一般的にサービス業の事業計画書作成は難しいと言われている。なかなか認められないとの話もしばしば聞く。もちろん、その理由を知りたくもなるのだが、話を掘り下げたところで、これという回答に出会ったためしがない。結局、単に明確な方法論がないままに提出に至ったという個人的理由なのかもしれない。従って、慣例にとらわれることなく論理的な展開を目指すことが肝要かと思われる。
方法論の核はジャンル内優位性と新規獲得の2本柱である。この展開を明確に語ったのは実は社長である。ちなみに社長の話には事業計画が難しいなどという話は全くなかった。一般の業界人とは一線を画しているのは明らかで、これが彼の事業の優位性を示しているのも明らかと言えるのではないかと思われる。私自身もこの会社の営業方針に触れてきたので、ハッとさせられる展開であったと言わざるを得ない。
正直、この2本柱を簡単に語るだけでは、この考え方の射程の深さが伝わらないのもまた事実であろう。一見あまりに平凡であるように見える。普通に語ったところで、大きく反発を受け、右往左往する自分の姿が即座に思い浮かぶ。それでもその射程圏を丁寧に説明していくしかないだろう。地味な作業ではあるが、心してとりかかりたい。
2本柱の理解を阻害する第一の要因は「そんなことくらい当然分かっている」という慢心である。例えば哲学のような学問の現場においてそういう慢心は致命的なミス以外の何物でもない。哲学という作業自体が一見平凡で何の変哲もない概念を徹底的に吟味していくことであるからだ。結局、慢心は実践の弱さを生じさせるにすぎない。慢心なりの実践しか成立しないということである。
なぜ慢心が生じるのか。そもそもこういうケースでの慢心は単に個別的現象に収まるものではなくて普遍的な現象ではなかろうか。だとしたら、真摯な分析と自己否定との微妙な関係からその普遍性が説明されるように思う。通常「当然のことを指摘される」ことは誰しもが忌避する傾向である。「そんなことくらい分かっている」と言い放つ衝動に駆られるのが人の世の常であるといったところだろうか。単なる事実認識の問題ではなくなっているのだ。「当然」という概念が自分自身のあり方(「当然をいまひとつ理解しきれていない自分自身に対する恥ずかしさ」と「その恥ずかしさからの逃走」)と哀しくも切り離しがたい関係性を持っている。ここに「当然のこと」を単に「当然のこと」として受け入れる「勇気」というテーマが開けてくることになり、ここを達成すると、次のテーマは「当然のこと」が持つ射程圏である。射程圏は理論の可能性でもある。理論が大衆的に成立しない理由の一つに実は慢心があると思っているのだが、忌々しき問題である。理論は当然のところをきっちり説明することから大きく花開くものであるのに、なんと哀しい人間の性であることか。慢心とは自己否定を恐れる自己保存欲求そのものである。
成功神話というものがしばしば語られる。そこで語られる内容は、成功神話は長期的には阻害以外の何物でもなく、しかも人はその成功神話からなかなか逃れられないということに集約される。要するに、成功神話は慢心の一形態である。世の中の移ろいは残酷なもので、ある時点の成功は次の時点の失敗へとあっという間に姿を変えてしまう。もちろん、失敗に移行する前にはその兆候が表れているはずなのであるが、簡単に見過ごしてしまう。実のところ兆候には気付いているのだが、気付かないふりをしているだけなのかもしれないし、あえて強力に排除しているのかもしれない。いずれにせよ、失敗はやってくることになる。成功神話にとらわれる人たちの特徴はまさにこの一言、恐ろしいくらいに共通しているこの一言である。そんなことくらい分かっている。しかし、「分かる」と「実践」の隔たりは巨人軍バリに永久なのである。
分かるとは何なのだろう。単に理解することなのか。それとも理解して実践することなのか。正直、こういうことを言っていること自体がなんだか陳腐であるような気がしてきてだんだん自分自身が怖くなってくる。しかし、この状態自体もまた慢心の一形態ではなかろうか。分かるとは理解と実践が一体化する状態であると言いたいはずなのに、どこか躊躇する感じから逃れることができない。間違いなく「そんなことくらい分かっている」という反応を恐れているのであり、つまり、「当然分かっている」という反応が返ってくることくらい「当然分かっている」という慢心なのである。常識と呼ばれうる分野の扱いは本当に難しい。常識が陳腐ならば、常識を扱うこと自体も陳腐だからだ。だからと言って、単純に常識が陳腐ではないと言ったところで何の解決にもならない。常識が陳腐という一面を持っているのを全否定はできないであろうし、人はその事実を心のどこかで受け入れているであろうから。もっと言うならば、常識が陳腐であるという見解はある程度経験を重ねた人間にとって味わい深い快感を伴うものではなかろうか。陳腐と考えることが慢心という自己保存欲求につながるならば陳腐という発想を控えたくもなるのだが、その陳腐自体が強烈な自己保存欲求(快感)を持っているわけで、どこに視点を置いたらいいものか自分でもよく分からなくなってくる。しかし、ここはあえて確認しておく。私の文脈において、分かるとは理解して実践することである。
