おおかみと人間、本能と精神を二分することにって、ハリーは自分の運命を理解しやすくしようとつとめるが。この二分は極めて大まかな単純化であって、この人が自分の中に見いだす矛盾、彼の大きな苦悩の源であると思われる矛盾に、もっともらしいが誤った説明を施すために事実をねじ曲げたものである。
ハリーは二つの本質からではなく、百、千の本質から成り立っている。彼の生活は(すべての人の生活のように)、本能と精神とか、聖者と放蕩者というような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組合せのあいだを、振り子のように揺れているのである。
(「荒野のおおかみ」ヘッセより)
何度も書いているけど、結果と原因は単一の過程ではない。偶然も社会も歴史も含めて様々な原因が、ある一つの結果を生み出す。
例えば、癌による死亡と言っても、江戸時代の場面であれば、原因もわからずに身体が弱っていく。なすすべなどない。現代においてはいくつかの治療法があり、結果が同じであっても、その「余命」を自分らしく過ごすことも可能です。現代の医療技術の進化、療養を許される環境などが、結果に関わっています。
心も、「生きるべきか、死すべきか」だけではなく、様々なあり方や生き方がある。
また、「精神と本能」「家族と自分」「社会と自分」「マナー(公共)と個人」などのなかで、自分の振る舞いを決して行く。
認知症になると、そのあたりの理解が十分ではなく、状況と自分の関係や、これまでの自分と過去の自分がわからなくなります。結果として、様々な要因から適切な振る舞いが難しく、難しいがゆえに混乱して事態を悪化させてしまいます。
意識していなくても、日頃は「馴染んだもの」として、自分の振る舞いを決定していると思います。そして、その行為や思考では立ちいかなくなったととき、改めて考える。その時に、「白黒」で分けたような考え方にならないようにしないとさらに難しくなる。
「自分はこれだけ」と決めつけないことで、他の考えを得ることもあるでしょう。
さて、蛇足です。
久しぶりにPCショップに立ち寄って、パーツを眺めていました。
店員が傍らで「何をお探しですか」と言います。
私は普通に「いろいろと見て回ろうと思っています」と答えました。
店員は遠慮しながら「では、ひとつだけ。セキュリティーソフトは何をお使いですか?」
私は遠慮しながら「リ…リナックス(linux)・OSですから…(windowsやmacのセキュリティーソフトはほとんど使えません)」
「ああ、そうですか・・・」と店員は引いて行きました。
時々、店員のセールス・トークに対して、批判的で辛辣な対応を誇らしげに語る人がいます。
私自身も仕事をしていれば、言いたくないことを言ったり、聞いたりすることがあります。
相手も同様で、それが仕事や顧客にとって必要なこともあります。
客として煩わしければ普通に断ればいいのではないでしょうか?
「うるさい店員」と「偉い客」という二分法的な考えでもあるのかな。