今日から実践的なメニュー構成を考えていきたい。最初のうちはひたすら試論の連続、ひたすら変更の連続になるかと思うが、粘り強く取り組んでいきたい。。


(1) 定番 (2) 独創 (3) 流行 (4) 旬 (5) セット


とりあえずメニュー構成の契機を5点あげてみた。ポイントはこれらの契機をいかに有効に組み込むことにあるかと思う。(4)に「旬」を取り上げたが、私的にはここがメインコンセプトになると考えている。そもそも「旬」概念は料理の一部に含意されているものだ。つまり、料理は「旬」の素材でつくられるのが最も標準的なあり方である。その観点からするとわざわざここを取り上げることに疑問を感じる向きもあろう。あまりにも普通すぎるのではないかと。しかし、ここには強力なメッセージが存在しているように思う。


料理をまずは国籍別にとらえてみよう。日本料理、フランス料理、イタリア料理等。料理界全般を見渡すときにはこの国籍別という観点が非常に有効であるように思われる。国籍が分類の端緒となるという意味で。ここを軸に据えると、家庭料理、創作料理、無国籍料理等、これらのジャンルの位相がおぼろげながら見えてくる。つまり、国籍があいまいな概念群なのである。「旬」料理も国籍があいまいである。だからと言って、家庭料理、創作料理に埋没してしまうわけでもない。なんだか独自の領域を想定できそうである。ここが魅力なのだ。


そもそも「旬」は日本料理の場で頻繁に語られる概念である。だからと言って、日本料理のみに従属的であるとする必要は決してないように思う。フランス料理にもイタリア料理にも旬という概念は明らかに存在するわけで、あくまで日本料理と特に相性が合うという理解で構わないのではなかろうか。そういう限定的な意味ではあるが、日本料理からの独立宣言、こういう観点から「旬」をとらえるのも有効であるかと思う。ターゲット的に比較するならば、日本料理というジャンルには特有の敷居の高さが付きまとう。「旬」概念はこの敷居からもっともっと自由になってもいいかと思われる。


技術であるとか、素材であるとか、そういう観点からのアプローチもよく見られる。そういう場では有能な技術、優れた素材こそが高いポイントを獲得する。しかし、「旬」概念はそういう場ともまた異質である。優れた素材を旬と呼んでもよさそうな気がするが、旬でなくても優れた素材は存在するわけで、必ずしも同一ではない。その非対称性に「旬」概念独立の根拠があるとしたいところだ。


とりあえず、旬に関してはこのくらいにしておく。


2日連続で、定食屋に入った。定食屋と言っても本来的機能は居酒屋だ。居酒屋がどういう形で定食をやっているのかというところが胆となる。以前詳しく述べたように定食はセットである。つまり、サービスメニューであって、単品よりも集客の増加が望めるというわけだ。地震後の消費停滞と相まって定食メニューを用意する居酒屋も増えているようだが。


ちなみに両居酒屋のメニューに共通していたもの、それは生姜焼きである。ちなみに一昨日はまぐろの中落ち定食。生姜焼きは売り切れ。昨日は煮魚と生姜焼き定食。なんとフルだった。しかも690円。安いけれども大した味でもないし、ボリューム的にも特徴はなし。まぁでも、今日は前にやっていた詳細な評価ではなくて、生姜焼きに焦点を当てるつもり。要するに、定番として生姜焼きは面白いのではなかろうか。無論、ボリュームや盛り付け方に工夫が必要なことは言うまでもないが。で、私的に1品決定。


ちなみに生姜焼きは上で述べた「旬」構想とは特別なリンクがあるわけではない。あくまで定番メニュー。かと言って全く断片的かというと、そうでもない。食堂構想と一定のリンクが見られるのも確かだろう。とは言っても、当分は論理性よりも量の追及を第一義的としたい。ある程度の形を整えないことには舟は山に登ってしまうだろう。






自分自身のことを論じることは非常に苦手だ。しかし、思索というものは最終的に自分自身のうちから展開するのが自然であると思われる以上、躊躇してはならないようにも思われる。とは言っても、現実的に躊躇からは自由になれそうもない。こういうときはキケロ、セネカ、モンテーニュ等を読むと心が休まるものだ。彼らは自己のことを論ずるにあたって非常に積極的である。書くにふさわしい人生を送ってきたことに自負があるからこそのものであろう。しかし、次の瞬間には自分にそういう自負はあるのだろうかと考えてしまう。そうなると、やはり躊躇が再び頭をもたげてくる。これはもしかしたら一種の自己否定かもしれない。さらに思いは複雑になってくる。


