
グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。
【七三一部隊展2014実行委員会より】
七三一部隊とはどんな部隊だったのでしょう?
日本政府は、中国東北地方にあったこの部隊の情報を隠し続けています!!
七三一部隊展実行委員会では、最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!
ぜひ、この機会にあなたの町で「七三一部隊展」を開いてみませんか?
731部隊のことは、アメリカのCDC(アメリカ疾病予防管理センター・・・1946年に創設され、アメリカ国内・国外を問わず、人々の健康と、安全の保護を主導する立場にある連邦機関。)のビデオでも紹介され、世界では公然の事実とされている。
インターネットエクスプローラーのグーグルで(グーグルクロムでは映りません。)
http://www.bt.cdc.gov/agent/plague/trainingmodule/1/02wmp.htmをご覧下さい!!

●731部隊展開催!!
8月22日(金)~24日(日) 東京(足立:エル・ソフィア)
10月3日(金)~5日(日) 長野 長野歴教協

731部隊!!
夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
731部隊展感想(武蔵野展)
<展示アンケート>
項目4 展示内容についてのご感想、ご意見をお聞かせください。
項目5 このような取り組みについて、どう思いますか。ご意見をお聞かせください。
【4月5日(土)】
★20代 通りがかり
5.とても大切。行動する右翼がのさばっている今、必要なことだと思います。
★40代 チラシ
4.衝撃的すぎる。
5.いいと思う。
(転載)
細菌戦に関与したのは、石井部隊だけではなく、関東軍主力が関わっていた。国際法違反は日本軍全体の問題である。日本側の検証を望む。
中国からのメッセージ!!
日本戦犯・三宅秀也:“指導”して楊靖宇を殺害した

2014年7月29日原文:人民ネット―国際チャンネル
公開資料の22番目の日本戦犯は、三宅秀也の罪業供述書である。三宅秀也は、抗日英雄・楊靖宇等の犠牲に関与している。
1954年8月~1955年4月の供述書は、三宅が1902年、兵庫県生まれ、傀儡満州国熱河省警務庁警務課課長・傀儡奉天省警察庁庁長を歴任したと示している。
重要な罪業:
1936年、傀儡熱河省・傀儡錦州省で逮捕した共産党員及び反満抗日思想の中国愛国者は7066名に達し、内“厳罰”(死刑)は150名。
1938年11月、防疫本部の会議を招集し、“傀儡新京のネズミの伝染病を防ぐためとして、傀儡警察で病原地を包囲し、傀儡農安県城を完全に外部と切断した。”“関東軍は石井部隊に命じて、病原菌のさまざまな研究・実験を進めさせ、他日の細菌戦に備えた。石井部隊は包囲した人民を病原菌の実験に供した。”
1939年9月~1941年3月、傀儡警察機関を指導し、抗日連軍第1路軍を“消滅”させ、約20名を射殺し、約1500名を拘留し、その中には楊靖宇・陳翰章などが含まれていた。
1942年8月3日、傀儡慶安県警察隊に命令し、抗日連軍第3路軍軍長・許享植を射殺した。
1944年7月~1945年8月、傀儡奉天省警務庁庁長時に、部下に命じて、“1市6県だけで、中国人民13180名を逮捕し、そのうち4865名を傀儡検察庁に報告・起訴し、検察庁は14名を死刑判決、獄中で虐殺した。(編集責任:任石、陈建军)(以上:転載)
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅱ 中支・寧波(ニンポー)細菌戦出動始末
-元千葉班・工務班 H・F
川や井戸に細菌攻撃が行われた
軍医を先頭にした1班が、周辺の集落の様子や、川や井戸の水の汚染度などを調べるのだ。住民に病名の分からない病人が出たと言う情報をキャッチすると、軍医は、「薬」を持って「治療」に出かけた。患者の治療という名目で、逆にいろいろ調べたのだろう。血液などを採取して帰ってきたようだ。治療法の実験もあった。このような、細菌の実験は全部で3回くらいあった。いずれも、周辺で、正体不明の病気が流行した、と聞いた。
このような日常を目撃していると、どうやら今回の「出張」は、細菌戦の実戦訓練を目的としているらしいと、我々にも察しがついた。
とは言うものの、我々には、我々の任務があった。工務班としては、もうほとんどすることが無かったので、我々は、基地内の管理、補修のほかに、食糧の調達など、基地内の雑役をやらされた。
食糧の買出しによく行った。前もって、基地から車で3、40分のところにある中国人集落に「何日頃、何々が欲しい」と連絡しておいて、トラックで出かけるのである。その中国人集落には、市場があった。
市場と言っても、路傍に品物を並べた程度のものに過ぎなかったが、ともかくも、必要な物は揃えられた。だいたい1回行くと、1週間分ぐらいの食糧を買ってくる。
豚や牛、ニワトリなどの肉、野菜、果物、そしてお米。代金は、無論ちゃんと支払った。中国人たちは、我々に何も訊かないし、我々もまた、何もしゃべらない。彼らが基地まで物を売りに来ることは、絶対に無かったし、また、不可能だった。

