猫はニャーと鳴く動物である。
タマ、ミケ、シロ、は猫である。
ゆえに、タマ、ミケ、シロはニャーと鳴く。
ごもっともな話しである。
決して、「吾輩は猫である」とは言わない。
けれども、風邪をひいた猫は、声が嗄れて、
ニャーと鳴くことが出来ないかもしれない。
そして明日にはまたニャーと鳴くことができるかもしれない。
同様に、多くのことを人はそれぞれに「概念化」している。
犬はワンと鳴く。
鶏はコケッコッコーと鳴く。
人は財布を落とすと泣く。
アメリカ人は英語を喋る。
日本人は日本語を喋る。
フランス人はフランス語を喋る。
「当たり前」のことは割合として、当たっていることが多いと
いう事実があるでしょう。
けれども、もっと詳細に調べると、そうでない事実も含まれている。
これは、その個別具体的な状況を「無視」しなければ、自ずと
理解されることと思う。
認知症高齢者が、いつも適切でない行為をするとは限らない。
自宅では介護にどれだけ手間が掛かろうとも、デイサービスでは、
「しっかり」している印象をもたれることもよくある話しです。
また、一般に、重度認知症で、話せず、食べられず、経管栄養で
寝たきりであっても、微妙な表情をみることができることもある。
統合失調症は、「症候群」ではないかといわれるほど、症状が個々人に
よって違い、また、時期によって陽性症状(妄想幻覚)・陰性症状(意欲減退)等がある。だから、接しない人にはかなり漠然とした、「妄想を持つ人」の「怖い」イメージが強いのではないかと思う。因みに、薬学の発達で、統合失調症の軽症化がいわれて10年以上になります。
学問や概念や「当たり前」は、日常生活を送るのに大切だけれど、個別性を無視してはいないかの判断は時と場合に出てきます。
結婚して、お互いの実家での「当たり前」が違うと、話し合いなどであらたな「当たり前」を妥結しなければなりませんよね。
何が言いたいのかというと、場合によってはその個別具体的な面を発見して喜ぶ可能性はいつもあるということです。もちろん、その逆のこともあります。けれども、見ようとしない人には見えなものがあると思うのです。
そして、見るも見ないも、その人しだいということなのだと思います。
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