
第2章「マルタ」
ロ号棟(四方楼)に囲まれた特設監獄(7棟、8棟)に被験者は「マルタ」(丸太)と呼ばれ収容され、人体実験が行われていた。
憲兵隊と「特移扱」(特別移送扱)
憲兵隊や特務機関に逮捕された者は秘密裡に731部隊に送られた。人体実験の被験者は「マルタ」と呼ばれた。「丸太」という意味である。
「特移扱」(とくいあつかい)は、憲兵隊が実験材料「マルタ」を731部隊に供給するための制度である。
憲兵は、特移扱でマルタを731にたくさん送れば、出世した。731部隊にとっては、大量の実験材料を速やかに入手できるものであった。
抗日活動家やソ連のスパイは裁判にかけられず、731部隊に送られた。
もちろん、無実の者でも、憲兵隊での脅迫や拷問下での取り調べの実情が、外部に漏れるのを防ぐために、731部隊に送られた人もいた。
「特移扱」文書
吉林省档案館発行の『「731部隊」罪業鉄証』には、戦争当時の憲兵隊の文書の写真が載っている。
そこには、工作名 イワン 「特移送スルヲ至当トミ認ム」と書いてある。
中国人 張生文は、抗日活動をしていたのだろうか?工作名イワンと名乗り、活動していた。そして、憲兵隊に捕まり特移送された。すなわち、731部隊に送られた。
731部隊に送られた者の数ははっきりしていないが、731部隊の総務部長や細菌製造部長であった川島清ハバロフスク(ソ連)裁判の供述調書に「強力な伝染病を囚人に罹患させる実験によって毎年600人以上が死んでいた」という証言を残している。
1939年から1945年の敗戦までには、少なくとも3000人が被験者とされ、殺された。
朱玉芬(しゅぎょくふん)の父と叔父
私は朱玉芬です。父は雲彤(うんとう)で叔父は朱雲岫(うんしゅう)です。2人とも抗日連軍(東北抗日連軍)にいました。憲兵隊に捕まって、731部隊に送られました。
2人とも731部隊で実験されて亡くなりました。
第3章
731部隊の人体実験
731部隊をはじめ、石井機関、陸軍病院その他の施設では、密かに人体実験が行われていた。
中国に作った日本の陸軍病院では、手術演習の名のもとに、生体解剖が行なわれた。
731部隊では、ペスト菌の毒力を増すために、ペスト菌の注射そして、その後に生体解剖、その他の菌でも、行われた。
また、細菌戦をやったところに赴いて、防疫活動の名のもとに、生体解剖を行なった。
軍医として中国・山西省へ
ペスト(黒死病)
平澤正欣軍医少佐の博士論文『「イヌノミ」の「ペスト」媒介能力ニ就テノ実験的研究』には、イヌノミがペストを動物に感染媒介する能力についての実験が報告されている。それによると、ペストに感染したイヌノミを3人の被験者に一匹附着すると、ペストになる人は0人で0%、5匹附着すると1人で33%、10匹附着させると2人で66%である。
ノミには14種類あり、その中でどのノミが細菌戦に有効であるかを研究していた。
その結論として、ケオピスネズミノミが一番感染力、抵抗力があることがわかり、このノミを細菌戦に使用することになる。
炭疽(Anthrax)
731部隊では、いろいろな細菌の培養をし、兵器化していた。
戦後、アメリカは、731部隊員から入手したデータを使って、731部隊員をアメリカに呼んで、3つの英文レポートを書かせている。Aレポート(炭疸菌)、Gレポート(鼻疽菌)、Qレポート(ペスト菌)である。
戦時中、731部隊ではいろいろな生体実験が行なわれたが、その中に炭疸菌の実験があった。
炭疸菌を皮下注射した場合、症例数1で、症例番号54番は7日で死んだ。
経口感染させたものは、症例数6で、318番、26番は3日で死に、320番、328番、325番、17番は2日で死んだ。
経口撒布感染させた者は12人で、411番は4日で死に、・・・・・
経鼻感染させた者は、4人で、380番は3日で死んだ。・・・・・
流行性出血熱
満州で原因不明の風土病がはやった。
そのとき、731部隊は調査隊を送って、人体実験をして原因を調べた。
1938年にソ連との国境地帯に不明疾患が続出した。死亡者は年々増加し、致死率は15%であった。この出血熱は、発病地の名前を取って、孫呉熱とか虎林熱と呼ばれ、731部隊は調査班を編成して派遣した。731部隊内には特別研究実験班を設置し、「特殊研究」を行わせた。
病原体は北満トゲダニから分離され、濾過性(ウィルス)と特定された。1942年12月に流行性出血熱と命名され、現在は腎症候性出血熱といわれる。
「特殊研究」とは人体実験のことである。
毒ガス実験
731部隊と516部隊(関東軍化学部)は、合同で毒ガスの人体実験を行っていた。
