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「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ

ペタしてね

人体実験が結ぶもの
軍部は731部隊に実験材料(被験者)と資金を提供し、医学者?は人体実験により速やかにその効果を確め、そのデータをもとに強力な生物兵器の開発を急いだ。
軍のメリット
・強力な生物兵器の開発
・流行性出血熱などの新たな病原体の発見による新兵器の開発
・凍傷実験・ワクチン開発などによる味方兵士の防御
・毒ガス実験による経済的な兵器の開発
医学者?のメリット
・ペストやコレラ等日本では出会えない病原体の研究
・流行性出血熱などの新発見の病気
・凍傷やワクチン研究による新しい治療法の発見
・毒ガス実験等病理データの蓄積
医学者?は人体実験によって様々な研究テーマに取り組んだ。
軍部は、これらの実験を絶対秘密にしたかったが、戦後、731部隊員はそれらを論文にまとめて医学界で出世したためそれはかなわなかった。(驚くことにアメリカからも日本の大学からもお咎めが無かった。)
日中戦争が連合国との戦争へと拡大し、国内は総動員体制下となった。医学界も体制化に組み込まれ、医学界は軍部の動向に沿うようになる。その中で、軍部を利用する医学者も現れた。
旧日本軍「731部隊」、人体実験で23人博士号取得―韓国メディア
Japan unit731 maruta(日本軍731部隊の残虐)


細菌戦は行われた
731部隊は、中国各地で細菌戦を行った。
主なものは、1940年農安・大賚(だいらい)細菌戦、農安細菌戦、寧波(にんぽー)細菌戦、衢州(くしゅう)細菌戦1941年常徳細菌戦、1942年淅贛(せっかん)細菌戦、廣信(こうしん)・廣豊(こうほう)・玉山(ぎょくざん)細菌戦。
陸軍は細菌兵器を大量殺戮兵器として期待した。人体実験、野外人体実験、大規模野外人体実験、中国の主要都市(非占領地)への細菌戦の試行、実際の戦場での試行を行い、細菌戦のデータを蓄積した。各種病原体の撒布方法を改良し、兵器はまだ開発中であったが、民衆に多くの被害者を出した。病原体はペスト菌と炭疸菌が有望視され、ペストノミ(PX)は最も期待された。
731部隊員の金子順一は昭和19年に「雨下撒布ノ基礎的考察」等の論文を書き、つぶさに細菌戦の調査をしている。
『金子順一論文集(昭和19年)』紹介
七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書

