「何か善いもの」という価値 | 心模様とガラス玉演戯(役立つ心理ポイント)

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交流分析やサイコドラマ・心理学について書いています。また、好きな本の引用など。

確かに、自由も平等も生命尊重も重要な価値には違いない。だが、それらが重要なのは、自由や平等を通して何か意義ある生活や活動が実現されるからであろう。

この「意義ある活動」や「意義ある生活」といったとき、そこに「何か善いもの」という価値が本来は想定されていた。

しかも、それは、ただその人の独我論的な主観というわけではない。
活動の「意味」や「意義」は本質的には他者からの承認を必要とするものだからだ。

この種の「何か善いもの」という観念と切り離して、自由や平等、生命尊重などを無条件で最高価値とみなすわけにはいかない。

(「自由とは何か」佐伯啓思)

束縛「からの自由」と選択する「ための自由」があると以前に書いたと思います。

学校から逃げ出したい、家庭から逃げ出したい、会社から逃げ出したい、というのは、束縛からの自由です。そこからいなくなることが目的になっています。そういったことが必要な場合もあるでしょうが、それではなかなか満足のある「場所」にはたどり着けないでしょう。

ための自由は、目的をもって自分で決定していくことの自由です。だから、例えば、両親に抑えつけられて、家から出て行きたい! と思うのと同時に、両親に気持ちを伝えて、態度を少しでも改めて貰うようすることもできます。どちらを何のために選ぶのかです。

では、「ための自由」はいつでも正しいのでしょうか。
不正を犯すための自由、人を騙す自由、嘘をつく自由・・・。

ということは、自由は大切なものだけれど、それ単体では不十分なもとなります。つまり人々が求める「意義のある生活」には、自由の上になんらかの「善いこと」を想定しなければなりません。

不自由を感じるとき、それは環境(厳しい職場、家庭内の事情)からきているのか、自分の心がいつも自分を抑えつけてしまてっているためなのか考えてみる必要があると思います。

もし、心がいつも同じ方向しか見ていなければ、すべてが同じに見えてしまうでしょう。どれもこれも繰り返しで、考える必要を感じなくなります。ただ、不自由な苦痛はなかなか離れません。それは人間だからです。

心はやっぱり楽しみたいし、嬉しくありたいと望んでいるでしょう。また、苦境であるときにさえも、「なんらかの正しさ」を求めることで、乗り切ったり耐えたりすることもできます。

だから、私やあなたが苦手な人に自分の思っていることを話したり、同じことを繰り返しているときにちょっとした楽しみを見つけたりすることは、心に自由を与えています。大切な自由を上手く使っていることになるでしょう。

また、他者を貶めたりするのは善くないですが、ちょっとした嘘をつくことも身を守るために必要な自由だったりします。

自由や平等や生命が大切なのはわかります。ただ、それを観念的に正しいと思いこむのではなく、現実の中で「なんらかの善いこと」のために吟味して使っていくことが本当の大切さなのではないでしょうか。
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