
※目立つのが苦手な紗季(中央)
「あなたが自分を
小さく見せることは、
世界のためには ならない」
(マリアン・ウィリアムソン
作家/『愛への帰還』著者)
#第1部
## 「異常なし」という絶望
朝、
目覚まし時計が
鳴る前から、
紗季(29歳)はもう
目を開けていた。
正確には、
一晩中
眠れていなかった。
天井を見つめながら、
「今日も始まってしまう」
ただそれだけを
思っていた。
身体の芯に、濡れた砂を
詰め込まれたような重さ。
布団をめくる。
それだけの動作に、
まるで
崖を登るような
気力がいる。
「またこの感覚だ」
半年前から、
ずっと
そうだった。
## 半年前、何があったか
半年前の春、
紗季は
チームリーダーに昇進した。
同期の中でも
異例の早さだった。
会議室の一番前で、
十数人の
部下を前に辞令を
受け取った
あの日。
拍手の音が、
なぜか
紗季には
遠くに聞こえた。
*こんなに
注目されて、
大丈夫なんだろうか。*
*失敗したら、
今度こそ
何を言われるだろう。*
喜びより先に、
言いようのない
恐怖が込み上げていた。
それからだ。
朝、
起き上がれなく
なったのは。
会議で、
自分の意見を
求められる
たびに、
喉が
凍りつく
ように
なったのは。
## もう一つの重さ、身長
紗季には、
昇進とは別に、
長年抱えてきた
コンプレックスがあった。
身長、
175センチ。
女性としては
高い方で、
学生時代から
「目立つ」の
代名詞だった。
集合写真では、
必ず後列の真ん中。
「大きいね」
「モデルみたい」
褒め言葉のはずが、
紗季にはいつも
針のように
刺さった。
*大きいって、
目立つって
言われてる
だけだ。*
猫背になり、
ヒールの低い靴を
選び、
なるべく
壁際に立つ。
そうやって、
自分の
「大きさ」を消す努力を、
物心ついた頃から
無意識に
続けてきた。
リーダーに
なってからは、
その努力すら
通用しなく
なった。
先頭に立ち、
一番目立つ場所で、
一番声を出す役割。
身体的にも、
立場的にも、
「目立たない」
選択肢が
消えてしまったのだ。
## 検査結果への絶望
血液検査。
MRI。
心電図。
甲状腺の検査まで。
大学病院の
待合室で、
紗季は何度も
名前を呼ばれた。
そして
医師は、
決まって同じ言葉を
繰り返した。
「数値はすべて
正常ですね。
特に問題は
見当たりません」
「でも、先生。
本当にしんどいんです。
昇進してから、急に……」
「昇進うつ、
というのもありますね。
環境の変化による
ストレスかもしれません」
その一言が、
紗季の心の
一番柔らかい部分を
えぐった。
*みんなが欲しがる
昇進で、
私だけが壊れている。*
*贅沢な悩みだって、
言われるだけだ。*
誰にも
相談できない。
「原因がわからない
苦しみ」は、
「原因がある
苦しみ」より、
ずっと孤独だった。
## 崩れていく自信
会議で
発言しようとした瞬間――
喉の奥が、
ぎゅっと締まる。
心臓が、
早鐘のように鳴り出す。
「私なんかが、
一番前に立って
いいんだろうか」
「こんなに目立って、
また何か
言われるんじゃないか」
「また、
あの時みたいに」
何の
「あの時」か、
紗季自身にも
わからなかった。
ただ、
身体だけが、
はっきりと
覚えていた。
## 上司の一言
「紗季さん、
最近、
顔色が悪いけど……
大丈夫?」
直属の上司、
田村健が
声をかけてきたのは、
そんな
ある日の夕方だった。
「昇進してから、
ずっと
無理してるだろう。
病院でも
何も出なかったんなら、
違うアプローチを
試してみないか」
差し出された
1枚の名刺。
*催眠療法士
薫子*
「セラピーとか、
正直胡散臭いって
思ってます」
「わかるよ。
でも、このまま
苦しみ続けるのと」
「一度だけ、
試してみるのと。