【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅱ 中支・寧波細菌戦出動始末
―元千葉班・工務班 H・F
・・・
こうした周辺の偵察行動を踏まえて、細菌攻撃班が出動した。これは、軍医を含む専門班である。いずれも中国服に着替えて、朝、トラックで基地を出発する。
細菌の実験が行なわれる場合は、その日の朝、各天幕ごとに命令受領の際、「本日は、どこどこで細菌の実験を行なうので、その方面の水は飲まないように」と通達があった。
出動した細菌の専門班は、あらかじめ調べてあった川の上流に潜入して、試験管に入れたペストやチフスやその他の細菌を川に流すらしい。井戸に投入することもあったと言う。
夕方、彼らは基地に帰ってきた。あらかじめ、衣類や車は、外で噴霧器を用いて消毒してから、基地に帰って来る。そして、風呂の天幕に行って、消毒風呂に入る。ヌルマ湯で消毒臭い風呂から出ると、普通の風呂に入って、臭いを落とすのだが、なかなか、臭いは消えないものだ。
「今日は細菌を使ったな」というのは、否応無く分かってしまう。それから数日すると、細菌を混入させた川の周辺一帯に、効果測定班が出て行った。写真班も同行した。
軍医を先頭にした1班が、周辺の集落の様子や、川や井戸の水の汚染度などを調べるのだ。住民に病名の分からない病人が出たと言う情報をキャッチすると、軍医は、「薬」を持って「治療」に出かけた。患者の治療という名目で、逆にいろいろ調べたのだろう。血液などを採取して帰ってきたようだ。治療法の実験もあった。このような、細菌の実験は全部で3回くらいあった。いずれも、周辺で、正体不明の病気が流行した、と聞いた。
このような日常を目撃していると、どうやら今回の「出張」は、細菌戦の実戦訓練を目的としているらしいと、我々にも察しがついた。
・・・・(中略)・・・
中国人集落の上で細菌爆弾が炸裂
当日の朝、例によって朝の命令受領時に、「本日、○○方面に爆弾を投下するので、注意せよ」と通達されたのである。
我々のうち1人として、投下されるのが、ただの爆弾ということを信じている者は、いなかった。投下されるのは、100パーセント間違いなく「細菌爆弾」なのだ。
爆弾を投下するという航空機は、はるばる平房の部隊本部から飛来すると言う。731部隊は、こうした実験に備えて、専用の飛行機と飛行場―つまり航空班を有していた。
やがて基地の上空に、複葉の小型機が飛んできた。おそらく、平房を出発して、あちこちの飛行場経由でやってきたのだろう。低い爆音を残してさほど高くはない上空を通過していく。将校や居合わせた隊員たちは、木造棟や天幕から飛び出してきて、「あれだ、あれだ」と叫びながら、一斉に飛行機に向けて、手を振った。
飛行機は飛び去った。おそらく前もって選定された目標の中国人集落へ、爆弾を投下したに違いない。それも、「細菌爆弾」をだ。
私は、この航空機による細菌爆弾攻撃を目の前にしながら、安達での一連の実験を思い出していた。
安達(アンダー)の実験場では、どうしたら内部の細菌を殺さずに、しかも有効に「細菌爆弾」を投下・爆発させられるかを、「丸太」を使って、繰り返し実験した。
鉄製の容器だと破裂させるのに多量の火薬が必要となり、その結果生じる高熱と衝撃で細菌が死んでしまう。そこで、鉄のかわりに陶器製の容器が開発されたりした。
そうした、安達での実験の集大成が、今、1つの中国人集落を対象に、行なわれようとしているのだ。もちろん、表向きは、その中国人集落は「敵性集落」と説明されていた。
だが、私には、この細菌爆弾の投下が、実践的攻撃と言うよりも、実験的色合いが強いように思われた。
この爆弾の投下は、出動した全期間を通じて、3、4回、あったと思う。細菌の中身は、おそらくペスト菌であろう。石井731部隊長も、飛来したことがある、と聞いたが、地上の我々には確かめようがなかった。
爆弾が投下されてから1週間ほどたつと、効果測定のために専門班が編成されて、出かけて行く。この時、倉庫から、防毒衣、防毒面等が出されるので、我々は、ペスト菌だとわかるのである。ペストは空気感染なので、防毒衣がないと、味方もやられてしまうのだ。
効果測定には、軍医、写真班、軍属のほか数人の護衛の兵士を含めて、2、30人が出動した。出動した隊員によると、標的とされた中国人集落への途中までは車で行くらしい。
ある地点に来ると、全員車から降りて、防毒衣・防毒面を着用する。白い潜水服を着たような異様な一団となって、さらに山道をたどり集落に入る。
集落では、すでに家を明けて逃げ出す者も多い。あちこちに、発病した村人が横たわっている。例外なく高熱にうなされている。
軍医たちは、すばやく手分けして、病人の状態を調べる。呼吸、脈拍、体温を記録していく。病人が、爆弾を落とされた時、どこにいたのかなどを質問する。手当てと称して、何か処置をしたり、病人の血液を採取する。まだ、発病していない者がいると、当時どこにいたのか訊問する。そして、何か注射している。私の聞いたところでは、健康な者には、あらためて細菌を注射するようなこともあったらしい。結果的に集落は、全滅に近い被害を受けてしまうのである。
写真班は、その情景の1つひとつを、丹念に写している。病人の苦しむ様子も克明に16ミリで撮っている。
ひとおとりの効果測定が済むと、全員、遺留品を残さぬようにして、集落を撤退する。車の所まで戻ってくると、噴霧式の消毒器で防毒衣や備品を徹底的に消毒してから、基地に帰って来る。そして、さらに消毒風呂で、完全に消毒するのだ。


ペストノミ(PX)のよる細菌戦
金子順一論文集(防疫研究室所属)の中に『PXの効果略算法』論文がある。その「第1表 既往作戦効果概見表」は6地域の細菌戦を分析している。PXとは「ペスト菌を感染させたノミ」という細菌兵器のことである。
効果(罹患致死)とは、ペストによって殺害した人の数である。農安ではノミを5g(1gは約2300匹)撒布している。量の少ないもの(g)は地上撒布、多いものは(Kg)は飛行機からの空中散布である。一次は一次流行の死亡者総数、二次は二次流行の死亡者総数。全死亡者は19646人になる。

731部隊は自らペスト菌を撒布し、ペストを流行させた。写真はペスト撲滅隊ではなく、敵兵を担架で運こんだ後、生体解剖したのではないか?(1942年6月3日、大阪朝日新聞)