寧波細菌戦
寧波については最初の方にあります。
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦被害の人々(寧波細菌戦)









中国側はペストの発生で防疫活動に大わらわ!!

ペスト流行地区を最後には焼き払う!!


「731部隊展」開催のお願い
日本はかつて侵略戦争によって、中国やアジアの人々に多大な犠牲を強いてきました。現在も731部隊被害者を含め戦争の被害者や遺族は、日本に責任を取るように訴えていますが、日本政府は無視を続けています。
731部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの被害者を切り捨てるための基準となっています。医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。
731部隊跡地はいま、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国につくった部隊施設が、なぜ世界遺産に値するのか、過去を知らない人にとって、不思議に思うことかもしれません。外国からも多くの人が部隊遺跡を訪れ、日本人がどういう目で見られるのでしょうか。
「日本と日本の市民には歴史に関する記憶喪失がある」と国際的な風評があります。日本人にとって、今731部隊展を行うことが、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの事実を伝えていきたいと考えています。
みなさま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊展」を開いていただければと思います。
貸出要項
1、パネル・・貸出料 3日以内(10,000円)7日以内(15,000円) 455×605mm(A2判若干大き目)40枚縦向き 但しパネル9と29は横向き
2、 模型・・貸出料 1台1回 7日以内 (5,000円)
① 生体解剖 (62 × 82 × 高さ59)
② 凍傷実験 (82 × 72 × 高さ58.5)
③ 感染実験 (77 × 74.5 × 高さ58.5)
◎ 送料は各自で負担してください。
◎ もし壊してしまったときは修理費用の負担をお願いします。
保険への加入をお勧めします。
*その他、要望等に関してはお受けいたしますのでご連絡ください。
七三一部隊展2013事務局 exhibition731@yahoo.co.jp

画面を全部見たい場合は、絵の上で左クリックしてください!!

七三一部隊展2014実行委員会
mail exhibition731@yahoo.co.jp
日常/ #3ドキュメント2013.12.6
秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
「秘密国家」日本! 日本医療の原罪!!731部隊!!

