慢心せず、開き直らず、 | 心模様とガラス玉演戯(役立つ心理ポイント)

心模様とガラス玉演戯(役立つ心理ポイント)

交流分析やサイコドラマ・心理学について書いています。また、好きな本の引用など。

善事をなすものは善人、
悪業を離れることのできぬものは悪人である。

 

しかし、また悪人には悪業を離れることのできぬ悲しみがあり、
善人には善事を頼むということもあるであろう。

 

そこに善人には自力の限界を知らざる限り、
本願他力に帰すということがないという迂遠さがある。

 

けれども悪人は大悲の願心をきいて
直下に心身に応えるものがあるであろう。
まことに深重の本願である。

 

それ故に自力作善の人は、弥陀の本願(の正機)ではなく、
他力をたのみたてまつる悪人は、
最も往生の正因(を身につけしもの)である。

 

(「歎異抄」岩波文庫)

 

 

いわゆる「悪人正機説」の現代語訳(解釈)の部分です。

先に書いておきますが、教義や信仰に縁遠い私です。
だからといって、相手が大切にするものを意味なく
貶めたりすることもしません。

 

さて、上記の文章を読んでどう思われたでしょうか?
それぞれの感想があるでしょう。

私は、浄土真宗の教義や、本願がいかなるものかを理解していません。
その上で・・・。

 

たぶん、善人と悪人という区別が誤解を招くのではないかと思いました。
完全な善人はおらず、同時に完全な悪人もいないでしょう。
また、善悪をどのように、どのような判断基準で区別するのかも難しい。

 

ただ、「自分は良い行いをしている」という慢心は、避けなければ
「自力の限界を知らざる」という間違いを犯すでしょう。
卑近に言えば「ありがた迷惑」となる可能性を持っている。

 

そして、「悪人」が自分の「離れられない業」を常に感じているかといえば、
それも違うと思います。自分の行いを「損得」の「得」とのみ思っているかも
しれないし、「しかたないじゃないか」と開き直っているかもしれません。
「悪人は大悲の願心をきいて」いない

悪業の人の方が多いのではないかと、思います。

 

善悪は、「あざなえる縄のごとし」のように私は思います。

 

その時々の、その人の「善」に慢心せず、
その時々の、その人の「悪」に開き直らず、

というのが、私の考える「正因」のような気がします。
決して、教義的な「他力本願」ではないのでしょうが。

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村 ←管理者がとても喜びます、ポッチ!ρ( ̄∇ ̄o)