけのネズミが落下後も生存し、
どの位置に縛られていたマルタにどの程度の感染があるか、そういうことを調べたわけだ。
実験に使ったマルタは、必ずしも平房に送り返して調べたわけじゃない。
安達実験場にも研究室があってね。
そこで感染後の経過を調べたり解剖したこともあったな。
爆弾による傷口が何ミリかに始まって、その症状を内臓の変化に至るまで、
4日から1週間かけて丹念に調べる。
解剖は生きているのを割ってね。・・・・
尚、野外実験場はここ以外にも、城子溝、陶頼昭にもあったと言われています。
黒い太陽731
731復元CG
・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!
●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦
・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。
細菌戦被害の人々
●近藤昭二氏講演
●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
松村講演1
松村講演2









ヒルレポート(総論)




●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!





侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】
731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!
ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか?
●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
第6回学習会《731部隊の国家犯罪を裁く》
「731細菌戦部隊と医師の戦争責任」
―いわゆるQレポートから見た金子順一論文の意義について―
講師 莇(あざみ)昭三さん
全日本民医連名誉会長
「15年戦争と日本の医学医療研究会」名誉幹事長
主催:NPO法人731部隊・細菌戦資料センター
・1992年アメリカで、731部隊の人体実験のレポートが見つかった!!
【近藤】 もともと、1941年(昭和16年)、開戦前なのですが、731部隊の内藤良一がニューヨークのロックフェラー研究所を訪ねて黄熱病の菌株を手に入れようとする動きがあったんですね。「研究のために菌株がほしい」と言って、断られるとそこの主任研究官を待ち伏せして車の中に内藤良一が連れ込んで3000ドル出すので菌株をこっそり譲ってくれないかということがありまして、その担当官がすぐ上司に報告してそれが陸軍の上層部にまで上がって、こういういきさつでこうなって、ひょっとすれば日本軍が細菌戦の研究準備をし始めているんではないか、そのために菌株がほしいのではないか、というので軍のトップからいろいろな菌を扱っている各施設へ、南米の施設も含めて、絶対に渡してはならんというお達しがあった。その頃からひょっとすると日本軍がかなり研究を進めているんではないかということでアメリカ軍も自国の細菌戦研究、39年頃から始まっているんですけど、それに勢いがつくんですね。それで陸軍の中に化学戦部局というものがありまして、そこから細菌戦の研究部門だけを独立させて1942年の11月に細菌戦の研究所を設立することが決まりまして、その翌年1943年の4月からアメリカ・メリーランド州フレデリックにキャンプ・デトリックの建設を始めるわけです。8ヶ月ぐらいの間に、大体4300平方キロぐらいの今で言うP3施設まで含むような危険な病原体を扱うそういう設備ができてそこが最初はアメリカの細菌戦の研究主体だったんですね。
1992年のニュース

・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)

・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
他分野の協力者出現
吉岡金市は電話で萩野に面会を求めてきた。萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。しかし吉岡は萩野病院を訪ね、「5分間でいいから院長に会わせてくれ」と玄関で粘った。萩野はこの吉岡に根負けして渋々面会することになった。そして話をしているうちに、「農作物の被害が鉱毒によるものならば、イタイイタイ病の原因も鉱毒によるものである」という点で、ふたりの考えが完全に一致した。農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を得たのである。吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数の増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。吉岡は萩野の研究を最後まで支えることになる。
御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
・パネル展(731細菌戦)

※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より

731部隊展のホームページです。
ご覧下さい!!
731部隊展