細菌の大量生産
731部隊では、攻撃用の細菌の大量生産を行っていた。1ヶ月あたり製造量(理論値)は、ペスト菌300kg、炭疸菌600kg、赤痢菌800~900kg、腸チフス菌800~900kg、パラチフス菌800~900kg、コレラ菌1000kgである。(細菌製造班長:柄沢十三夫の供述)
※柄沢はハバロフスク裁判が終わり、恩赦で釈放され日本に帰国する直前、自殺した。

作業は培養基の表面に繁殖した細菌を白金耳でかき取るという危険なものであった。
ノミの大量生産は、石油缶の中にフスマ(麦かす・ノミ床)を敷き、動けなくした状態のネズミ(ノミの餌)を入れて行った。ノミが光を避ける性質を利用して、分離した。ネズミは量産され、捕獲もされた。

ロ号棟の1階が細菌製造工場であった。一連の設備が揃っており、ベルとコンベアで培養缶が運ばれた。
第4章
731部隊の戦後

マッカッサーの厚木飛行場へ降り立った時の第一声は、「ジェネラル・石井はどこにいるか?」だった。アメリカは、自国の遅れていた生物兵器開発の情報を日本から得ようと、当初から画策していた。部隊長石井四郎は、アメリカに巣鴨拘置所に入れられることなく、
尋問を受け、731部隊員全員の戦犯免責と引き換えに、細菌戦のデータを提供した。

石井四郎は、喉頭がんで、67歳で死去している。
アメリカは、ソ連に嘘を言い続けた!!
「同氏は旧陸軍の細菌戦戦術専門家で、終戦当時、ソ連側から細菌戦首謀者として戦犯リストにあげらたが、総司令部は証拠がないと反ばく、米軍諜報部に保護され、戦犯指定をまぬかれ話題となった。」(毎日新聞1959年10月11日)

軍事裁判と戦後処理
ソ連
ソ連は、戦後シベリア抑留者から731部隊員を探し出し、軍事裁判の準備に取り掛かった。
そこで、731部隊で人体実験の事実を知ると、石井らの尋問をアメリカに要求したが、
アメリカの工作によって、思うように尋問ができなかった。
結局、東京裁判で、ソ連は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを断念した。
そこで、ソ連は東京裁判の不完全さに世界の目を向けさせようと、ハバロフスクで、1949年軍事裁判を行い、全世界に発信した。
しかし、アメリカをはじめとする西側諸国はこれを黙殺。
ハバロフスクの12人の被告のうち2人は服役を終えて、帰国、1人は病死した。
1956年日ソ共同宣言に伴って、残り9人の帰国が決定した。
しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
※ソ連は、この裁判で細菌戦の事実を知り、そのデータを収集し、自国の生物兵器の開発に参考にしたのだろう。

中国
撫順の戦犯管理所に731部隊員は入れられ、人道的な扱いを受け、徐々に自らの罪を告白した。1956年の瀋陽の裁判で、榊原はソ連戦に備えて、細菌の大量製造などを認めた。中国は、日中の国交回復を優先させたため、日本軍の組織的犯罪に触れることなかった。刑は、榊原は懲役13年言い渡されたが、刑は執行されず、翌年帰国、田村(篠塚)ら細菌戦犯4人は不起訴、釈放された。
7年にかけて綿密に調べ天皇や731部隊員の責任を追及した日本軍細菌戦調査書は法廷に提出されなかった。
平房近くの村では、731部隊撤退時に、逃げ出したネズミによって、1946年夏にペストが流行し、多くの人が犠牲になった。その後も、ペストの流行に警戒している。



1990年代、731部隊の生体実験の被害者や、細菌戦の被害者が日本政府を相手取って裁判を起こした。(戦後補償裁判)

アメリカ
アメリカは、敗戦直後から調査団を送り731部隊のデータの収集を始めた。
特に1947年1月にソ連から人体実験の事実を知らされると、石井らに戦犯免責を与える代わりに、731部隊のデータを要求し、ソ連に情報が漏れないように、そのデータの独占を図り、自国の生物兵器開発に利用した。


日本
アメリカが731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占したので、東京裁判には誰一人としてかけられなかった。ソ連からの追及もアメリカの保護により、まぬかれた。
そして、731部隊のことは戦後隠蔽された。