今日、自分の書いたブログを読み返してみた。時々自己の内面に果敢に挑戦している記述が見られることに今さらながら驚いた。つい最近も「新規」という内容で自分自身のことを触れている。どれも躊躇的な文脈ではあるが、いずれにせよ、自己に言及することからは全く自由になれていないのである。結局自由になれないのならば、果たしてこの種の躊躇に意味などあるのだろうか。論理的には積極的に自分自身に言及しても問題ないはずだ。自己を欺かないという徳の観点からしても、この考え方は実に正当である。しかし、現実的にはやはり躊躇してしまうのだ。そして、躊躇しながらも書き続けざるを得ないこのやるせなさ、どう向き合ったらよいものか。


正直、私は自分自身に対し自負と呼ぶべき明朗な意識を適用できる段階にはまだまだ達していない。もしかしたら私が完全たる自負の段階に至ることなどないのかもしれない。しかし、そうあるべきだという意識は明確に持っている。ただ、卑下は決してしていなと自信を持って言える。つまり、自負と卑下の中間を漂っている状態なのである。


年末にシュガーシャックである人と話す機会があった。話題は哲学へと及び、自然と「徳」がテーマとなった。ここで彼は「徳は他者による評価と一体化したものである」という持論を軽やかに展開し始める。哀しいことに徐々に私は、彼の軽やかさというか、屈託のなさというか、この雰囲気に完全に飲み込まれてしまうに至る。まさに衝撃だった。「徳」と「他者の評価」は必ずしも一致するものではなく、それでも「徳」を求め続けていく。これが自己鍛錬という哲学の伝統であると固く信じていた。もちろん実践的にもこの観点を大切にしてきたつもりである。しかし、彼の展開は私の立場をあざ笑うかのようにある種の高みを予感させる雰囲気を持って迫ってきた。要するに、がっつり凹んでしまった。もしかしたら、私の理解は非常に浅いものなのかもしれない。それから数時間呆然と時をやり過ごした。その間にモンテーニュ読みのマスターから私の立場の正統性を強く語って頂き、何とか一途の希望を持って帰途につくに至る。次の日から猛勉強を開始。ひたすら文献を読みこんだ。しかし、どこをどう見ても彼の持論にここまで動揺する理由は全く見当たらなかった。なんだか不思議にさえ思った。なぜあの議論にここまで動揺する理由があったのか。


実はここに私の弱さがあるのではないかと思う。弱さというか、もしかしたら未熟さと呼んでいいかもしれない。先に「自負と卑下の中間」に関して簡単に触れたが、問題はここにある。もちろん、私は「卑下」に何の価値も見出していないし、自分自身を卑下していることなどあり得ないと思っている。しかし、どうだろう。「中間」であるということは「卑下」の意識から完全には自由になっていないことを含意しているのではなかろうか。上でも述べていることだが、いくら「卑下」を観念的に否定しても、どこかに「完全たる自負」へ至るという実践には懐疑的な面があることを自ら告白しているのではないか。まさに私が忌み嫌う理論と実践の間の隙。微妙な隙ではあるが、間違いなく私がいつも問題にしているあの隙である。要するに、彼にはこの隙を心情的に思いっきり突かれたというわけだ。実践的な弱さ、ここは自己鍛錬の意味も込めて徹底的に総括したいと思う。


ここから先はどうでもいいような私の個人的事情になるのだが、上で述べた弱さがこの事情に起因しているという意味ではどうしてもここへの言及が避けられないものになってくる。本来、学的な内容はミクシィに書き込みたいのだが、読者が特定されるミクシィにおいて個人的事情を述べることにはやはり躊躇してしまう。この躊躇にこそ本質的な問題が存在しているのかもしれないが、きちんと(読者の特定されない)ブログには書き込んでいるということで、とりあえずの決着をつけたい。私小説嫌いというか、内面の告白的な展開がどうしても体質的に合わない私にとって、読者の特定されないブログのほうが若干気楽であるという形で収めておきたい。そういう意味であくまで論理的な展開を目指すつもりであるし、もちろん論理的な解釈を望むものでもある。