516部隊には、731部隊の分遣隊が置かれていた。石井部隊は背陰河時代に青酸の人体実験を行っていた。平房の本部は、毒ガス実験室を作り、ガラス張りの部屋に毒ガスを発生させて、中の「マルタ」を観察した。
瀬戸内海に浮かぶ大久野島では大量の毒ガス兵器が作られ、中国で使用された。当時、生産に携わった人の中には、そのときの後遺症で今なお治療を受けている人もいる。
また、戦時中、中国では、日本軍が使用した毒ガス兵器によって多くの人が死んだり、731部隊や516部隊の実験材料にされて、無残に殺された人も多い。
日本軍が敗戦で引き揚げるときに、多くの毒ガス弾を中国に遺棄したことによって、今の中国では、その毒ガス弾に触れたり、爆発によって被害が出て、日本で裁判も現在進行中である。
化学兵器廃絶を目指し、被害者を支援する ― 遺棄毒ガス問題ポータルサイト ―
遺棄毒ガス被害者家族の現状(ABC企画ニュース89号より)

相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅰ ファインダーがとらえた地獄
―総務部調査課写真班 T・K
「新京陸軍病院衛生兵から731部隊員へ」より
毒ガス実験の撮影は命がけだった
・・・「丸太」は、1回に1人ずつ、特別班員によって中に連れて来られる。足かせをはめられ、後手に縛られて、ガラスのボックスの中に立ったまま入れられる。
じっと息を殺したような重苦しい時間が流れる。やがて、ボックスの中の「丸太」がまるで居眠りでもするように、次第に顔をうつむけていく。5分ぐらいたったろうか。「丸太」は、ひとつ大きな「あくび」のような息をして、ガクッとこうべを垂れる。絶命の瞬間だ。
1回の実験で、4、5人の「丸太」を次々とこうして毒ガスで殺す。
カメラを構えている私の近くの壁に、小鳥(カナリアだったか、十姉妹だったか)を入れた鳥かごがぶら下げてあった。よく見るとほかにも、2、3の鳥かごが同じようにかけてある。
「これ何のためですか」と聞くと、516部隊の将校が、「かごの中の鳥の様子に注意せよ」という。そして、小鳥の様子に異常を認めたら逃げろ、と指示された。
つまり、この実験で使用されたのは、無色無臭の窒息性毒ガスで、しかも実験設備では、毒ガスがもれる恐れがあるということなのだ。
O大尉に731部隊行きを誘われた時、40歳ぐらいまで気楽な軍属として働こうと思っていた私は、731部隊の想像もしていなかった危険な実態を、身にしみて感じ、はげしく悔恨のほぞをかんだが、もう遅かった。
毒ガス野外実験
陸軍の毒ガス研究開発は、関東軍化学部(516部隊)、第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、浜松陸軍飛行学校などが担った。攻撃方法は迫撃砲などの砲弾によるもの、地上で撒布・放出するもの、飛行機による雨下(空中撒布)や毒ガス弾の投下などであった。731部隊では、毒ガスの人体に及ぼす影響を、人体実験を行い研究した。
1940年9月7日~10日にかけて、砲門4門(600発)と十榴8門(600発)のきい弾〔イペリット・糜爛性(びらんせい)ガス〕の射撃を実施。第1,2,3地域に分け、野砲偽掩体、壕、観測所、掩蓋MG(機関銃)座、特殊構築物などに被験者を配置した。被験者を毒ガスマスクを装着するもの、しないものに分けた。
赤ん坊への凍傷実験
シベリア出兵(1918年~22年)時には、全軍の3割が凍傷に罹った。ソ連軍との戦争を想定していた関東軍にとって、凍傷の治療は克服しなければならない課題であった。
吉村寿人(ひさと)班では次の手順で実験を行った。
1、零下20℃以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る。
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する。
3、凍傷になった腕を温度差のある湯につけて、回復具合を見る。時により患部が壊死・脱落して骨があらわになる。
吉村らはこれらの実験から凍傷のメカニズムを明らかにし、「治すには体温程度の温水につければよい」という画期的な治療法を発見した。石井はこの発見をことあるごとに誇っていたという。
生後3日、1ヶ月、6ヶ月の赤ん坊への実験。
なんと赤ん坊でも実験を行っていた。
・・・・「中指に針を埋め込み、摂氏0℃の氷水に30分入れ、皮膚内部の温度変化を調べた。生後3日から1ヶ月後までこの実験が毎日行われた。吉村はこの被験者は、共同研究者の二男だと弁解している。」
※もちろん、中国人の赤ちゃんなども、実験に使われていたのではないか?