細菌戦部隊医学者の戦後
1945年8月石井部隊は帰国。
石井は解散に先立って、部隊員に次のような命令を下していた。
「第1項は、部隊の内容は秘匿せい。隠せ。連合軍による尋問を受ける場合には、防疫給水業務に従事しとったと答えよ。
第2項目目は、官公庁に就職するな。
第3項目目が、隊員相互の連絡はするな。」
石井は占領軍による追及を恐れ、部隊員たちに機密の保持を厳命したのである。
こうして731部隊員たちは、日本全国に散っていった。
米軍との戦犯取引が成立し、東京裁判は1948年11月に判決が下された。ソ連は日本での731部隊の追及が失敗し、ハバロフスク裁判は1949年12月に終結した。1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結された。戦争責任の追及は終了となる。
「他言禁止」はほぼ維持されたが、多くの幹部は公職についた。
大学教授になったり、ミドリ十字を立ち上げてそこに731部隊員を引き入れた。
また、病院を開業したもの、研究所や自衛隊に職を得たものもいた。驚くことに国立予防衛生研究所(今の国立感染症研究所)の初代、2代、5,6,7代の所長が731部隊関係者であった。
人体実験に悩み、自殺した東大助教授もいた!!



以下、『チェルノブイリから広島へ』広河隆一著:岩波ジュニア新書より
「戦後、元731部隊に協力したり、部隊で生体実験をしたりしていた学者は、日本の血液産業やワクチン産業の中心的な役割を果たし、また医学界のトップに立った者もいました。ところでこの人々はまた、厚生省傘下の国立予防衛生研究所にも入りました。広島大学の芝田進午教授は、初代から7代目までの予防衛生研究所の所長のうち6人までが731部隊協力者だったという報告をしています。
さて広島では、ABCC(アメリカが設置した原爆傷害調査委員会)の傘下に国立予防衛生研究所支部が置かれました。この機関に、広島の学者たちの多くが協力しました。」


※ここでも、731とABCCの深いつながりが見える。原爆投下後の広島で日本医学界は総力をあげて、原爆被害調査(治療ではない!)をしたが、そのときも731部隊員が参加している。
原爆の非人道性を非難せず、アメリカの喜ぶような被害調査を実施し、181冊に及ぶ報告書を英訳してアメリカに渡した。これは、天皇制護持と731部隊の蛮行を秘匿するためだった。731での人体実験がソ連によって明らかにされると、アメリカは、石井らに細菌戦のデータをすべて要求し、それらを買収した。そして、731部隊員らを全員に戦犯免責を口頭で与えた。
731部隊関係者が、原爆・原子力の方向へと協力していく。
731部隊・原爆という両者の非人道性をお互い帳消しにしようということか?

以下、『チェルノブイリから広島へ』広河隆一著:岩波ジュニア新書より
「ところがこの直前の9月6日、原爆投下のマンハッタン計画の副責任者であるファーレル准将は、帝国ホテルで記者会見を行ない、「原爆放射能の後遺障害はありえない。すでに広島・長崎では、原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」という声明を発表するのです。
ファーレルの宣言によって、被爆者の存在は社会から隠され、被爆者の国際救援の道は閉ざされました。・・・

禁止される原爆報道・医学研究
ファーレル准将が広島を視察した後、1945年9月19日、GHQ(連合国軍総司令部)は「プレスコード」を発令し、連合国、占領軍の利益に反するすべての報道を禁止しました。これによって、1952年4月に占領が終わるまで、原爆の被害のほとんど不可能になったのです。
記事だけでなく、写真も映画フィルムも同じでした。
・・・・
救援に駆けつけたジュノーさんの活動も妨害します。世界に向かって救援を呼びかけたジュノーさんの電報は、打電できませんでした。
11月には原爆被害の医学研究も禁止しました。これには日本の医学者たちが猛烈に反対しますが、どうにもなりませんでした。
日本側の調査は、団長の都築正男東大教授らによって、45年8月29日に開始されました。しかしやがて都築氏はGHQによって、公職を追放されました。
アメリカは、原爆を落としてから23年も後の1968年になって国連に原爆白書を提出しますが、そこでは残留放射能による被害を否定し、生きている被爆者には病人はいないと報告しています。
被爆者問題に取り組む弁護士の椎名麻紗枝さんは、『原爆犯罪』(大月書店)という本の中で、アメリカが苦しんでいる被爆者が1人もいないかのように見せかけたのは、何よりも原爆の残虐性、非人道性を隠すためだった、と述べています。・・・