去年、博多がクライマックスシリーズで盛り上がっている頃、私は帰省した。久しぶりの帰省ということもあって、2週間ほどの滞在。かなり長い滞在と言える。この長さは私ができるだけ避けて通ってきたある事態に直面させる。親は当然ながら今の私の状況に言及する。そうなると、過去と現在の落差を指摘せざるを得なくなる。落差を指摘したところで何も変わらないということは十分承知しているであろうにもかかわらず、そうせざるを得ない状態なのだろう。もちろんその心情はよく理解できる。自分達の生活をぎりぎりまで削って私の教育に投資してきた親の姿を思い浮かべるに、正直、私自身言葉を失ってしまう。親の期待を一身に担っていたころの自分、「この子なら」と美しいほどまでに純粋な期待を寄せていた親の姿。もはやこの領域では哲学が自己鍛錬だという議論が全く通用しない(ように思えてくる)。この議論自体が全くのいいわけである(ように思えてくる)。もう二人とも70を超えた。両親の生きる希望であった自分、それをものの見事に裏切ってしまった自分、裏切られた両親。二人の人生って何だったのだろう。どうにもならない気持ちを抱えて生きていくということはどういうことなのだろう。私はそれを傍目に自己鍛錬を続けていくと言うのか。何もかもがばかばかしくなってくる。


クライマックスシリーズを親父と酒を飲みながら見た。一緒に野球を見たのは何年振りだろう。原辰徳が4番だった頃だったかな。まだダイエーが福岡に来てなかった頃だったよな。なんだか泣けてきた。


「徳は評価と一体化している」という彼の議論はこういう私を直撃した。もはや論理の問題ではなかった。評価さえあれば・・・ ただこれだけだった。


再びモンテーニュを熟読している。自己鍛錬にこだわるストア派の伝統を彼は正当に受け継いでいて、迷っているときなど、ハッとさせられることが非常に多い。第Ⅰ巻第1章「さまざまの方法で人は同じ結果に到達する」からの引用である。「大ディオニュシオスは、長い時間をかけ、非常な困難をなめたのち、レギウムの街を攻め落としたが、その町をあれほど頑強に守ったりっぱな男である隊長のフィトンを、復讐のおそろしい見せしめにしてやろうと考えた。彼は、フィトンに、まずどういうようにして彼の息子と親族の者たちすべてを溺死させたかを言って聞かせた。それにたいしてフィトンは、「彼らは私よりも一日だけ幸福だ」と答えるだけだった。そのあと、彼は、刑罰を行う役人たちに命じて、フィトンの着物をはぎとらせ、縛りあげさせて、屈辱的なむごたらしい仕方で彼を鞭打たせながら町中を引き回し、これにさらに屈辱をこめたひどい言葉を浴びせかけた。しかし、フィトンは毅然とした気持ちをひとときも崩さず、取り乱さなかった。そして、しっかりとした顔つきで、逆に、自分の国を暴君の手に渡したくなかったため、こうして名誉ある誇り高い名分のもとに死んでいくのだということを、声高らかに述べて、相手に思い知らせ、神々の罰が近いうちに下るだろうと脅した。ディオニュシオスは、自分の軍隊の一同が、この敗北した敵が自分たちの大将もその勝利も問題にせず、言いたい放題を言っていることに憤慨するかわりに、これほどまれな勇気に驚いて気持ちがくじけ、反乱をおこそうかという気になっていて、今にもフィトンを番卒の手からひきさらっていきそうな状態なのを、彼らの眼のなかに読み取ると、その残虐行為をやめさせ、こっそりと海へ送って溺死させた。」


自己鍛錬の道って、やっぱり厳しいなと思う。たとえ評価と無縁であっても徳は成り立つのかという問い。私にとって哀しすぎる問いである。それでも私は「yes」と答えたい。いつの日にか心から「yes」と答えられる程の力を自分のうちに宿したいと思う。



























一般的にサービス業の事業計画書作成は難しいと言われている。なかなか認められないとの話もしばしば聞く。もちろん、その理由を知りたくもなるのだが、話を掘り下げたところで、これという回答に出会ったためしがない。結局、単に明確な方法論がないままに提出に至ったという個人的理由なのかもしれない。従って、慣例にとらわれることなく論理的な展開を目指すことが肝要かと思われる。


方法論の核はジャンル内優位性と新規獲得の2本柱である。この展開を明確に語ったのは実は社長である。ちなみに社長の話には事業計画が難しいなどという話は全くなかった。一般の業界人とは一線を画しているのは明らかで、これが彼の事業の優位性を示しているのも明らかと言えるのではないかと思われる。私自身もこの会社の営業方針に触れてきたので、ハッとさせられる展開であったと言わざるを得ない。


