「大人になるという事は、
現実を受け入れる能力を持つという事だ」
(精神医師 ジムクント•フロイト)
都会の片隅にある静かな、
カウンセリングルーム。
心理カウンセラーの薫子さんは、
ノートパソコンの画面から顔を上げ、
目の前に座る女性に、
温かい視線を向けました。
クライアントの世津子さんは、
大手メーカーの企画部に勤める、
入社数年目の社員です。
しかし、彼女には一つの、
大きな悩みがありました。
それは昇進試験や大口の、
新規案件を任されるような、
ここぞという大事な場面になると、
決まって激しい腹痛や高熱に襲われ、
実力を発揮できないまま、
チャンスを逃してしまうというものです。
「先生、私、どうして大事なときに、
いつも体調を崩してしまうんでしょうか……」
世津子さんは不安そうな顔で、
紅茶のカップを両手で包み込みました。
薫子さんは穏やかに微笑みながら、
彼女のこれまでの生い立ちを、
優しく尋ねました。
世津子さんは三人きりょうの、
末っ子として生まれ、
特に母親から、
「世津子は私が守るからね」、
「危ないことはしなくていいの」と、
盲目的に溺愛されて育ったことを、
話し始めました。
その話を聞きながら、
薫子さんの脳裏には、
ひとつの仮説が浮かんでいました。
(世津子さんの不調の主犯はママだわ。
母親に徹底的に溺愛され、
「未熟な子どもでいれば、
ママがすべてを守ってくれる。
大人の責任なんて背負わなくていい」と、
無意識に刷り込まれてしまったのよ。
現実の厳しいプレッシャーから、
逃げ出すために、
体が勝手に病気を作り出して、
ママの庇護を求めているんだわ)
「世津子さん、フロイトはこう言っています。
『大人になるという事は、
現実を受け入れる能力を
持つという事だ』ってね。
もしかすると
あなたの体調不良は、
大人の責任や現実から目を背け、
いつまでもママに
溺愛されていた、
子ども時代に引きこもりたいという、
心が引き起こしている
サインかもしれません。
この呪縛を解くために、
今日はカウンセリングルームで、
特別なワークをしてみましょうか」
世津子さんは少し緊張した面持ちで、
うなずきました。
薫子さんは
部屋の中で一脚の椅子を用意し、
世津子さんの向かい側に置きました。
「まず、目の前にある空の椅子に、
あなたを過剰に溺愛していた、
若い頃のお母さんが、
座っていると想像してください。
そして、あなたの心の中にいる、
ママの過保護な愛に
しがみついていた、
子どもの頃の世津子さんを、
呼び戻すのです」
世津子さんは目を閉じ、
深く呼吸をしました。
脳裏に何をするにも、
「ママがやってあげる」と
自分を囲い込み、
外の世界から
守ろうとしていた、
母親の姿が鮮明に蘇ります。
「さあ、子どもの世津子さんとして、
そのお母さんに向かって、
こう伝えてみてください。
『もう私はママの助けがなくても大丈夫。
一人でできるから、心配しないで』
と」
世津子さんは震える声で、
目の前の空の椅子を見つめながら言いました。
「……ママ、今まで私を
溺愛してくれて、
ありがとう。
でも、もう私はママの助けが
なくても大丈夫なの。
一人で自分の人生を歩いていくから、
そんなに心配しなくてもいいんだよ」
その言葉を口にした瞬間、
世津子さんの目から大粒の涙が、
こぼれ落ちました。
それは寂しさの涙ではなく、
ずっと心にしがみついていた、
「ママに守られたい」という、
依存心を手放す瞬間の、
切なくも温かい涙でした。
「よく言えましたね」と、
薫子さんは優しく声をかけ、
さらに続けました。
「では最後の大切なステップです。
その『溺愛の象徴』である目の前の椅子を、
あなたの手で思いきり、
ひっくり返してみてください。
それはママの過保護な呪縛に区切りをつけ、
自分の足で自立した大人として、
生きるための儀式です」
世津子さんは立ち上がり、
目の前にある椅子へと、
ゆっくり歩み寄りました。
そして、心の中の迷いや恐れを、
すべて振り払うように、
両手でその椅子を力いっぱい、
押し倒しました。
ガタンッ!と、
静かな部屋に乾いた音が響き渡りました。
椅子がひっくり返った瞬間、
世津子さんの表情から、
今までの頼りなさが、
すっきりと消え去り、
その瞳には
凛とした強い光が宿りました。
胸のつかえが嘘のように消え、
深呼吸をすると心も体も、
驚くほど軽くなっているのを感じました。
「……終わったんだ。
私はもう、ママの庇護がなきゃ、
生きられない子どもじゃないんだ」
世津子さんは自分の両手を見つめ、
晴れやかな笑顔を浮かべました。
数日後、世津子さんは再び、
カウンセリングルームを訪れました。
表情は以前よりもずっと引き締まり、
大人の女性としての自信に、
満ち溢れていました。
「先生!あのワークのあと、
来期のメインプロジェクトのリーダーを、
任されたんです。
以前ならここで胃がキリキリ、
痛み始めていたはずなのに、
今回はまったく平気でした。
むしろ『さあ、やってやろう』って、
ワクワクしたんです。
無事に企画のプレゼンも大成功しました!」
世津子さんはカバンから見事な、
企画書を取り出し、
誇らしげに見せました。
薫子さんは自分のことのように目を細め、
深くうなずきました。
「素晴らしいですね、世津子さん。
現実を受け入れ、
自分の足で立つ覚悟を
決めたあなたには、
もう何の迷いもありませんよ。
本当の自立と自由を手に入れたんですね」
窓の外には
新しい未来を照らす、
まばゆい太陽の光が
差し込んでいました。
世津子さんは
しっかりと大地を踏みしめ、
自分の力で切り拓く人生へ向けて、
軽やかな足取りで、
カウンセリングルームを
後にするのでした。