「731部隊と帝銀事件の真相」を書き起こしてみたいと思う。(長いですが)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
・・・・・・
1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店で行員12人が毒殺され、現金と小切手が奪われる強盗殺人事件が発生した。世に言う「帝銀事件」である。しかし、なぜ一時に12人の人々が殺されたのか?手口はこうである。
その男が銀行に現れたのは午後3時、閉店直後、男はこう切り出す。
「近くで集団赤痢が発生しました。予防薬をみなさんに飲んでいただかなくてはなりません。占領軍の命令です。」腕には東京都の防疫班の腕章。行員たちは疑うことなく男を銀行内に招き入れた。
男はおもむろにカバンから予防薬を取り出すと集めた湯のみ茶碗に注いだ。そして行員たちを前に静かにこう言ったのである。「さあ、どうぞ。」だが、しばらくすると突然行員たちは苦しみ出す。
そう、飲まされたのは予防薬ではなく毒薬だったのダ。鑑識の結果使われた毒薬は青酸ニトリールと言われている。青酸ニトリールとは飲むと数分後に症状が出始め、ゆっくりと確実に死に至るという特殊な毒薬だったのである。
戦後のまだ何もなかった時代。こんな特殊な毒物を使える人物とはいったい誰なのか。
帝銀事件を捜査した刑事のメモが残っている。そこには警察が容疑者として強い疑いを抱いたある集団の名が記されている。それは731部隊。
731部隊とは旧日本軍の秘密特殊部隊である。任務は生物化学兵器の開発。
彼らの活動内容を知る者は、一部の政治家と軍・警察関係者だけ。
終戦後もその存在を知る国民はほとんどいなかったという。
隊長は、石井四郎中将。
彼らは様々な生物兵器開発のため、中国人など3000人以上の人々に人体実験を行い、命を奪ったと言われている。
「できるだけ少ない量の細菌でできるだけ広い地域をできるだけ多くの人たちを傷つけるにはどうしたらいいかと、効き目を測るのには人体実験をできると(開発の)スピードが早くなるわけですね。その為にやった。」(常石敬一)
そんな731部隊には人体実験で毒薬を飲ます時、相手を安心させる決まり文句があったという。
「近くで伝染病が発生した。予防のために薬を飲むように。」
そう、帝銀事件で犯人が口にした言葉も
「近くで集団赤痢が発生しました。予防薬を皆さんに。」
事件発生当時かつて731部隊の隊長だった石井はこう発言している。
「(犯人は)俺の部下にいるような気がする。」
事態を重く見た捜査当局は731部隊の旧隊員たちをしらみつぶしに捜査。追い詰めていった。
しかし、「即刻 731部隊に関する捜査を中止せよ。」命令を出したのは占領軍最高司令部(GHQ)、警察は黙って従うしかなかった。
・・・・・・・・・・
事件の真相は未だ謎のままなのだ。
謎を解く鍵はアメリカ、サンフランシスコにあった。
ここに、731部隊と当時の占領軍に関する重要書類を持つ男がいたのである。
長年731部隊を調べ続けてきたジョン・パウエル氏。
彼が見せてくれたのは、終戦直後旧日本軍の戦争犯罪を調査に当たったGHQの戦争犯罪調査報告書。
そこには恐るべき記述があった。
なぜアメリカは731部隊の捜査を中止させたのか?
「731部隊関係者を戦争犯罪の裁判にかけ、公にすることは貴重なデータの流出につながる。731部隊のデータの最大の価値は動物ではなく人間を実験材料にしたことです。それは生物兵器開発を始めたばかりのアメリカにとって是が非でも欲しいものでした。当時アメリカが最も恐れたのは敵対していたソ連に731部隊のデータが渡ってしまうこと。その為にアメリカはある決断をしたと言う。それは密約したんですよ。」
アメリカと731部隊が交わした密約とは!?
一体何だったのか?
「アメリカは人体実験のデータと引き換えに731部隊の戦争犯罪は問わないという約束をね。」
事実731部隊幹部は全員戦犯として裁かれていない。
・・・・・・・・・