何もしなかった日本
日本の政府も、1945年8月10日に、国際法違反だとしてアメリカに抗議した後は、今に至るまで1度も、原爆投下に対して抗議をしませんでした。アメリカも、日本の被爆者に対して謝罪をしていません。日本では国に損害賠償を請求する訴訟が1度だけ行われましたが、このいわゆる原爆訴訟は、判決文の中でアメリカの原爆投下行為を国際法違反とした画期的なものでしたが、損害賠償については原告敗訴が言い渡されました。この裁判の中で1955年に国は、原爆使用は国際法に違反しているとは言えないと主張しました。この主張は今に至るまで繰り返され、被爆国日本が、こともあろうに原爆投下を国際法違反として非難もしないので、世界中が驚いています。(以上 引用)


731部隊員であった石川太刀雄丸は戦後金沢大学の医学部長までなったが、1944年の日本病理学会会誌には次のように書いてある。「昭和15年秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行ったが、これは体数において世界記録であるが・・・・」
731部隊が行った細菌戦の成果を見るために剖検(生体解剖か?)を57体行った。この人は、広島の原爆調査でも、解剖している。昭和48年に、大量の消化管出血で急逝している。


細菌戦部隊医学者の博士論文
731部隊員や他の防疫給水部隊員は、部隊での研究業績を使って学位(博士)を取得した。
東大、京大、九大、阪大、慶大、岡山大学、日本医科大学、新潟大学、慈恵会医科大学、金沢大学・・・等が学位を与えていた。
例)金子順一・・・授与大学:東大:1949年1月10日・・・主論文名「雨下撒布ノ基礎的考察」『防疫報告』8冊を『金子順一論文集』として申請

旧日本軍「731部隊」、人体実験で23人博士号取得―韓国メディア

731 部隊関係者等の京都大学医学部における博士論文の検証

陸上自衛隊衛生学校
自衛隊では今でも、細菌戦の研究しているのではないか?日本は細菌戦について全く反省していない!!

戦後、陸上自衛隊の衛生関係には731部隊などの元細菌戦部隊員が就職した。衛生学校では『保安衛生』(後『防衛衛生』のほかに『衛生学校記事』を発行していた。
第4代衛生学校長の金原節三は「衛生学校の研究部員とか部隊付け隊員などによる研究業績の中には、いわゆる秘扱のものもあり、市販の許されている『保安衛生』に発表するわけにゆかぬものもありますので、私の発案で、衛生学校の責任で、別に『衛生学校記事』を発行することになった」と述べている。
目次を見ると、細菌戦の記事(米軍資料の翻訳)が掲載されている。自衛隊は戦前を継承しているのではないのか。現在防衛省は『衛生学校記事』は「ない」として、公開を拒否している。

井上義弘   第5代衛生学校長 南方軍防疫給水部
中黒秀外之  第6代衛生学校長 731部隊
園口忠男   第8代衛生学校長 731部隊

「ジャーナリスト同盟」通信より
<衛生学校記事の情報公開裁判>
「衛生学校記事」といっても、素人にはわからない。原告の和田千代子が報告記事を載せている。
それによると、「衛生学校記事」とは陸上自衛隊の衛生学校が発行している内部研究誌。同誌に1941年当時、陸軍省医事課長として731部隊等による細菌戦に関与していた軍医大佐・金原節三、1940年から敗戦まで731部隊に所属していた軍医少佐・園口忠男らが、同誌に細菌戦に関する文章を載せている。
ということは、731部隊の悪しき成果を自衛隊も継承している。そこで和田らは、防衛省に731部隊関連の情報公開を求めている、ということのようだ。

これも注目される動きである。731部隊の悪しき実績は全て米軍に持ち込まれて、日本には存在しないとされてきた。実際は、日本の自衛隊にも継承されてきている。その資料がある。それの情報公開を求めて裁判を起こしているのである。

民主的な政権交代によって、731部隊関連の極秘資料を公開させる責任と義務が日本国民にある。次回公判は4月17日11時45分。
<SOSの永田町>
70年以上前の蛮行を特定秘密にすることは許されない。今まさに世界から日本の歴史認識が問われている。国家神道を引きずる安倍内閣のもとで特定秘密保護法、靖国参拝、次いで戦争する集団的自衛権行使の閣議決定と、政変がらみの政局は緊迫の度を増している。

それにしても、こうした小さな信念を貫く運動は、必ずや花を咲かせる必要があるだろう。13億人の人民も注目している。
2014年3月6日2時25分記

防衛省の秘密主義に迫れ

自衛隊の証拠隠し
高裁は海自の証拠隠しも認める

第5章
731部隊を告発する

3000人以上の生体実験!中国での細菌戦!
我々日本人は、この現実にどのように対処したらいいのだろうか?
中国では731部隊跡地を世界遺産にしようと、活発な動きが出てきた!!

