日が沈み、日中に比べると過ごし易いとはいえ、生温かい風は身体を包みこみ塩分を多量に含んだ粘り気を感じさせる汗をふきださせる。

聞き込みですり減らした靴底はアスファルトがため込んだ熱気を吸い込み、安物のスーツは歩く度に足にまとわりつく。全てが不快だ。不快に感じてならない。

その不快感は次第に呼吸を荒くさせる。

室田は、木戸の自宅前に来ていた。

捜査本部の管理官から外された木戸は、現在は自宅にて待機をしている。

木戸の自宅は下町情緒のある湯島近辺にある一軒家だ。

中古を格安で購入した後に簡単に手直ししたぐらいで、特にリフォームをしていない。

一見しただけでは警視庁の管理官が住んでいるとはだれも思わないだろう。

室田はかつて捜査一課長であった木戸の下で働いていた事があり、そして同じ大学の先輩と後輩であった事から、私生活でも交流があった。

以前、岩崎が言っていた公安が情報開示を求めたという話。その時に自分が考えた公安の思惑はいよいよ現実のものであったかも知れない。

木戸は何か知っているのか?

確認せずにはいられなかったのである。

だが、確認してどうする?何が変わる?意味などないだろう?

自分の中に沸き起こるアンビバレンスな感情が室田を不快の井戸へ突き落していた。

それでも室田は門柱に設置された呼び鈴を鳴らす。

木戸先輩が出てくるまでにせめて呼吸を整えよう。室田は一度、大きく深呼吸をする。

深呼吸をすると、夕食時の為、焼き魚や揚げ物の臭いが鼻腔に絡んできた。

そういや飯・・・食ってないな。そんな事をフト思うと自然と不快感が和らいだ。

そしてその瞬間を図ったかのように玄関の引き戸が開く。


「おう、室田じゃないか。

 どうしたいったい。」

「木戸先輩、スミマセン突然。

 実は・・・。」

「まあ、まずは上がれ上がれ。」


木戸は室田の肩を掴むと半ば強引に家に招きいれた。


「どうせ、飯も食ってないだろう。

 ついでに食ってけ。」


相変わらずだな。室田は自然に破顔していた。

職務中はどちらかと言えばクレバーな言動が目立つが、職務から外れると面倒見の良い親分肌である。

室田も新人の頃はこの木戸の性格にずいぶんと助けられていた。


「はい。では遠慮なくごちそうになります。」

「応接間に飯を運ばせよう。

 ヨシノを気にせず話できるだろう。」

「すみません。」

「気にするな。あいつも警官だったんだし気にしないさ。」


ヨシノとは木戸の妻である。

もともと婦人警官であったこともあり、木戸の職務に対して理解が深かった。

玄関を上がり、和式の応接間に通される。

もしかしたら、俺は何か触れてはいけない事にかかわろうとしているのかもしれない。

室田はそんな予感を感じていた。

「なぜ!

 納得がいきませんよ!」

「落ち着け、岩崎!

 みんなそうさ。納得する奴なんてだれもここにはいねえよ。」

「大野さん、分かってますよ。でも・・・。」


叫ばずにはいられない。

室田は岩崎の若さがうらやましかった。

岩崎の様に自分の感情を爆発させる事は、自分の年齢も立場が許さないからだ。

事の切っ掛けはまさに唐突に訪れた。

木戸管理官が官僚連続殺害事件捜査本部から外され、変わりに警視庁公安部公安第一課課長である吉井哲二が就任したのだ。

木戸が外された理由としては、事件の長期化、そして上層部の意向を無視した現場での支持、特に所轄の生活安全課を独断で捜査本部に編入した事が問題であるという理由である。

だが、山下は結果を出した。

つまり木戸の判断は正しかったのだ。

理由は別の所、いたって政治的なもので在ることは明白であった。

そして代わりに就任したのが公安部である事、しかも課長クラスである。

公安部が刑事部と合同捜査することは通常はあり得ない。

かつてカルト宗教団体がテロを行った際に形だけの合同捜査を行ったが、公安部の得た情報は刑事部に共有されることはほとんどなかったのである。

そんな公安部の課長クラスが表舞台に姿を現し、しかも管理官として現場指揮を執ることになったのだ。

異例づくめの出来ごとであり、刑事警察の警官達は不信感をぬぐうことは出来ない。


「室田さん、どうなってるんですか?やりきれないですよ。」


岩崎は室田にやり場のない感情の弾を討つ。

室田は何も言わず岩崎に背を向けると一人、世田谷署を後にした。

「『狼男』の次は『鬼』かよ。

 まるで鬼太郎だな。」


山下はおもわず独語する。


「なんか言いましタ?」


いや、なんでもない。山下は話を続けるように促す。


「半年くらい前に『天道幇』にミカジメ料渡す時ヨ。

 新しく大陸からきた組員が回収に来たんだけど、同じ村出身だって分かってね、いっぱい話したヨ。

 それでね、その彼が日本に入国する際に乗った船に『鬼』が乗ってたんだっテ。」


船での入国。つまり正規の入国では無く密入国だろう。

そうなると、入管に人物照会を依頼しても徒労に終わる。


「『鬼』ってのは、あだ名かい?それとも本当に顔が『鬼』の様だったのかな?」


山下は慎重に詳細を詰めて行く。

殺手が本名を隠すためのあだ名の可能性があるのだ。


「両方の様ネ。

 もともと、『鬼』は本国で殺しをやってたソウよ。

 話してくれた彼も『鬼』の話は知ってたそうだけど、まさか顔まで『鬼』だとは思わなかたっテ。

 フードを被っていたからはっきりとは見えなかったけど、あの顔は『鬼』としか言えないってイッテたヨ。」

「本国で名が知れてるってことは、相当のスゴ腕なんだな。」

「たぶんネ。」


それ程の腕の持ち主をなぜ本国は手放す気になったのだろう。

日本での勢力をより強固にするつもりなのだろうか?

山下は津山に問いかける。


「津山、聞いたことあるか?」

「いや、無いですね。

 第一、そんな凄腕の殺手が動けばあっという間に噂は広まりますよ。

 日本は中国よりもはるかに狭いんですから。」


その通りだ。第一、日本のヤクザは暴力団新法の影響もあり旧来のシノギよりも、堅気の人間を食い物にした闇金や、マネーロンダリング、証券取引等の経済活動によるシノギが組の活動を支えている。

より堅気の人間を食い物にしている分、より社会の寄生虫として人間社会に毒素を振りまいている。

そんなヤクザに対して、無理に直接行動をとる必要は無いハズだ。

では、『鬼』の動きは組織の考えでは無く、個人的な動きなのか?

山下は湖に聞き込みを続ける。


「それで、『天道幇』の男はその『鬼』と話をしたのか?」

「したって。

 以外と話しやすかったそうヨ。

 歴史の話もして、その時に拷問の話も出たって。

 なんでも中国は拷問を芸術に高めた歴史があるって言ってたそうよ。」


半年程前に密入国したのであれば、事件の発生時期と重なる。そして拷問。

いよいよ見過ごせない話となって来た。

山下は興奮を抑えながら頭を整理していると、フッと湖の証言から、在る発言が頭をよぎった。

そうだ!ヨシさんが『狼男』を目撃した際、その場にもう一人いた不審人物、たしか・・・。


「湖さん、『鬼』は船の中で何を被っていたって・・・?」

「もう。聞いて無かったの?

 『フード』よ。

 『フード』を被ってたって言ったの。」