吉村が自著『喜寿回顧』の中でも、モンゴル人少年の凍傷実験の様子を写した写真を載せている。反省など全く見られない。
戦後、吉村は、京都府立医大学長までなるが、日本生理学会において731部隊で行った凍傷実験を「私の研究遍歴」と題して発表し、学会からは批判も出ていた。
凍傷実験に被験者にされた人は、手が無くなったりしたが、死ぬまで何らかの実験に使われた。
医学者たちの独走
731部隊での実験は、細菌戦の準備とは無関係に医学者の好奇心だけで行われたものがほとんどである。
・乾燥器にかけて熱風を送る。
・何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか。
・パンだけ与えて、水を一切やらなかったらどうなるか。
・ガラスチェンバーでのガス実験。
・梅毒実験。
・逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどの様に変化するか。
・X線の長時間照射。
・チスフ菌入り甘味まんじゅう実験。
・手榴弾を、露出したマルタのお尻付近で爆発させ、破片の突き刺さり具合の調査。
・真空実験、減圧実験。
・ビタミンCの大量注射。
・A型からO型(血液)への輸血。
・右腕と左腕を取り替える。
・ロシア人母子への青酸ガス実験。
・・・・・・・・・
731部隊で人体実験が行われている時期に平行して、大学医学部や石井機関でも「治療」と称して人体実験が行われ、多くの被害者を出している。日本に於ける、731部隊と民間の人体実験への姿勢は無関係ではなく、同じ医学パラダイム内での行為である。
人体実験が結ぶもの
軍部は731部隊に実験材料(被験者)と資金を提供し、医学者?は人体実験により速やかにその効果を確め、そのデータをもとに強力な生物兵器の開発を急いだ。
軍のメリット
・強力な生物兵器の開発
・流行性出血熱などの新たな病原体の発見による新兵器の開発
・凍傷実験・ワクチン開発などによる味方兵士の防御
・毒ガス実験による経済的な兵器の開発
医学者?のメリット
・ペストやコレラ等日本では出会えない病原体の研究
・流行性出血熱などの新発見の病気
・凍傷やワクチン研究による新しい治療法の発見
・毒ガス実験等病理データの蓄積
医学者?は人体実験によって様々な研究テーマに取り組んだ。
軍部は、これらの実験を絶対秘密にしたかったが、戦後、731部隊員はそれらを論文にまとめて医学界で出世したためそれはかなわなかった。(驚くことにアメリカからも日本の大学からもお咎めが無かった。)
日中戦争が連合国との戦争へと拡大し、国内は総動員体制下となった。医学界も体制化に組み込まれ、医学界は軍部の動向に沿うようになる。その中で、軍部を利用する医学者も現れた。
旧日本軍「731部隊」、人体実験で23人博士号取得―韓国メディア
細菌戦は行われた
731部隊は、中国各地で細菌戦を行った。
主なものは、1940年農安・大賚(だいらい)細菌戦、農安細菌戦、寧波(にんぽー)細菌戦、衢州(くしゅう)細菌戦1941年常徳細菌戦、1942年淅贛(せっかん)細菌戦、廣信(こうしん)・廣豊(こうほう)・玉山(ぎょくざん)細菌戦。
陸軍は細菌兵器を大量殺戮兵器として期待した。人体実験、野外人体実験、大規模野外人体実験、中国の主要都市(非占領地)への細菌戦の試行、実際の戦場での試行を行い、細菌戦のデータを蓄積した。各種病原体の撒布方法を改良し、兵器はまだ開発中であったが、民衆に多くの被害者を出した。病原体はペスト菌と炭疸菌が有望視され、ペストノミ(PX)は最も期待された。
731部隊員の金子順一は昭和19年に「雨下撒布ノ基礎的考察」等の論文を書き、つぶさに細菌戦の調査をしている。
『金子順一論文集(昭和19年)』紹介
七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅱ 中支・寧波細菌戦出動始末
―元千葉班・工務班 H・F
・・・
こうした周辺の偵察行動を踏まえて、細菌攻撃班が出動した。これは、軍医を含む専門班である。いずれも中国服に着替えて、朝、トラックで基地を出発する。
細菌の実験が行なわれる場合は、その日の朝、各天幕ごとに命令受領の際、「本日は、どこどこで細菌の実験を行なうので、その方面の水は飲まないように」と通達があった。