【北京時事】中国国家文物局は18日までに、世界文化遺産登録を目指す45件のリストを公表した。旧日本軍の細菌兵器開発のため設置した旧関東軍防疫給水部(731部隊)跡地も加えられた。
731部隊跡地は黒龍江省ハルビン市にあり、一部の施設が保存され、陳列館が公開されている。
18日の中国紙・新京報によると、跡地は2002年に世界遺産登録の申請が計画され、10年に3000人余の被害者名簿が公表されたのを受け、申請の動きが活発化。ハルビン市は11年、跡地を保護する条例を施行した。
時事通信 2012年11月18日(日)18時55分配信

中国は731部隊遺跡の世界遺産への申請を通じて日本の恥をさらす、ロシア専門家が指摘―中国メディア

戦争の語り部 篠塚良雄
1923年千葉県生まれ。39年5月少年隊として731部隊に入隊、ハルビンへ。
教育を受けた後、細菌製造班に配属された。
・・・・
ペスト菌を使った人体実験と生体解剖に関与
最初に生体解剖に関わった中国人男性のことは、今も良く覚えています。私は、その男性からにらみつけられると、目を伏せる以外にありませんでした。ペストに感染させられたその男性は、ペストが進行するに連れて、顔や体が真っ黒になりました。まだ息のある状態で、特別班によって、裸のまま担架で解剖室に運ばれてきました。
軍医から解剖台の男の体を洗うように命ぜられ、ホースから水を出してデッキブラシで体を洗いました。手や足がもたついていました。軍医がその男の胸に聴診器を当てて心音を聴きました。聴診器が体を離れると同時に、解剖が始まりました。命じられるままに、解剖されて切り刻まれた臓器を、コルペンに入れたり、準備していた培地に塗りつける作業を行いました。2ヶ月足らずで、5人の中国人を殺害しました。3人目の生体解剖を終えた後に、班長から、「お前もやっと1人前に近づいたな」と言われました。
上官に命ぜられるままに実行したことですが、戦争犯罪の実行者としての責任は私にあります。731部隊が犯した戦争犯罪は絶対に隠蔽してはなりません。終生、世界に伝えていく責任を負っています。

戦争の語り部 三尾豊
1913年11月岐阜県生まれ。34年1月「岐阜歩兵第68連隊」に入隊。41年4月大連憲兵隊本部に所属。大連憲兵隊時代「満鉄調査部事件」と「大連黒石礁事件」に関わる。1945年8月25日逮捕され、46年3月シベリアに送還。50年7月ソ連から中国に引き渡され「撫順戦犯管理所」(日本人捕虜969名)に収容される。56年、釈放され帰国。57年「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、証言活動に取組む。1998年7月85歳で逝去。

●大連黒石礁(こくせきしょう)事件
1943年、大連地区からソ連のチタ方面に向けての「怪電波」を捕え、海岸地区黒石礁の中国人経営の写真館がその発信源であることを突き止めました。半年の内定後、憲兵60人動員して写真館を包囲し、送信者を逮捕し、機器を押収し、家族・同居人を連行しました。取調べの結果、無線士「沈徳龍」という28歳の朝鮮族で、大連駐在のソ連領事館の指揮下で諜報活動していたことが判明しました。翌日には、天津憲兵隊と協力して、王燿軒、王学年も逮捕することができました。彼らを大連憲兵隊に連行し、連日に渡って拷問にかけましたが、期待した結果は得られませんでした。
何の資料も証言も得られないまま、逮捕した4人(沈徳龍、李忠善、王耀軒、王学年)を731部隊に送致しました。その護送は私に任命されました。部下に「便所は一緒に入り、他者との会話は一切禁止する」などと言い渡し、衣服の下に捕縄をかけて、超特急アジア号のトイレつきの客車の後部9席を使って出発しました。ハルビン駅に着いて、私は移送状と4人を、待ち構えていた私服の憲兵に引渡し、身柄受領書を受け取りました。・・・


削られた731部隊
家永訴訟(教科書裁判)


今の自民党は忌まわしい過去を消し去ろうとしている!!
【声明】自民党による教科書会社幹部への圧力に怒りを込めて抗議する

家永さんが書いた教科書の「731部隊」の記述が検定によって、削除されたが、この部分に関しては、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。
731部隊の事実は、最高裁で認められた!!