ちなみに常識を語る際の常識に収まらない方法は単に常識の内容分析だけではなく常識の射程を語ることである。以下、私はその方法を採用することにする。
私の最初の事業計画書は2本柱という観点から検討するに新規という観点が完全に欠落していたと言わざるを得ない。もちろん、想定の中に新規というテーマがなかったわけではなく、それなりに十分考慮していたつもりである。従って、最初に「新規という観点が弱い」という指摘を受けた時にはそれなりの反発を感じたのも事実である。分かってねぇなぁと。しかし、社長の爽やかで明快な語り口に経営者としての誇りを感じたのもまた事実で、とりあえず彼の論理を追うことに専心した。そして・・・ある時点で衝撃に近い感情に襲われた。これはまずいと。私の議論の欠陥はあまりにも明確である。ジャンル内優位性と新規の区別が論理的位相として曖昧だったのだ。ジャンル内優位性が新規に結びつくという楽観論は通用しない。ここを確実に押さえておく必要があろう。確かにこの楽観論は新規について考慮していないわけではない。そういう意味で「新規のことなど当然分かっているよ」と心の中でつぶやいたとしても何の不思議もないはずだ。しかし、論理的位相が不明確という事態は理解の領域からはほど遠いと言わざるを得ない。論理的位相を明確にすることは実践的方法論がより明確になることに直結する。そこから実践が無理のない形で誕生するという構図こそが理解のあり方であって、2分法という常識の射程はこの構図のうちで展開される。
さらに具体的に見ていこう。いかなる要因がジャンル内優位性と新規の区別を阻害したのだろうか。それは私が口コミの効果に過剰に期待したからであると深く反省している。そもそも宣伝とは違って内容が伴うからこその口コミである。その内容規定がジャンル内優位性を発揮するものであるならば、新規が口コミとジャンル内優位性という2つの要因で説明可能だとしても特に問題が生じるわけではないように思える。しかし、ここはよくよく考えてみたい。口コミとジャンル内優位性が加わったところで、なぜこれが新規という領域を開拓することになるのだろうか。つい新規のような錯覚を覚えてしまうが、実のところ、すべてがジャンル内優位性のうちで進行している事態ではなかろうか。いずれにせよ、コスト面まで勘案したうえで、口コミによってお客が増えるという構図は非常に魅力的である。口コミで流行っている店が議論の対象となるならば、高揚感に沸き立つ感覚が否応なく私自身を直撃する。口コミへの過剰な傾斜を断ち切るのは容易でないと言える。ジャンル内優位性に自信があればある程そうであろう。しかし、ここは冷静に考えたい。あくまで新規はジャンル内優位性とは全く別系統の概念である。少なくとも社長の見解はそうであった。この区別が実績を暗に示しているようにも思え、そこを体感してきた自分自身にとって心情的にも納得のいく見解である。
口コミの位相を再考する必要がありそうである。もちろん、口コミを全否定するには及ばない。2本柱という構図を前提とする以上、新たなルートで新規獲得戦略を模索しなければならないのだが、口コミは新規獲得よりもジャンル内優位性のうちに大きな存在意義を見出すことになろう。ならば新規獲得に口コミは必要ないということだろうか。新規獲得戦略に反応した口コミも当然ありうることを確認しておかねばなるまい。しかし、新規獲得に最も適した方法論は宣伝である。何らかの形の宣伝なくして新規という新しいジャンルを大きく成立させるのは困難ではないかと思われる。口コミはあくまで宣伝によって獲得した新規層によってなされると考えた方が構図の理解は容易であろう。
ちなみに社長が提示した全体的モデルは弁証法的な方法論である。これがすべてであるとは言わないが、有効な方法論であることは言うまでもないだろう。弁証法とは、違うジャンル同士がぶつかって新たなジャンルを創設することだ。優位性と新規獲得という違うジャンル同士がせめぎ合って、新たな形をつくりだすという戦略である。具体的な道筋は諸事情を鑑みてここでは割愛しておく。
射程と銘打った以上、さらに分析を続けなければならない。