出動した細菌の専門班は、あらかじめ調べてあった川の上流に潜入して、試験管に入れたペストやチフスやその他の細菌を川に流すらしい。井戸に投入することもあったと言う。
夕方、彼らは基地に帰ってきた。あらかじめ、衣類や車は、外で噴霧器を用いて消毒してから、基地に帰って来る。そして、風呂の天幕に行って、消毒風呂に入る。ヌルマ湯で消毒臭い風呂から出ると、普通の風呂に入って、臭いを落とすのだが、なかなか、臭いは消えないものだ。
「今日は細菌を使ったな」というのは、否応無く分かってしまう。それから数日すると、細菌を混入させた川の周辺一帯に、効果測定班が出て行った。写真班も同行した。
軍医を先頭にした1班が、周辺の集落の様子や、川や井戸の水の汚染度などを調べるのだ。住民に病名の分からない病人が出たと言う情報をキャッチすると、軍医は、「薬」を持って「治療」に出かけた。患者の治療という名目で、逆にいろいろ調べたのだろう。血液などを採取して帰ってきたようだ。治療法の実験もあった。このような、細菌の実験は全部で3回くらいあった。いずれも、周辺で、正体不明の病気が流行した、と聞いた。
このような日常を目撃していると、どうやら今回の「出張」は、細菌戦の実戦訓練を目的としているらしいと、我々にも察しがついた。
・・・・(中略)・・・
中国人集落の上で細菌爆弾が炸裂
当日の朝、例によって朝の命令受領時に、「本日、○○方面に爆弾を投下するので、注意せよ」と通達されたのである。
我々のうち1人として、投下されるのが、ただの爆弾ということを信じている者は、いなかった。投下されるのは、100パーセント間違いなく「細菌爆弾」なのだ。
爆弾を投下するという航空機は、はるばる平房の部隊本部から飛来すると言う。731部隊は、こうした実験に備えて、専用の飛行機と飛行場―つまり航空班を有していた。
やがて基地の上空に、複葉の小型機が飛んできた。おそらく、平房を出発して、あちこちの飛行場経由でやってきたのだろう。低い爆音を残してさほど高くはない上空を通過していく。将校や居合わせた隊員たちは、木造棟や天幕から飛び出してきて、「あれだ、あれだ」と叫びながら、一斉に飛行機に向けて、手を振った。
飛行機は飛び去った。おそらく前もって選定された目標の中国人集落へ、爆弾を投下したに違いない。それも、「細菌爆弾」をだ。
私は、この航空機による細菌爆弾攻撃を目の前にしながら、安達での一連の実験を思い出していた。
安達(アンダー)の実験場では、どうしたら内部の細菌を殺さずに、しかも有効に「細菌爆弾」を投下・爆発させられるかを、「丸太」を使って、繰り返し実験した。
鉄製の容器だと破裂させるのに多量の火薬が必要となり、その結果生じる高熱と衝撃で細菌が死んでしまう。そこで、鉄のかわりに陶器製の容器が開発されたりした。
そうした、安達での実験の集大成が、今、1つの中国人集落を対象に、行なわれようとしているのだ。もちろん、表向きは、その中国人集落は「敵性集落」と説明されていた。
だが、私には、この細菌爆弾の投下が、実践的攻撃と言うよりも、実験的色合いが強いように思われた。
この爆弾の投下は、出動した全期間を通じて、3、4回、あったと思う。細菌の中身は、おそらくペスト菌であろう。石井731部隊長も、飛来したことがある、と聞いたが、地上の我々には確かめようがなかった。
爆弾が投下されてから1週間ほどたつと、効果測定のために専門班が編成されて、出かけて行く。この時、倉庫から、防毒衣、防毒面等が出されるので、我々は、ペスト菌だとわかるのである。ペストは空気感染なので、防毒衣がないと、味方もやられてしまうのだ。
効果測定には、軍医、写真班、軍属のほか数人の護衛の兵士を含めて、2、30人が出動した。出動した隊員によると、標的とされた中国人集落への途中までは車で行くらしい。
ある地点に来ると、全員車から降りて、防毒衣・防毒面を着用する。白い潜水服を着たような異様な一団となって、さらに山道をたどり集落に入る。
集落では、すでに家を明けて逃げ出す者も多い。あちこちに、発病した村人が横たわっている。例外なく高熱にうなされている。