正直、この2本柱を簡単に語るだけでは、この考え方の射程の深さが伝わらないのもまた事実であろう。一見あまりに平凡であるように見える。普通に語ったところで、大きく反発を受け、右往左往する自分の姿が即座に思い浮かぶ。それでもその射程圏を丁寧に説明していくしかないだろう。地味な作業ではあるが、心してとりかかりたい。


2本柱の理解を阻害する第一の要因は「そんなことくらい当然分かっている」という慢心である。例えば哲学のような学問の現場においてそういう慢心は致命的なミス以外の何物でもない。哲学という作業自体が一見平凡で何の変哲もない概念を徹底的に吟味していくことであるからだ。結局、慢心は実践の弱さを生じさせるにすぎない。慢心なりの実践しか成立しないということである。


なぜ慢心が生じるのか。そもそもこういうケースでの慢心は単に個別的現象に収まるものではなくて普遍的な現象ではなかろうか。だとしたら、真摯な分析と自己否定との微妙な関係からその普遍性が説明されるように思う。通常「当然のことを指摘される」ことは誰しもが忌避する傾向である。「そんなことくらい分かっている」と言い放つ衝動に駆られるのが人の世の常であるといったところだろうか。単なる事実認識の問題ではなくなっているのだ。「当然」という概念が自分自身のあり方(「当然をいまひとつ理解しきれていない自分自身に対する恥ずかしさ」と「その恥ずかしさからの逃走」)と哀しくも切り離しがたい関係性を持っている。ここに「当然のこと」を単に「当然のこと」として受け入れる「勇気」というテーマが開けてくることになり、ここを達成すると、次のテーマは「当然のこと」が持つ射程圏である。射程圏は理論の可能性でもある。理論が大衆的に成立しない理由の一つに実は慢心があると思っているのだが、忌々しき問題である。理論は当然のところをきっちり説明することから大きく花開くものであるのに、なんと哀しい人間の性であることか。慢心とは自己否定を恐れる自己保存欲求そのものである。


成功神話というものがしばしば語られる。そこで語られる内容は、成功神話は長期的には阻害以外の何物でもなく、しかも人はその成功神話からなかなか逃れられないということに集約される。要するに、成功神話は慢心の一形態である。世の中の移ろいは残酷なもので、ある時点の成功は次の時点の失敗へとあっという間に姿を変えてしまう。もちろん、失敗に移行する前にはその兆候が表れているはずなのであるが、簡単に見過ごしてしまう。実のところ兆候には気付いているのだが、気付かないふりをしているだけなのかもしれないし、あえて強力に排除しているのかもしれない。いずれにせよ、失敗はやってくることになる。成功神話にとらわれる人たちの特徴はまさにこの一言、恐ろしいくらいに共通しているこの一言である。そんなことくらい分かっている。しかし、「分かる」と「実践」の隔たりは巨人軍バリに永久なのである。


分かるとは何なのだろう。単に理解することなのか。それとも理解して実践することなのか。正直、こういうことを言っていること自体がなんだか陳腐であるような気がしてきてだんだん自分自身が怖くなってくる。しかし、この状態自体もまた慢心の一形態ではなかろうか。分かるとは理解と実践が一体化する状態であると言いたいはずなのに、どこか躊躇する感じから逃れることができない。間違いなく「そんなことくらい分かっている」という反応を恐れているのであり、つまり、「当然分かっている」という反応が返ってくることくらい「当然分かっている」という慢心なのである。常識と呼ばれうる分野の扱いは本当に難しい。常識が陳腐ならば、常識を扱うこと自体も陳腐だからだ。だからと言って、単純に常識が陳腐ではないと言ったところで何の解決にもならない。常識が陳腐という一面を持っているのを全否定はできないであろうし、人はその事実を心のどこかで受け入れているであろうから。もっと言うならば、常識が陳腐であるという見解はある程度経験を重ねた人間にとって味わい深い快感を伴うものではなかろうか。陳腐と考えることが慢心という自己保存欲求につながるならば陳腐という発想を控えたくもなるのだが、その陳腐自体が強烈な自己保存欲求(快感)を持っているわけで、どこに視点を置いたらいいものか自分でもよく分からなくなってくる。しかし、ここはあえて確認しておく。私の文脈において、分かるとは理解して実践することである。


