温泉場の仕事。温泉場という場所。私はなにかに引っ張られるようにこの場所にやってきた。やりがいであったり、自分の能力を試したいなどというもっともらしい理由、そういったことにはまるで興味ない。ただ、温泉場にいたかっただけだ。これが自分にとっての「温泉場で働く」というイメージでもある。正直、自分が既定の路線から外れていくであろうという予感はすでに20歳のころから薄々感じていて、すでにそのころからこのイメージを、漠然としたものではあったが、抱いていたような気がする。決して記憶の美化ということではない。こう考えなくては自分自身を維持することができなくなるのではないかという危機感がこの傾向へと向かわしめた。
朝7時半、ゴミ捨てから仕事が始まる。チェックアウトを終わらせたら、館内の清掃。さらにクモの巣除去等の雑用を午前中いっぱい行う。オーソドックスな旅館業務であり、単純作業の連続。単純作業を苦痛だとする向きも多いかと思うが、私はそうは思わない。それどころか、この午前中にこそ、私が職業に求めてきた価値的なものが具現化されているような気がする。その価値的なものとは、一言で表現するならば、純粋な時間。オーソドックスだからこそ顕現する純粋さ。温泉場の醍醐味ではなかろうか。あと、一日の仕事が終わったとのお風呂。反則なくらい純粋だ。
純粋な時間には目的がない。将来何かを達成するために現在があるという思考形式とは無縁のものである。目的に縛られない時間意識。時間の先に何も存在しないということだ。つまり、過ぎゆくことのみ。季節が過ぎゆくとはよく使われるフレーズだが、まさにそのイメージといったところか。過ぎゆくこと自体にある種の美を意識する感覚と密接な関係にあるのではないかとも思う。
とは言うものの、人の意識形態というものは目的から完全に自由になることなど不可能に違いない。そういう意味においては、目的に支配された時間意識からの開放など、単なる幻想なのかもしれない。どう解決したらいいものだろうか。無論、純粋な時間という発想自体を無効にする必要は全くない。純粋な時間を目的化すればよいだけのことである。哲学において手段を目的化する発想はしばし見受けられる。ヘーゲルの弁証法などその典型ではなかろうか。もちろん、結局は目的となると言ったところで、こういう時間が客観的に存在しているという意味ではないし、時間の形而上学を提示しているわけでもない。私自身がこういう時間感覚のなかにあってはじめて人並みに生活できるという、ただそれだけのことだ。私があんなに哲学を求め続けたのも、根本的に純粋な時間と密接な関係があったのではないかと、今ではそう思っている。過ぎゆくことが目的を何らかの形で孕まざるをえないとしたら、純粋な時間は死と無関係ではいられないのではないかと、そんな気もする。人間が目的から完全に自由になれないのも、死がなんらかの形で絡んでいるからなのかもしれない。
どういうときに純粋な時間を体感できるのだろうか。この問いは、結局のところ、純粋な時間を感じるにはどういう環境に身を置くべきかという観点からのアプローチと不可分である。人間はそもそも社会的存在であるはずで、ならば、社会関係(環境)という視点を外すわけにはいかない。意識のあり方によってのみ実践的解決を目指すには相当な無理があることを再認する必要があろう。
過ぎゆくことのみを感じることのできる場をひたすら探し続けてきた。それが自分にとっての温泉場である。そういう意味での温泉場はまさに私にとって楽園でもある。しかし、場所というものは自分自身の意識のみで形成されるほど甘くはない。職場の論理であったり、職場の関係であったり、様々な要因が介在してくる。その要因から自由になることなど不可能。こういう言い方をすると、いかにもそういった要因を否定しているようにも聞こえるかもしれないが決してそういうことではない。そういう要因を抱え込んで生活するしかないのだ。そういう要因に不寛容なこともあるだろうし、うまく折り合いをつけられることもあろう。どちらが良い悪いの問題ではない。単なる偶然の問題なのだ。たとえ折り合いをつけられないからといって、悲観する必要はない。そういう事実をきちんと受け入れ、別の場所を探せばいいだけの話である。純粋な時間は肯定そのもの。不本意な状況ですら肯定へと向かわしめる。だからといって、不本意の肯定が不本意を忍従せよという実践と結びつくわけでは全くない。肯定はあくまである種の忘却機能でしかない。つまり、忘却機能が十分に働かない具体的状況も考えられるわけで、そのときには別の場所を探すことが有効な実践となろう。
働き始めてはや6ヶ月。いろんな事情を抱えてやってきたわけだが、少し考えもまとまってきた。あらゆる出来事が何らかのサインである。要するに、次の展開を考える時期が来たと、今、強く思う。