帝銀事件から2年後、アメリカは朝鮮戦争に突入。この時早くもアメリカは731部隊の知識を活かした生物兵器を使用した疑いを持たれている。
さらに続くベトナム戦争(1960年から75年)でもアメリカは生物兵器を使ったと言われているのだ。
それまでベトナムでは一度も発生したことのないペストが流行したと言うのである。
・・・・・
フォート・デトリック基地
パウエル氏によれば731部隊から入手したデータはこの生物化学兵器研究所に持ち込まれ、その結果アメリカの生物兵器開発は急速に発展したと言う。
そして、1972年、時のアメリカ大統領ニクソンはある国家プロジェクトを発表する。「ガン撲滅プロジェクト」である。この時ニクソンがプロジェクトの本部を置いたのがなぜか生物化学研究所だったという。
そして実にこのプロジェクトの真の目的はガン撲滅ではなく、ウィルス実験だったと言う男がいる。・・・医学博士アラン・キャンドウェル氏である。
「ウィルスをある種の生物から別の種の生物に入れ替えるととても危険なウィルスに生まれ変わることがあります。当時生物化学研究所ではガン研究の名に隠れてそうした実験が連日繰りかえされていました。そして実はその過程で生み出されたのがあの恐ろしいエイズ・ウィルスなのです。」
なんとエイズ・ウィルスは生物化学研究所で生み出されたと言うのだ。
それが意図して作られたのか、偶然の産物か定かでない。
しかし、注目すべき発言がある。1969年、軍の生物兵器担当者のアメリカ議会公聴会での発言。
「我々はヒト免疫システムを破壊する新しいウィルスを作る計画を持っています。」それは、正にエイズ・ウィルスそのものではないか。
そして、さらに驚くべき主張をする男がサンフランシスコにいた。ジャーナリストのディブ・エモリー氏。
「エイズ・ウィルスはアメリカの生物兵器開発計画の中で人工的に作られてものです。恐らく731部隊のデータも利用したと考えられます。」
もし、本当だとしたら・・・・
時は過ぎ、1985年日本で起きたのが薬害エイズ事件である。
血友病患者が非加熱製剤を輸血したことでエイズ・ウィルスに感染。この事件にも驚愕の裏舞台が存在した。
この非加熱製剤をアメリカから輸入し続けたのは製薬会社ミドリ十字。この会社は昭和25年、日本で民間初の血液銀行「日本ブラッドバンク」の名で創立された。その創立者の男には驚くべき過去があった。それは、なんと731部隊に所属していたのだ。戦犯から免れたその男は、朝鮮戦争で傷ついた米兵の輸血のために、会社を作り成功を収めた。創立から14年、昭和39年日本ブラッドバンクは社名をミドリ十字に変更、そして1980年代ミドリ十字は非加熱製剤を輸入し販売し続けた。85年アメリカでは非加熱製剤の危険性を危惧し、製造を禁止した後もである。それが戦後最悪の薬害事件を起こす原因となったのだ。今から、66年前に起きた帝銀事件、アメリカによりその捜査対象から外され、研究データと引き換えに戦争犯罪を免責されたという731部隊、その旧隊員らが作った会社がエイズ・ウィルスに汚染された非加熱製剤を輸入し、販売したのである。
「帝銀事件と薬害エイズ」2つの大事件の背後に浮かぶのは旧日本軍の亡霊731部隊、果たしてこれは偶然なのだろうか?
731~福島まで!!
日本の医学界は、731部隊のことを反省していない。
国立感染症研究所や陸上自衛隊の研究室ではどんなことが研究されているのだろうか?
精魂塔とは何だ?
中国で、細菌兵器を精魂こめてつくったことを称え、そこで殉職した職員を供養している塔なのか、それとも、実験のために虐殺した多くのマルタ(被験者)の霊を供養している塔なのかさっぱりわからない?
建立者、建立年月日、塔の由来などいっさい刻まれていない異様な塔である。
・・・ちなみに、詳しく調査した結果、この建立者である二木秀雄という人物は、731部隊の主要メンバーの一人であり、第一部(細菌研究)の中にある二木班(結核研究)の代表者だ。
(懇心平等万霊供養塔より)
動物慰霊碑(登戸研究所)
碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。・・・・
動物慰霊碑1