ちなみに常識を語る際の常識に収まらない方法は単に常識の内容分析だけではなく常識の射程を語ることである。以下、私はその方法を採用することにする。


私の最初の事業計画書は2本柱という観点から検討するに新規という観点が完全に欠落していたと言わざるを得ない。もちろん、想定の中に新規というテーマがなかったわけではなく、それなりに十分考慮していたつもりである。従って、最初に「新規という観点が弱い」という指摘を受けた時にはそれなりの反発を感じたのも事実である。分かってねぇなぁと。しかし、社長の爽やかで明快な語り口に経営者としての誇りを感じたのもまた事実で、とりあえず彼の論理を追うことに専心した。そして・・・ある時点で衝撃に近い感情に襲われた。これはまずいと。私の議論の欠陥はあまりにも明確である。ジャンル内優位性と新規の区別が論理的位相として曖昧だったのだ。ジャンル内優位性が新規に結びつくという楽観論は通用しない。ここを確実に押さえておく必要があろう。確かにこの楽観論は新規について考慮していないわけではない。そういう意味で「新規のことなど当然分かっているよ」と心の中でつぶやいたとしても何の不思議もないはずだ。しかし、論理的位相が不明確という事態は理解の領域からはほど遠いと言わざるを得ない。論理的位相を明確にすることは実践的方法論がより明確になることに直結する。そこから実践が無理のない形で誕生するという構図こそが理解のあり方であって、2分法という常識の射程はこの構図のうちで展開される。


さらに具体的に見ていこう。いかなる要因がジャンル内優位性と新規の区別を阻害したのだろうか。それは私が口コミの効果に過剰に期待したからであると深く反省している。そもそも宣伝とは違って内容が伴うからこその口コミである。その内容規定がジャンル内優位性を発揮するものであるならば、新規が口コミとジャンル内優位性という2つの要因で説明可能だとしても特に問題が生じるわけではないように思える。しかし、ここはよくよく考えてみたい。口コミとジャンル内優位性が加わったところで、なぜこれが新規という領域を開拓することになるのだろうか。つい新規のような錯覚を覚えてしまうが、実のところ、すべてがジャンル内優位性のうちで進行している事態ではなかろうか。いずれにせよ、コスト面まで勘案したうえで、口コミによってお客が増えるという構図は非常に魅力的である。口コミで流行っている店が議論の対象となるならば、高揚感に沸き立つ感覚が否応なく私自身を直撃する。口コミへの過剰な傾斜を断ち切るのは容易でないと言える。ジャンル内優位性に自信があればある程そうであろう。しかし、ここは冷静に考えたい。あくまで新規はジャンル内優位性とは全く別系統の概念である。少なくとも社長の見解はそうであった。この区別が実績を暗に示しているようにも思え、そこを体感してきた自分自身にとって心情的にも納得のいく見解である。


口コミの位相を再考する必要がありそうである。もちろん、口コミを全否定するには及ばない。2本柱という構図を前提とする以上、新たなルートで新規獲得戦略を模索しなければならないのだが、口コミは新規獲得よりもジャンル内優位性のうちに大きな存在意義を見出すことになろう。ならば新規獲得に口コミは必要ないということだろうか。新規獲得戦略に反応した口コミも当然ありうることを確認しておかねばなるまい。しかし、新規獲得に最も適した方法論は宣伝である。何らかの形の宣伝なくして新規という新しいジャンルを大きく成立させるのは困難ではないかと思われる。口コミはあくまで宣伝によって獲得した新規層によってなされると考えた方が構図の理解は容易であろう。


ちなみに社長が提示した全体的モデルは弁証法的な方法論である。これがすべてであるとは言わないが、有効な方法論であることは言うまでもないだろう。弁証法とは、違うジャンル同士がぶつかって新たなジャンルを創設することだ。優位性と新規獲得という違うジャンル同士がせめぎ合って、新たな形をつくりだすという戦略である。具体的な道筋は諸事情を鑑みてここでは割愛しておく。


射程と銘打った以上、さらに分析を続けなければならない。


口コミに期待するという心情からすると、宣伝という方法論にはどうしてもある種の違和感を覚えてしまう。しかし、そこを合理化するものこそ、まさに射程である。ならば、この場面における射程とは一体如何なるものなのだろうか。見取り図を簡単に示しておきたい。事業展開を目指すのか、目指さないのかという問いが射程の端緒になり、射程のあり方を大きく左右する基本方針となる。


