サディスティックな自己満足 | 心模様とガラス玉演戯(役立つ心理ポイント)

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交流分析やサイコドラマ・心理学について書いています。また、好きな本の引用など。

被害者的心理自体は苦痛なものであるが、連帯故に主体的に選び取られた被害者意識は苦痛を感じさせることが少ない。

かくしてかかる被害者意識の持主は、被害者的心理にも拘わらずあるいはむしろそれ故に他に危害を及ぼすことが平気になり、サディスティックな自己満足すら覚えるほどになる。

ここでしかし誤解を避けるために一言しておくが、私は加害者を攻撃し非難することがすべて間違っているといっているのではない。悪は責められるべきである。しかしもしこの際、それによって自己自身の罪悪感がふっとぶようならば問題である。

(「甘えの構造」土居健郎)

上記の文章は、安保闘争などを行った「ニュー・レフト」への著者の分析の一部です。

けれども、けっこう一般的なもののように読めます。

自分が被害者と感じた時、ある加害者がいるわけですよね。それが、身近な対象であれば、直接に話し合ったり、文句を言ったり、近づかないようにするなど、具体的な解消ができます。場合によっては、自分の落ち度であったり、勘違いだったりするかも知れません。

そして、被害者になったからといって、被った被害以上のことをしようとすると、それは正当防衛を越えてしまいます。

被害者が「加害者」を明確にできていないと時はどうでしょう。
失敗続きで運が悪かったり、会社が倒産したり、国が貧困だったり。

直接対決する加害者がいないので、いろいろと怨み言を言ったうえで「まぁ、しかたないか」となるのがふつうかな。いやいや自分ならそう思うかな。

でも「被害者」だから、相手がわからないから、相手が強大だとだからと、やたらとコブシを振り上げる人もいるでしょう。

「被害者的心理自体は苦痛なものであるが、連帯故に主体的に選び取られた被害者意識は苦痛を感じさせることが少ない」
被害者の連帯感がなくても、「なぜ自分だけ」という「被害者意識」を高めて、「他に危害を及ぼすことが平気になり、サディスティックな自己満足すら覚える」ことも可能だと思います。

被害者意識は容易に、「加害」を正当化させます。

被害者となることは誰にもあるし、そういった意識をもつことも誰にもあります。だけども、その被害や意識がそのまま妥当であり、正当であるかは別だと思うのです。

先ほど書いたように、誤解だったり、自分の落ち度の可能性もありますから。
また、加害者に対する態度も、本来あるであろう「自己自身の罪悪感がふっとぶようならば問題」ですね。

できれば、被害者とならない、被害者意識というものに覆われない生活がのぞましいように思います。難しいけれどね。

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