7.7.集会 中国全面侵略戦争 80年と東京裁判(衆議院第1議員会館)
1937.7.7集会 ノーモア7.7
731部隊について
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
現に安倍のおじいさん岸信介は、1936年当時、満州国国務院総務司長であり、軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当していた。
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
特移扱証拠文書(共謀罪もこういうものか???)
[ 特移扱いの被害者の名前 ]
被害者の数が1000人、2000人、3000人と言っても、それはただの数字です。
物や材料扱いです。
被害者一人一人の人生が特移扱いとなった瞬間に絶たれてしまうのです。
どんな人にもかけがえのない人生があります。
ここで、人の悲しみ、辛さ、後に残された者の苦しみに思いを寄せるため
焼き焦げた「特移扱文書」から読み取れる範囲で被害者の実名を書いてみます。
これらの方々は全員731部隊で生体実験の生贄になり殺されました。
一人一人の人生を考えていただければと思います。
以下名前だけ追悼の意味で列挙します。
王照儒 呉春福 唐永金 尹文生 趙新貴 呉天貴 樂仁璞 劉文秀 孫福発 薛孟祥
冉慶順 李福林 李懐顕 周殿平 ?憲度 張興華 丁元英 于興飛 于成海 于進堂
于忠 于嘉盛 馬伝林 馬伝鈞 馬連発 馬青山 馬相田 馬徳富 馬徳祥 王子明
王鳳玉 王長生 王雲峰 王守礼 王兆臣 王守金 王安岩 王秀貴 王和 王忠興
王国財 王宝信 王宝珍 王金信 王貴? 王登雲 王徳富 王徳福 王毓栄 王懐吉
尤長発 孔慶玉 孔慶有 牛殿禄 白永財 申永祥 付良民 盧振海 馮興全 馮瑞年
田永 石明玉 石福廷 石徳発 祁鳳亭 伊明俊 任相臣 西毓賢 劉口 劉義清 劉鳳山
黒い太陽731
731復元CG
・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!
●1941年に日本軍は大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳権県庁所在地及び郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。


・「旧日本軍による細菌戦に関する中国民衆の戦争記憶」
東京女子大学教授:聶莉莉(にえりり)
常徳細菌戦
・日本軍は常徳だけでなく、農安、農安大賚(のうあんだいらい)や衢県(くけん)廣信(こうしん)、廣豊、玉山などでも細菌戦を行った。
細菌戦被害の人々
●近藤昭二氏講演
●松村高夫さん(慶応大学名誉教授)
松村講演1
松村講演2









ヒルレポート(総論)




●奈須重雄さん(細菌戦資料センター理事):「731部隊による細菌戦を検証する」3.5公開学習会
細菌戦を検証する!





侵華日軍第731部隊罪証陳列館
【731部隊展実行委員会より】
731部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
731部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!
ぜひ、この機会にあなたの町で「731部隊展」を開いてみませんか?
●「731部隊展」開催のお願い
日本は731部隊の暴行について正式に認めてはいない。
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
細菌戦資料発掘の旅(3)
近藤昭二(本資料センター共同代表 ジャーナリスト)
尋問調書
1949年12月4日 ハバロフスク市
尋問開始:11時15分
私、内務省ハバロフスク地方管理局勤務員少佐コノノフおよび軍事検事法務少佐ボゴドは、本日、以下の捕虜である元日本軍兵士を証人として尋問した。
古都良雄、1924年生まれ
古都証人はロシア連邦共和国刑法第95条に基づく偽証の責任に関し警告された。(署名)
日本語通訳官サンジャロフスキーはロシア連邦共和国刑法第95条に基づく虚偽の通訳に対する責任に関し警告された。(署名)
質問□1949年12月3日の証言で、あなたが731部隊に到着した時、同部隊の第1部長は川島大佐(21)だと言いました。これはその通りですか。
答え□いいえ、1949年12月3日の尋問の際、私が731部隊に到着した時に第1部長は川島大佐だったと証言したのは間違いです。いま思い出したところでは、当時の731部隊第1部長は北川大佐(22)であり、その時川島大佐は第4部長でした。1942年1月頃に、北川大佐は南方戦線に配属になり、彼の役職に北川大佐が任命されましたが、第4部長の役職も兼任したままでした。
川島大佐が第1部長の役職についていたのは数ヶ月でした。また川島はある時期731部隊第3部長の職責も果していたことも知っていますが、それがどの時期だったかは、今は覚えていません。
1943年初め、いつだったかははっきりと覚えていませんが、川島は731部隊から軍の軍医部長の役職に異動になりました。しかしどの軍だったか具体的には知りません〈23)。川島がいなくなった後、731部隊第1部長の役職には菊池大佐が任命されました。
川島の軍の軍医部長任命について、私が知っているのは、731部隊の人員が、この件に関する日本の陸軍大臣の命令書を読み上げたからです。
その後の川島大佐の役職については私は何も知りません。
この質問に関してこれ以上証言できるものは何もありません。
本調書は私の話が正しく書かれており、私に日本語で読み上げられました。(署名)
取調べ担当:
内務省ハバロフスク地方管理局勤務員少佐 (Kononov)
軍事検事法務少佐(Bogod)
通訳:(Sanjarovskii)
相違なし:内務省ハバロフスク地方管理局勤務員
〈手書き:署名〉
4部作成
タイピストZ.M.
(21)川島清、本裁判の被告の1人。
(22)北川正隆、慶大医学部出身、背陰河での部隊創設以来の幹部、昭17.4.5南方軍防疫給水部長として転出。
(23)第1軍の軍医部長に任命された。

・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)

・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
共同研究の結果
共同研究班は原因を解明したとして解散となり、萩野はひとり残されることになった。「イタイイタイ病の原因が栄養不良、過労、ビタミンD不足のはずはない」このことを地元の医師である彼が一番よく知っていた。しかし農民たちは萩野がよけいなことを言ったからだと憤慨した。地元の反発もあり、萩野は孤立無援のなかで独自に研究を進めることになった。共同研究の成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病が日本中に知れ渡たり、さらに萩野が世の注目を集めることになった。
御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
・パネル展(731細菌戦)

※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より

731部隊展のホームページです。
ご覧下さい!!
731部隊展