以下、事業展開を目指すという方向から論理を展開することにする。


当然ながら事業計画は営業形態を規定する。しかし、事業計画と営業計画は同一のものではない。事業展開という項を介すならばなおさらそうである。例えば、資金集めを例にとってみよう。2本柱という設定は金融機関に対してジャンル内優位性1本柱よりもはるかに大きな説得力を持つ。事業計画の緻密さは資金獲得をより効率的なものにしているわけだ。この例は事業計画は営業形態を超えて資金集めという別領域へと射程圏を広げていることを内包している。単純な論理展開であるが、注意深さを失ってはならない場面ではないかと思う。先に実践の弱さに関して軽く触れたが、実践の弱さとはつまり射程の狭さとほぼ同義である。ならば、緻密な事業計画とは強い実践を意味していることにもなる。こういう方向からの展開も補足しておきたい。


資金集めは単純にお金が集まるか集まらないかの問題では決してないように思う。私自身資金集めに奔走したという経験を持っているわけではないのだが、単なる個人的賛辞を超えた客観的な次元において、社長の明確な言語(2本柱)は資金集めの射程圏の深さを雄弁に語っているように思う。もちろん現時点における資金集めそのものの成果自体は不可測である。失敗するかもしれないし、成功するかもしれない。しかし、このことをここで指摘される必要は全く感じない。そんなことよりもここ(2本柱)を看過することのほうが将来的にリスクを抱え込むことになるのではなかろうか。


資金集めという言葉にまとわりつく陳腐さにも触れておきたい。資金集めは企業目的と比較するといかにも手段的な役割しか持ち合わせていないようにも感じるし、なによりも「当然分かっているよ」と言いたくなってくる場面でもある。しかし、我々が考察すべきはそこにある論理構造であり、その構造とは資金集めは事業と営業の単純な同一化を相対化することである。理解は論理構図の把握を避けて通ることはできず、理解のうちに強い実践が含まれている。上で述べた内容の繰り返しでしかないけれども、再度確認しておきたい。


なぜここに執拗にこだわるかと言うと、これも繰り返しになるが、射程の問題なのである。例えば組織という考え方にも簡単に触れておきたい。これも事業展開に含まれる重要なジャンルだと思われるが、しかも誰もがやはり「当然分かっている」と言いたくなる内容にもかかわらず、なぜだか軽視される。私の経験からしても哀しいほどに軽視される。結局、これは事業概念の把握不足であるとしか言いようがないのではなかろうか。「資金集め」の場合はこれなくして活動自体が成り立たない以上「軽視される」の捉え方が「組織」とは異なるにしても、相対化という文脈からすると「営業」「資金集め」「組織」これらすべて身分的には同等であり、事業展開に内包される概念群である。実践や行為における心情の問題は複雑かつ困難である。まさに「当然」であるはずなのに、実践的には後景に追いやられているケースがいかに多いことか。倫理というジャンルでもよく語られるケースではあるが。


要するに、企業(事業展開)という発想からすると、将来の事業展開、それを踏まえた交際等、広範な活動が必然的に展開されざるを得ない。社会的なメッセージを発するとともに社会的な評価を得ることも重要な任務となる。もちろん我々はそれにふさわしい言語を保有せねばならないわけで、例えば今展開してきた2本柱という言語はまさに企業的言語ではなかろうか。そもそも我々の企業は資金力が豊かであるとは言えず、従って、高い価値観、ここに活路を求めるよりほかはない。その際に高度な分析力こそが最大の武器になるはずで、ならば、2本柱のような言語を蓄積していくことは当然の作業であるという気がしてならない。


宣伝もこの射程で解釈されてしかるべきである。どこか陳腐な感じがまとわりつく宣伝という響き。しかし、宣伝は単なる宣伝ではなく我々の社会的メッセージであるとしたい。我々の姿勢を広く社会に伝えるという役目を負っているとも言い換えられようか。上で企業活動自体がそもそもそういう性格を内包していると述べた以上、これは決して大げさな言い方ではない。営業活動を超えたところにある様々な事柄への配慮、背負い込むべきものは背負い込まなくてはならないという実存、企業活動はそういった類のものを不可避的に内包していると、どっと疲れが出るような言い回しではあるが、こう表現しておきたい。


高度な言語は高度な実践を生む。あるいはこうも言い換えられよう。実践は射程の外では成立しない。この観点から私は2本柱の意義を高く評価したいと考えている。