残念ながら「専門家」であることは、たいへんに虚しいことです。できれば「専門家」などにはなりたくない。
そのことをどこかで自覚しているかどうかは実は決定的なことではないでしょうか。「専門家」とは、ある部分について知っているに過ぎません。その「部分」を加算して全体を描いた時に、全体が本当に善きものになる、などという保証はどこにもない。「合成の誤謬」はいくらでも生じます。
正しいのは逆なのです。まず善き全体のイメージがあって、その全体イメージを組み込んで「部分」が論じられるべきなのです。
「部分」はただ「部分」としてあるのではなく、「部分」はすでにある意味で「全体」をそのうちに取り込んでいなければならないのです。「部分」を加算して「全体」になるのではなく、「部分」のうちに「全体」がなければならないのです。
(「正義の偽装」佐伯啓思)
以前に、このブログでだれもが何らかの意味で「専門家」であると書きました。それは職業や研究職は言わずもがなです。
しかし、賃金を得ていなくても、主婦も大切な家族を守るために、特定の環境下で最適を追求する「専門家」であると思っています。
そして、もうちょっと視野を広げてみると、世界は複雑であり、学問は細かく細分化され、職業は分業化され、専門家なしでは成り立ちません。
中世のような賢者や博識の天才はいない世界です。
さて、生活していく上で良くも悪くもある部分に特化した「専門家」としての面があるわけです。それは人の存在の一面でもあると思います。けれども、それだけに留まろうとすることも難しい。
だって、生活全体でより善い存在でありたいと思いませんか?
例えば、会社で激烈な出世競争があり、相手を追い落としたり足をひっぱたりしながら、家庭では「いじめはよくない」というのは白々しいものに感じますよね。もし、その白々しさ耐えうるのなら、それこそ「部分」を加算した生活の誤謬でしょう。
現実の中で、勝ち負けにこだわる部分があるのはもちろんです。それをなるべくより良い形で終えようとすること、またはそう努力すること。結果的に間違ったとしても、自分を省みて全体をイメージすることではじめて「いじめはよくない」という言葉が白々しいものでなくなると思います。
介護でも子育てでも、生活の部分であったり、職業の部分であったりするのですが、なにほどか自分自身の生き方の全体イメージがなければ、教科書に書いてあるものをなぞるだけで、常に切り離された「部分」となってしまいます。
現実は私たちをどんどん「部分」として扱おうとします。その場面場面で適切に振る舞う必要があります。けれど、それを支えているのは自分という全体を求めるものであること忘れないようにしたいと思うのです。
そして、逆に「部分」を観ているにも関わらず、「全体」を観ているような錯覚もおこさないように気をつけたいとも思っています。当然ですが、わからないことの方が多いのですから。
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