・・・主観的に「幸福になりたい」という程度のことならば特に問題はありません。しかし、それが、「人は幸福でなければならない」といういささか強迫的な観念からでているとすれば、やっかいなことになる。
「ポジティブ・シンキング」とは、いうまでもなく「物事を楽観的に考える」ことで、悲観的に捉える「ネガティブ・シンキング」を排する、ということです。そして「ポジティブ・シンキングをすれば幸福になれる」とされる。
この命題と「人は幸福でなければならない」という命題が結びつくと、「人はポジティブ・シンキングをしなければならない」というかなり強力な命題が出てくる。
かくて「ポジティブ」であることが強迫観念になってきます。物事の悲観的観測など、それ自体が間違っている、となる。かくて、悲観的観測そのものがあらかじめ排除されてしまいます。虚構でもいんちきでも、ともかく「ポジティブ」であることだけがまかり通ってしまう。
(「反・幸福論」佐伯啓思)
上記の文章は基本的にはアメリカの現状を説明しているものです。また、いろいろと私が文章を切り貼りしています。
この文章を読みながら、映画「アメリカン・ビューティー」を思い出しました。アカデミー賞をとっているので、見た人もいるかも知れませんね。
題名とは裏腹に、表面を取り繕うアメリカの人々や家庭が悲喜劇として表現されています。そのなかで、主役の妻がこの「ポジティブ・シンキング」の実践者として演じられています。夫は、そんな妻に疲れ、会社に疲れ、次第にアウトローとなります。それをユーモラスに演じるケヴィン・スペイシーの演義が良かったです。
日本でも一般的に言えば「ポジティブ」であることが求められます。けれども、アメリカほど「人はポジティブ・シンキングをしなければならない」とまでには到っていないように感じます。
で、「ポジティブ・シンキング」も度を過ぎれば「躁」を呈してきます。「躁状態」の人と関わったことがある人には、わかると思いますが、とてもついて行けません。つき合っている方がとても疲れてしまいます。
同列に論じてはいけないのかも知れませんが、やはり現実をみようとするとき「ポジティブ」だけでは、「躁」と同じように論理の飛躍やら、状況の無視がおこると思います。「勇敢」であることと「蛮勇」は違いますから。
現実全てをみることができないからと言って、一面だけをみるという態度もいただけません。
常に「明るく、元気」である必要もないし、常に「自分が正しい」と信じる必要もない。たまたまの不幸も、必然的な不幸もあるでしょう。
不必要に、悲観的になったり、自信をなくしたりするのは、どこかで「ポジティブ・シンキング」でない自分を責めている場合もあるだろう、と思いました。
人それぞれの「ポジティブ」があるでしょうが、ポジティブであったほうがよいけれども、ぐらいがちょうどいいのだろうと私は思います。
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