どっちが、
本当は怖い?」
その問いが、
紗季の胸の奥に、
小さな棘のように
刺さって残った。
## 瀟洒な扉の前で
住宅街の
奥まった一角。
白い外壁。
控えめな木製の扉。
上品な書体で
灯りに
照らされた看板。
*Kaoruko
Therapy Room*
想像していたような
怪しさは、
どこにもなかった。
「ちゃんとした場所、
なのかもしれない」
深呼吸を
一つして、
紗季は
震える手を
扉にかけた。
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# 第2部
## 深く潜るセッション

※薫子の療法を受ける紗季(右)
扉を開けると、
柔らかな光の中に、
白衣をまとった
女性が立っていた。
「はじめまして。
薫子です。
今日は、
よくいらっしゃいましたね」
「紗季です。
正直、まだ半信半疑
なんですけど」
「それで
大丈夫ですよ。
疑いながらでも、
今日、ここに来た。
それ自体が、
もう大きな一歩です」
## 問診という名の解剖
「まず、
そのだるさについて、
聞かせてください」
紗季は、
半年前の昇進から
始まった苦しみを、
ぽつり、
ぽつりと
語り始めた。
「昇進した時から、
なんです。
嬉しいはずの出来事
なのに」
「先頭に立つのが、
怖くてたまらなくて」
薫子は、
静かに
うなずきながら
聞いていた。
「実は、
昔から目立つのが
苦手で……
身長も高いので、
昔からずっと
目立ってしまうんです」
「小さい頃から、
『大きいね』
って
言われる
たびに、
なんだか
責められているような
気持ちになって」
薫子の目が、
かすかに
光った。
「なるほど。
身体的な特徴と、
立場の変化。
その二つが
重なったことで、
何かが限界を
超えたのかもしれませんね」
「昇進は、
きっかけの
一つに過ぎません。
本当の
原因は、もっと
根が深いところに
あるはずです」
「先生……
私……頭が
おかしいんでしょうか」
「いいえ。
あなたの身体は、
とても正直に、
何かを必死に
訴えているだけです」
「その声を、
今日、一緒に
聞きにいきましょう」
## 時を遡る誘導
「目を閉じてください」
「今、
感じているだるさに、
意識を向けてみて」
「そのだるさを、
人生で一番最初に
感じたのは、いつですか」
「時間を
遡っていきます。
半年前、去年、学生時代……
もっと前へ」
沈黙が、
十数秒続いた。
「……見えました」
その声は、
明らかに
さっきまでとは違う、
幼い響きを帯びていた。
## 教室の記憶、噴き出す感情

※目立つ事が苦痛だった幼少期
「どんな場面ですか」
「小学校の……
教室です」
「作文の発表会があって」
「私の作文が、選ばれて」
「みんなの前で、
読むことになったんです」
「それは、
どんな気持ちでしたか」
「嬉しかった。
本当に、すごく嬉しかった……」
「でも、発表したら……」
「クラスの子が、ざわついて。
『調子、乗ってる』
って、
誰かが言うのが
聞こえたんです」
「先生は、
何も言わずに、
次の子を呼びました」
「私だけ、
一言も褒めてもらえなかった」
「教室中の視線が、
全部私を
責めてるように感じて」
薫子は、
静かに、
けれど
はっきりと
問いかけた。
「その日、
家に帰って、
何かありましたか」
## 母の言葉という呪い
「母に、
話したんです。
発表会のこと」
「お母さんは、
何と?」
「『目立つと、損するのよ。
控えめにしていなさい』
って」
「それに、その頃から
背も急に伸び始めて。
母によく
『あなたは
大きいんだから、
余計に控えめにしないと』
って
言われてました」
紗季の声が、
震えを増した。
「身長のことも、
性格のことも、
全部
『目立つ部分は
消しなさい』
って言われてる
ように感じてました」
薫子は、