軍医たちは、すばやく手分けして、病人の状態を調べる。呼吸、脈拍、体温を記録していく。病人が、爆弾を落とされた時、どこにいたのかなどを質問する。手当てと称して、何か処置をしたり、病人の血液を採取する。まだ、発病していない者がいると、当時どこにいたのか訊問する。そして、何か注射している。私の聞いたところでは、健康な者には、あらためて細菌を注射するようなこともあったらしい。結果的に集落は、全滅に近い被害を受けてしまうのである。
写真班は、その情景の1つひとつを、丹念に写している。病人の苦しむ様子も克明に16ミリで撮っている。
ひとおとりの効果測定が済むと、全員、遺留品を残さぬようにして、集落を撤退する。車の所まで戻ってくると、噴霧式の消毒器で防毒衣や備品を徹底的に消毒してから、基地に帰って来る。そして、さらに消毒風呂で、完全に消毒するのだ。
細菌の大量生産
731部隊では、攻撃用の細菌の大量生産を行っていた。1ヶ月あたり製造量(理論値)は、ペスト菌300kg、炭疸菌600kg、赤痢菌800~900kg、腸チフス菌800~900kg、パラチフス菌800~900kg、コレラ菌1000kgである。(細菌製造班長:柄沢十三夫の供述)
※柄沢はハバロフスク裁判が終わり、恩赦で釈放され日本に帰国する直前、自殺した。
作業は培養基の表面に繁殖した細菌を白金耳でかき取るという危険なものであった。
ノミの大量生産は、石油缶の中にフスマ(麦かす・ノミ床)を敷き、動けなくした状態のネズミ(ノミの餌)を入れて行った。ノミが光を避ける性質を利用して、分離した。ネズミは量産され、捕獲もされた。
ロ号棟の1階が細菌製造工場であった。一連の設備が揃っており、ベルとコンベアで培養缶が運ばれた。
第4章
731部隊の戦後
マッカッサーの厚木飛行場へ降り立った時の第一声は、「ジェネラル・石井はどこにいるか?」だった。アメリカは、自国の遅れていた生物兵器開発の情報を日本から得ようと、当初から画策していた。部隊長石井四郎は、アメリカに巣鴨拘置所に入れられることなく、
尋問を受け、731部隊員全員の戦犯免責と引き換えに、細菌戦のデータを提供した。
石井四郎は、喉頭がんで、67歳で死去している。
アメリカは、ソ連に嘘を言い続けた!!
「同氏は旧陸軍の細菌戦戦術専門家で、終戦当時、ソ連側から細菌戦首謀者として戦犯リストにあげらたが、総司令部は証拠がないと反ばく、米軍諜報部に保護され、戦犯指定をまぬかれ話題となった。」(毎日新聞1959年10月11日)
軍事裁判と戦後処理
ソ連
ソ連は、戦後シベリア抑留者から731部隊員を探し出し、軍事裁判の準備に取り掛かった。
そこで、731部隊で人体実験の事実を知ると、石井らの尋問をアメリカに要求したが、
アメリカの工作によって、思うように尋問ができなかった。
結局、東京裁判で、ソ連は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを断念した。
そこで、ソ連は東京裁判の不完全さに世界の目を向けさせようと、ハバロフスクで、1949年軍事裁判を行い、全世界に発信した。
しかし、アメリカをはじめとする西側諸国はこれを黙殺。
中国
撫順の戦犯管理所に731部隊員は入れられ、人道的な扱いを受け、徐々に自らの罪を告白した。1956年の瀋陽の裁判で、榊原は細菌の製造などを認めた。中国は、日中の国交正常化を優先させたため、刑は執行されず、戦犯は日本に帰国した。
1990年代、731部隊の生体実験の被害者や、細菌戦の被害者が日本政府を相手取って裁判を起こした。(戦後補償裁判)
アメリカ
アメリカは、敗戦直後から調査団を送り731部隊のデータの収集を始めた。
特に1947年1月にソ連から人体実験の事実を知らされると、石井らに戦犯免責を与える代わりに、731部隊のデータを要求し、ソ連に情報が漏れないように、そのデータの独占を図り、自国の生物兵器開発に利用した。
日本
アメリカが731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占したので、東京裁判には誰一人としてかけられなかった。ソ連からの追及もアメリカの保護により、まぬかれた。
そして、731部隊のことは戦後隠蔽された。
細菌戦部隊医学者の戦後
1945年8月石井部隊は帰国。部隊員を前にして、部隊のことは他言するな、公職につくなと、石井四郎は松陰神社の境内で訓示した。