口コミに期待するという心情からすると、宣伝という方法論にはどうしてもある種の違和感を覚えてしまう。しかし、そこを合理化するものこそ、まさに射程である。ならば、この場面における射程とは一体如何なるものなのだろうか。見取り図を簡単に示しておきたい。事業展開を目指すのか、目指さないのかという問いが射程の端緒になり、射程のあり方を大きく左右する基本方針となる。
以下、事業展開を目指すという方向から論理を展開することにする。
当然ながら事業計画は営業形態を規定する。しかし、事業計画と営業計画は同一のものではない。事業展開という項を介すならばなおさらそうである。例えば、資金集めを例にとってみよう。2本柱という設定は金融機関に対してジャンル内優位性1本柱よりもはるかに大きな説得力を持つ。事業計画の緻密さは資金獲得をより効率的なものにしているわけだ。この例は事業計画は営業形態を超えて資金集めという別領域へと射程圏を広げていることを内包している。単純な論理展開であるが、注意深さを失ってはならない場面ではないかと思う。先に実践の弱さに関して軽く触れたが、実践の弱さとはつまり射程の狭さとほぼ同義である。ならば、緻密な事業計画とは強い実践を意味していることにもなる。こういう方向からの展開も補足しておきたい。
資金集めは単純にお金が集まるか集まらないかの問題では決してないように思う。私自身資金集めに奔走したという経験を持っているわけではないのだが、単なる個人的賛辞を超えた客観的な次元において、社長の明確な言語(2本柱)は資金集めの射程圏の深さを雄弁に語っているように思う。もちろん現時点における資金集めそのものの成果自体は不可測である。失敗するかもしれないし、成功するかもしれない。しかし、このことをここで指摘される必要は全く感じない。そんなことよりもここ(2本柱)を看過することのほうが将来的にリスクを抱え込むことになるのではなかろうか。
資金集めという言葉にまとわりつく陳腐さにも触れておきたい。資金集めは企業目的と比較するといかにも手段的な役割しか持ち合わせていないようにも感じるし、なによりも「当然分かっているよ」と言いたくなってくる場面でもある。しかし、我々が考察すべきはそこにある論理構造であり、その構造とは資金集めは事業と営業の単純な同一化を相対化することである。理解は論理構図の把握を避けて通ることはできず、理解のうちに強い実践が含まれている。上で述べた内容の繰り返しでしかないけれども、再度確認しておきたい。
なぜここに執拗にこだわるかと言うと、これも繰り返しになるが、射程の問題なのである。例えば組織という考え方にも簡単に触れておきたい。これも事業展開に含まれる重要なジャンルだと思われるが、しかも誰もがやはり「当然分かっている」と言いたくなる内容にもかかわらず、なぜだか軽視される。私の経験からしても哀しいほどに軽視される。結局、これは事業概念の把握不足であるとしか言いようがないのではなかろうか。「資金集め」の場合はこれなくして活動自体が成り立たない以上「軽視される」の捉え方が「組織」とは異なるにしても、相対化という文脈からすると「営業」「資金集め」「組織」これらすべて身分的には同等であり、事業展開に内包される概念群である。実践や行為における心情の問題は複雑かつ困難である。まさに「当然」であるはずなのに、実践的には後景に追いやられているケースがいかに多いことか。倫理というジャンルでもよく語られるケースではあるが。
要するに、企業(事業展開)という発想からすると、将来の事業展開、それを踏まえた交際等、広範な活動が必然的に展開されざるを得ない。社会的なメッセージを発するとともに社会的な評価を得ることも重要な任務となる。もちろん我々はそれにふさわしい言語を保有せねばならないわけで、例えば今展開してきた2本柱という言語はまさに企業的言語ではなかろうか。そもそも我々の企業は資金力が豊かであるとは言えず、従って、高い価値観、ここに活路を求めるよりほかはない。その際に高度な分析力こそが最大の武器になるはずで、ならば、2本柱のような言語を蓄積していくことは当然の作業であるという気がしてならない。
宣伝もこの射程で解釈されてしかるべきである。どこか陳腐な感じがまとわりつく宣伝という響き。しかし、宣伝は単なる宣伝ではなく我々の社会的メッセージであるとしたい。我々の姿勢を広く社会に伝えるという役目を負っているとも言い換えられようか。上で企業活動自体がそもそもそういう性格を内包していると述べた以上、これは決して大げさな言い方ではない。営業活動を超えたところにある様々な事柄への配慮、背負い込むべきものは背負い込まなくてはならないという実存、企業活動はそういった類のものを不可避的に内包していると、どっと疲れが出るような言い回しではあるが、こう表現しておきたい。
高度な言語は高度な実践を生む。あるいはこうも言い換えられよう。実践は射程の外では成立しない。この観点から私は2本柱の意義を高く評価したいと考えている。