学者達
己の罪を忘れはてた禿頭居士
(こじ)
年寄の、学者の、お上品な禿頭居士は
若者達が、床の上で輾転反側、
(てんてんはんそく)
恋に狂うて呻き出して
(うめき)
美人達の愚かな耳を喜ばせる
詩句をば校訂し、注釈する。
それも皆難渋な足取り、皆インチキの咳をし、
皆靴で絨毯をすりへらし、
皆の考は他人の考と変わりなく、
(ひと)
皆の知っている人は隣人の知っている人。
(となりのひと)
まあ、カタラス先生もそうだつたのか
どうだろう。
(イエーツ)
日本人のノーベル賞受賞者が二年続けてでたことは、
喜ばしいことです。
これで、「ナントカ細胞」でイメージダウンした科学界も
活気つくのではないでしょうか。
まぁ、日本人云々よりも、それらの方々の真剣な試みが
評価されて嬉しいです。
でも、「曲学阿世」という言葉も忘れてはいけません。
【学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような
言動をすること】
専門でもないことに口を出したり、事件の詳細をよく確認もせずに
専門家としてコメントしたりする。
また、自説に固執し続けたり、自分の感情なのか、思想なのか、
主義なのかわからないまま口走る。
TVや新聞で「よく見る」人々ですね。
ノーベル賞をとるひとは、学会では有名でしょうが、
授賞してはじめて世間が知るような人がほとんど。
光の当たりにくいことでも、コツコツと、自分の人生として、
行った人なのではないかと想像します。
さて、学者をこき下ろすだけでは意味がありませんね。
自らも、自分の意見ややり方に固執しがちです。
これまでの経験から、何ほどか有利だとという思いがそうさせます。
それは、【自分の心をまげて、世間や権力者の気に入るような
言動をすること】ではないと言い切れません。
あるいは【自分の心ををまげて、世間や権力者に反抗的な
言動をすること】の場合もあるでしょう。
「皆難渋な足取り、皆インチキの咳」
真理を球体とすると、考えやすくなるのですが、
球体に延びた線は、ある一面において真理と接します。
しかし、延長すればそれだけ真理から離れてしまいます。
ある学説(仮説)も、ある面では真理と接している
かもしれませんが、それですべてをとらえることは困難です。
心も球体かもしれません。自分のある面だけを
強調しようとするのは、ちょっと強引だし、
いつもと同じと考えるのも無理が出てくる。
慣れ親しんだ自分を壊す必要は全くないのですが、
「それだけではない」と受けとめておくと、
何かと便利なような気がします。
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