もし自然という言葉を広く解釈して、存在するあらゆるものの源泉であると考えれば、私はその自然に対して感謝しているといわれてよいであろう。
これはちょうど、「場の中にいる」ことによって私自身がケアされるのと同様であり、それゆえ私としては。それに対して報いたい(ケアをしたい)のである。しかし、私は人生全般に感謝する(ケアする)ことはできない。
私の人生のうちの、この場合、または、あの場合という具体的な対象をケアすることによってのみ、人生に感謝できるのである。
(「ケアの本質」ミルトン・メイヤロフ)
言ってることは、よくわかるような気がします。
しかし、我が身を振り返ってみると、怒りやら不満やら反省やらがぼろぼろと出てきます。「私」の半分は不満でできています、と言いたいくらいです。
でも、残りの半分は「優しさ」でできているかも知れない。
冗談はさておき、「この場面」「あの場面」で、確かに感謝している(ケアをされている)、報いたい・手伝ってあげたい(ケアをしたい)という気持ちがあったのは確かなのです。そして、それが上手くいった時には、私は「場の中にいる」ことで、違和感のない存在でもあります。
それを感じることができるのも、違和感(「その場にいない」)を感じられる自分がいるからではないでしょうか。
人はそれぞれが、個であるからこそ、根源的・全体的に他者と繋がることはできません。相手の歯の痛みを、そうぞうはできますが、同様に感じられないことと同じです。
だからこそ「ケア」を通して、お互いが繋がることが愛おしいのだろうと思います。だからこそ、そうではない時に、強い怒りや嫉妬や恨みが現れるのだろうとも思います。
できれば「ケア」という関係をもてるよう生きていいたいですね。
にほんブログ村 管理者がとても喜びます、ポッチ!ρ( ̄∇ ̄o)