米軍との戦犯取引が成立し、東京裁判は1948年11月に判決が下された。ソ連は日本での731部隊の追及が失敗し、ハバロフスク裁判は1949年12月に終結した。1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結された。戦争責任の追及は終了となる。
「他言禁止」はほぼ維持されたが、多くの幹部は公職についた。
大学教授になったり、ミドリ十字を立ち上げてそこに731部隊員を引き入れた。
また、病院を開業したもの、研究所や自衛隊に職を得たものもいた。驚くことに国立予防衛生研究所(今の国立感染症研究所)の初代、2代、5,6,7代の所長が731部隊関係者であった。
以下、『チェルノブイリから広島へ』広河隆一著:岩波ジュニア新書より
「戦後、元731部隊に協力したり、部隊で生体実験をしたりしていた学者は、日本の血液産業やワクチン産業の中心的な役割を果たし、また医学界のトップに立った者もいました。ところでこの人々はまた、厚生省傘下の国立予防衛生研究所にも入りました。広島大学の芝田進午教授は、初代から7代目までの予防衛生研究所の所長のうち6人までが731部隊協力者だったという報告をしています。
さて広島では、ABCC(アメリカが設置した原爆傷害調査委員会)の傘下に国立予防衛生研究所支部が置かれました。この機関に、広島の学者たちの多くが協力しました。」
※ここでも、731とABCCの深いつながりが見える。原爆投下後の広島で日本医学界は総力をあげて、原爆被害調査(治療ではない!)をしたが、そのときも731部隊員が参加している。
原爆の非人道性を非難せず、アメリカの喜ぶような被害調査を実施し、181冊に及ぶ報告書を英訳してアメリカに渡した。これは、天皇制護持と731部隊の蛮行を秘匿するためだった。731での人体実験がソ連によって明らかにされると、アメリカは、石井らに細菌戦のデータをすべて要求し、それらを買収した。そして、731部隊員らを全員に戦犯免責を口頭で与えた。
731部隊関係者が、原爆・原子力の方向へと協力していく。
731部隊・原爆という両者の非人道性をお互い帳消しにしようということか?
西里扶甬子講演会
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演1(2014)
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演2(2014)
「731部隊・広島・長崎そして福島、医学界の倫理的犯罪」西里講演3(2014)
731細菌戦部隊と現在 1 慶大 松村高夫
731細菌戦部隊と現在 2 慶大 松村高夫
731細菌戦部隊と現在 3 慶大 松村高夫
常石敬一講演会
「731部隊とは?今問う意味は」1
「731部隊とは?今問う意味は」1 神奈川大学 常石敬一
「731部隊とは?今問う意味は」2 神奈川大学 常石敬一
「731部隊とは?今問う意味は」3 神奈川大学 常石敬一
自国民の原爆被爆被害を日本軍部が喜んで米国のために調査した本当の理由
自国民さえも実験台として、嬉々として自国民の被爆調査を行い、自発的に英訳して調査報告書を渡す。全ては、七三一部隊の秘匿、そして、天皇に対する免責を勝ち取るためだったのではないのでしょうか。この取引は十分に功を奏したようで、太田昌克氏の著作にも人体実験に対する米国の追求はどこか間が抜けたものとして書かれています。単純に細菌兵器の技術、実験結果を知りたかったためとしては、やはり片手オチ。米国は、第二次世界大戦で最も知りたかった情報を自ら差し出してきた日本軍部と取引したのではないでしょうか。そうしない限り、この七三一部隊の隠蔽理由(いまだにこの部隊はでっち上げだという論陣を張る人がいます。それは、悪魔の飽食の書評を見ただけで明らかでしょう)をどうしても納得できません。
原爆被爆者は、軍部免責、天皇制維持のための、数少ない有力なカードだったのではないでしょうか。
天皇や三笠宮も731に行っていた?(生体実験を知っていた?)40分あたりから
unit731
731部隊から福島へ!(1時間20分~1時間33分あたり)
広瀬隆氏講演in福島「IAEAとICRP~原子力マフィアによる被曝強
重松逸造という男
プルトニウム元年 第3作 1993年8月放送 3/5
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)近藤昭二