記念写真(中央 三笠宮)
日中戦争における登戸研究所の役割
2013シンポ731山田朗講演
日本政府はいまだに731部隊が第2次大戦中、捕虜に細菌・生物実験を施したことを正式に認めていない。昨年11月、東京高裁は中国人毒ガス被害者の訴えを棄却した。その理由は「当時の行為を予見することは不可能だった」。原告側の「日本政府が迅速に措置をとっていれば事件の発生は防げた」との訴えは退けられた。だが、これほどの被害を「運が悪かっただけ」だと片づけてしまってよいのだろうか?
まさに人間地獄・・731遺跡博物館の何とも言えぬ重苦しさ―中国紙
日本医学界の原罪!!
731部隊とは?
平房から悲痛な叫び、全世界への訴え!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
731部隊とは
劇映画:黒い太陽731
アウシュビッツよりもひどい!!
731部隊
プライム10「731細菌戦部隊」
細菌戦部隊731
大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。
どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。
731部隊に関与した医師・医学関係者 作成者:小俣和一郎
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
封印された真実5
朝枝繁春(元大本営作戦参謀)の証言
人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになると。
(戦犯訴追が)直に天皇にこれがくる。
1952年の日本学術会議で若手が731部隊の反省・総括が必要だとの主張に対し。医学界のある重鎮はこう言い放った。
「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労までして日本で作るようなバカが出ましたら、そんなバカなことをするなと言う勧告を私からよく致しますから、その点ご安心下さい。」
この発言の主は戸田正三(元京大医学部長)であった。
戸田は、戦争中731部隊に積極的に協力した石井の京大時代の恩師である。
石井隊長の戦後1
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」
細菌戦被害の人々
1644部隊員の証言
井戸に細菌をまく作戦中に○○さんが忘れられないことがある。
4,5才の子どものことだ。その子は何も知らずに○○さんたちの所に近寄ってきた。小隊長は「殺せ」と命じた。絶対命令だった。その子をそばの建物の2階へのぼらせて窓から外を見せていた。その時、飛行機が飛んできた。「あれを見ろよ。」と言いながら、突き落とした。
ところが、頭から落ちず運悪く尻から落ちた。尻の所が血だらけになって泣いていた。
指揮官がオレがやると短銃で撃った。1発であたらず、2発目で死んだ。・・・・
初めて知った戦争「大久野島」「731」
731部隊の下級隊員の戦後の人生!!
・・・1945年10月、○○さんは復員しました。
しかし、敗戦によって部隊から離れた後も○○さんの苦しみは消えませんでした。
戦後、連合国は戦犯に対して厳しい追及を行いました。731部隊の隊員たちの間にも自分は呼び出しを受けるのかという不安が広がりました。
安達(アンダー)の実験場で人体実験にかかわった○○さんは「戦犯で捕まったら死刑だ。身元を隠していろ。」と上官から言われていました。引き揚げてすぐに名前を変え、山奥で炭を焼いたり、西日本の工事現場を転々としました。身元が明らかになることを恐れて一度も正式の職員になることはありませんでした。・・・・
語り部フォーラム
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)近藤昭二
731部隊から福島へ!(1時間20分~1時間33分あたり)
広瀬隆氏講演in福島「IAEAとICRP~原子力マフィアによる被曝強
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
中国等の日本陸軍病院では、生体手術演習が麻酔もかけずに行われていた!!
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」
「ドキュメンタリー『天皇と軍隊』をめぐって」(3)
日本の医学界は、原爆被爆、水俣病、・・・・薬害エイズ、福島原発事故などで苦しんでいる人を救ったのであろうか?
原爆
原爆の子
禁止される原爆報道・医学研究
ファーレル准将が広島を視察した後、1945年9月19日、GHQ(連合国軍総司令部)は「プレスコード」を発令し、連合国、占領軍の利益に反するすべての報道を禁止しました。これによって、1952年4月に占領が終わるまで、原爆の被害のほとんど不可能になったのです。
記事だけでなく、写真も映画フィルムも同じでした。
・・・・
救援に駆けつけたジュノーさんの活動も妨害します。世界に向かって救援を呼びかけたジュノーさんの電報は、打電できませんでした。
11月には原爆被害の医学研究も禁止しました。これには日本の医学者たちが猛烈に反対しますが、どうにもなりませんでした。(『チェルノブイリから広島へ』 広河隆一著より)
※米国が組織した原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)の日本側初代代表は都築正男だったが、GHQの原爆に関する研究発表禁止に反発し追放処分となり、その後継者となったのが重松である。(まともな人間がハネられるのは原子力ムラの常である)
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着くより
忘れられた兵士たち
※本当に医学者たちは猛烈に反対したのか?
日本政府は、アメリカに全面協力し、被害者の救済には当たらず、被害の実態を調べた「原爆報告書」をつくった。
自国民の原爆被爆被害を日本軍部が喜んで米国のために調査した本当の理由
封印された原爆報告書
自国民さえも実験台として、嬉々として自国民の被爆調査を行い、自発的に英訳して調査報告書を渡す。全ては、七三一部隊の秘匿、そして、天皇に対する免責を勝ち取るためだったのではないのでしょうか。この取引は十分に功を奏したようで、太田昌克氏の著作にも人体実験に対する米国の追求はどこか間が抜けたものとして書かれています。単純に細菌兵器の技術、実験結果を知りたかったためとしては、やはり片手オチ。米国は、第二次世界大戦で最も知りたかった情報を自ら差し出してきた日本軍部と取引したのではないでしょうか。そうしない限り、この七三一部隊の隠蔽理由(いまだにこの部隊はでっち上げだという論陣を張る人がいます。それは、悪魔の飽食の書評を見ただけで明らかでしょう)をどうしても納得できません。
原爆被爆者は、軍部免責、天皇制維持のための、数少ない有力なカードだったのではないでしょうか。
天皇や三笠宮も731に行っていた?(生体実験を知っていた?)40分あたりから
unit731
広島や長崎に、アメリカが設置したABCC(原爆障害調査委員会)(被害調査はしたが治療はまったくしなかった)の傘下に元731部隊員もいた国立予防衛生研究所の支部が置かれた。
そしてABCCの後継機関が放射線影響研究所だ。
そこの理事長だったのが重松逸造だった。
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
山下俊一のお師匠さん、
重松逸造も、戦中の医学界の流れを引き継いだ!!
重松逸造とはどんな人物?
プルトニウム元年 第3作 1993年8月放送 3/5