静かに言った。
「幼いあなたは、
その言葉を、
どう受け取り
ましたか」
「私は……
目立っては
いけないんだって」
「大きくても、
褒められても、
喜んじゃいけないんだって」
「重要であっては、
いけないんだって」
「そう思いました」
その瞬間、
紗季の身体が
大きく震え、
嗚咽が漏れた。
「だから
昇進した時、
怖かったんです」
「一番
目立つ場所に、
また
立たされる気がして」
「身体も、立場も、
もう隠れる場所がない
気がして」
紗季は、
ソファの上で
崩れるように
泣いた。
## 幼い自分との対話
「紗季さん。
今、教室の隅で、一人
うつむいているあの子が、
見えますか」
「……見えます。
小さくて、
肩をすぼめて」
「その子に、
近づいてあげてください」
長い沈黙。
「……大丈夫だよ」
「あなたの作文、
すごく良かったよ。
一生懸命書いたの、
ちゃんと
伝わってきたよ」
「本当に……?」
「本当だよ。
あなたは、
何も間違ってない」
「大きくても、
目立っても、
何も悪くない」
「悔しくて、
悲しくて、
当たり前だよ」
紗季の涙が、
また溢れ出す。
「その子に、
もう一つ、伝えて
あげてください」
「これからは、
誰の許可もいらないと」
「あなたは、
重要な存在だよ」
「大きくても、
目立っても、
輝いていい」
「誰かに
嫌われるのが怖くて、
自分を小さくしなくて
いいんだよ」
## 幼い自分の解放
「じゃあ……
私、
発表して良かったんだね」
「うん。
本当に、良かったんだよ」
「あなたは
最初から、
ずっと重要だったんだから」
薫子は、
そっと紗季の手に
自分の手を重ねた。
「よく頑張りましたね」
「その子を、今日、
あなたが救い出したんですよ」
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# 第3部
## 光を取り戻した朝
意識が、
ゆっくりと
現実に戻ってくる。
半年間、
いや、もっと長い間
背負い続けた重さが、
嘘のように消えていた。
薫子は、
紗季の目を
まっすぐに
見つめて
言った。
「紗季さん。
あなたの中のあの子は、
今日、誰かの許可を
待つのをやめました」
「あなたが
自分を小さく
見せることは、
世界のためにはならない」
「マリアン・
ウィリアムソンの
言葉です」
「大きいあなたも、
目立つあなたも、
全部本物の
あなたです」
「小さくいる必要を、
今日、あなたは
手放したんですよ」
## 帰り道の変化
カウンセリングルームを出た
紗季は、
夕暮れの空気を
深く吸い込んだ。
いつもなら
無意識に丸めていた
背筋が、
自然と
まっすぐに伸びていた。
「こんなに、
世界って明るかったんだ」
## 変わった紗季
数日後の会議。
紗季は、
一番前に立ち、
発言の直前、
いつものあの感覚を
静かに待った。
来なかった。
「私は、発言していい」
「目立っていい」
「大きくていい」
「重要であっていい」
紗季は、
背筋を伸ばして
口を開いた。
「紗季さんの
その視点、
すごく
面白いね」
上司の田村の一言に、
同僚たちも
次々と
うなずいた。
## エピローグ

※堂々と振る舞える紗季(中央)
「顔つき、
すっかり変わったな」
「はい。
おかげさまで、
生まれ変わった気分です」
「ずっと、
自分の大きさを
恥じて生きてきた
みたいです」
「でも、
もう、その必要は
ないんだって、
やっと思えました」
窓の外には、
夕陽が街並みを
オレンジ色に染めていた。
その光の中を、
紗季は
背筋を伸ばして、
まっすぐ
前を向いて
歩いていく。
もう、
誰の許可も
必要ない。
彼女は、
最初から――
ずっと
重要な
存在
だったのだから。
fin
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