家永教科書裁判は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎が教科用図書検定(教科書検定)に関して、「教科書検定は憲法違反である」と国を相手に起こした一連の裁判。

「私はここ一○年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三八・九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるためにあえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としてもだまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます」(「家永訴訟」)。

1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年第3次訴訟がある。1997年、第3次訴訟の最高裁判決「教科書検定制度は合憲」をもって敗訴が確定した。
検定内容の適否については、7件中4件について、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。
・草莽隊による年貢半減の公約。
・南京大虐殺
・中国戦線における日本軍の残虐行為。
・旧満州731部隊。
以上の検定を違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。
※この83年度の検定では削除された731部隊の生体実験は87年度検定では認められて教科書にも登場している。

軍医学校跡地で発見された人骨
誰の骨なのか?(何で頭蓋骨が欠けていたり、銃弾の貫通した跡があるのか?)
・1989年、新宿区戸山の旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の建設現場から、多数の奇妙な人骨が発見された。新宿区の鑑定によると、複数のアジア系人種を含み、10数体の頭骨には、銃創や刺創のあるもの、手術痕のあるものが見られ、アジア各地から集められた軍医学校の医学標本類であることがわかった。
・発見された場所は、旧陸軍軍医学校跡地。その敷地内にあった防疫研究室は、731部隊(防疫給水部隊)の中枢機関だった。
※戦時中、731部隊はハルビンで人体実験を行ない、その標本類を飛行機で、東京に運んでいたのではないか?
・人骨は、1991年9月~92年3月、新宿区が独自鑑定に取組み、その後、厚生省(当時)が由来調査に取組み、2001年に調査結果を公表。今後の調査の可能性を残して、国立感染症研究所内に保管されている。

軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会

「さらに多数の人骨埋設か 新宿の旧陸軍軍医学校跡」(昨年6月の朝日新聞記事)

731部隊国家賠償請求裁判
※731部隊の人体実験等が裁判所によって事実認定された!!

1995年、731部隊被害者の遺族敬蘭芝(けいらんし)さん、王亦兵(おうえきへい)さんら8名は、日本国に対し、731部隊の人体実験による殺害行為に基づく損害賠償請求の訴えを東京地方裁判所に起こした。

原告:敬蘭芝さん・・・1941年、夫の朱之盈(しゅしえい)とともに憲兵隊に捕まり、激しい拷問の末に本人は釈放されたが、夫はそのまま特移扱いになり、帰らぬ人となった。(牡丹江事件)
原告:王亦兵さん・・・1943年、父の王耀軒と叔父の王学年が憲兵隊に捕まり、拷問の末731部隊に送られ、犠牲者となった。(大連黒石礁事件)

東京地裁(1999年)は、
①「原告ら本人の各供述、証人三尾豊〔憲兵〕の証言は、極めて真摯かつ平明率直に真実を述べたもの」、
②731部隊は、「細菌兵器の大量生産、実戦での使用を目的としたものであり、そのため、『丸太』と称する捕虜による人体実験もされた」、
③「1945年8月、証拠隠滅のため施設が徹底的に爆破された」、
④「戦後の極東裁判ではその責任が問われなかったがソ連及び中国の軍事裁判ではその実態が追及され、責任が問われた」、
⑤「731部隊の存在と人体実験等がされていたことについては、疑う余地がない」、
⑥「我が国の占有侵略行為及びこれに派生する各種の非人道的な行為が長期間にわたり、多数の中国国民に甚大な戦争被害を及ぼしたことは、疑う余地のない歴史的事実」と認定し、「我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と判決した。

2005年4月19日、東京高等裁判所において、731部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟(この訴訟については、戦後補償裁判(2)もご覧ください)の控訴審判決が言い渡されました。この訴訟は1995年に提訴され、1999年9月22日に、東京地裁が原告らの請求を棄却する判決が言い渡されており、原告側が控訴していました。・・・

(2)の争点について、旧日本軍の行為については法例11条の適用はなく、中華民国民法による請求はできない、としました。その理由は、第一に、旧日本軍の加害行為は公権力の行使であるので、国際私法が適用される事例ではないこと、第二に、仮に法例11条が適用されるとした場合であっても、法例11条2項は「日本ノ法律」によって「不法ナラサルトキ」は不法行為にならないと規定しており、大日本帝国憲法下では公権力の行使による不法行為については損害賠償を求めることができなかったとして、いわゆる国家無答責の法理を採用し、中華民国民法の適用を否定しました。

戦後補償裁判――(21) 731部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟

国家無答責


731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件訴訟 最高裁決定 2007年5月10日 10:45
主文
本件上告を秦却する。
本件を上告審として受理しない。
上告費用及サ申立費用は上告人兼申立人らの負担とする

細菌戦国家賠償請求裁判
731部隊等は、日中戦争中、中国各地で、ペスト菌やコレラ菌を用いた細菌戦を実行し数万人の中国民衆を殺害した。1997年と99年に、淅江省(せっこうしょう)と湖南省(こなんしょう)の計180人の細菌戦被害者が日本国に謝罪と賠償を求め提訴した。地裁・高裁で計13人の専門家と2人の元部隊員が証言した。

東京地裁(2002年)と東京高裁(2005年)は、
①731部隊や1644部隊は各種の人体実験を行って細菌兵器を開発・製造し、淅江省の衢州(くしゅう)・寧波(ニンポー)・江山、湖南省の常徳で細菌戦を実施した。
②細菌戦は日本軍の戦闘行為の一環として陸軍中央の指令により行なわれた。
③衢州や常徳のペストは周辺に大流行した。
④原告被害地だけでも1万人を超える犠牲者を出した。
等の事実を認定した。
また細菌戦が1925年のジュネーブ議定書の禁止する「細菌学的戦争手段の使用」に該当し、日本国には中国に対するハーグ陸戦条約3条に基づく賠償責任が成立(但し1972年の日中共同声明で消滅)したと認定した。
最高裁判所は2007年5月に上告を棄却。
しかし、中国では若い世代が追悼行事や被害者調査に参加し、日本政府に謝罪を求めている。

細菌戦の事実を認定!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。

細菌戦は国際法違反の戦争犯罪である-細菌戦裁判の
提訴にあたって


判決文全文

終わりに
中国が世界文化遺産登録を目指す45件の中に、731部隊の跡地が加えられた。
同様の遺産として、1996年に広島の原爆ドーム、1997年にポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所等が登録されている。決して忘れてはならない、繰り返してはならない人類の経験であり、平和のための遺産である。

日本は、かつて侵略戦争によって、中国やアジアの人々に多大な犠牲を強いた。現在も、731部隊の被害者を含めて、戦争の被害者や遺族は日本に責任を取るように訴えているが、日本政府は無視し続けている。
731部隊が戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きい。
医学者が協力して設定した、原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの被害者を切り捨てるための基準となっている。医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いている。
731部隊跡地は、間もなく世界遺産に登録されるであろう。日中戦争中に、日本が中国に造った部隊施設が、なぜ世界遺産に値するか、731部隊を知らない人には不思議なことかもしれない。外国からも多くの人々が見学し、その眼で日本人を見るだろう。
「日本と日本の市民には歴史に関する記憶喪失があるとの国際的風評がある」という。日本人にとって、731部隊跡地の世界遺産登録は、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会になる。
2013年「731部隊パネル展」より




西里扶甬子講演会
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演1(2014)


「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演2(2014)


「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演3(2014)


731細菌戦部隊と現在 1 慶大 松村高夫


731細菌戦部隊と現在 2 慶大 松村高夫


731細菌戦部隊と現在 3 慶大 松村高夫


常石敬一講演会
「731部隊とは?今問う意味は」1
「731部隊とは?今問う意味は」1 神奈川大学 常石敬一


「731部隊とは?今問う意味は」2  神奈川大学 常石敬一


「731部隊とは?今問う意味は」3 神奈川大学 常石敬一


自国民の原爆被爆被害を日本軍部が喜んで米国のために調査した本当の理由
自国民さえも実験台として、嬉々として自国民の被爆調査を行い、自発的に英訳して調査報告書を渡す。全ては、七三一部隊の秘匿、そして、天皇に対する免責を勝ち取るためだったのではないのでしょうか。この取引は十分に功を奏したようで、太田昌克氏の著作にも人体実験に対する米国の追求はどこか間が抜けたものとして書かれています。単純に細菌兵器の技術、実験結果を知りたかったためとしては、やはり片手オチ。米国は、第二次世界大戦で最も知りたかった情報を自ら差し出してきた日本軍部と取引したのではないでしょうか。そうしない限り、この七三一部隊の隠蔽理由(いまだにこの部隊はでっち上げだという論陣を張る人がいます。それは、悪魔の飽食の書評を見ただけで明らかでしょう)をどうしても納得できません。

原爆被爆者は、軍部免責、天皇制維持のための、数少ない有力なカードだったのではないでしょうか。


天皇や三笠宮も731に行っていた?(生体実験を知っていた?)40分あたりから
unit731


731部隊から福島へ!(1時間20分~1時間33分あたり)
広瀬隆氏講演in福島「IAEAとICRP~原子力マフィアによる被曝強


重松逸造という男
プルトニウム元年 第3作 1993年8月放送 3/5


闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)近藤昭二