※「挑む」(岡本太郎)
終活とは
魂の呼吸法ー。
伝統氣功の稽古で
「呼吸を攻めろ」
などと
よく言われます。
武學氣功は
インストール<伝授>主体の
Dr.T(苫米地)式の
現代氣功ではありますが、
当然ながら
伝統氣功の古き良き面は
絶賛&踏襲しておりますので、
呼吸にはかなり
氣を使っております。
で。
改めましてですが、
吸うとは、
世界を
抱きしめること。
吐くとは、
世界を許すこと。
人は
生まれてからずっと、
吸って
何かを
得ようとし、
吐いては
何かを
手放してきました。
ただ、
歳を重ねるほど、
吐くことを
恐れるようになります。
財産、肩書き、思い出、
執着——
それらを
手放すことがまるで
自分が
消えることのように
思えてしまうからだと
されます
(いわゆる
資本主義社会の洗脳と
言ってもよろしいかと)。
ただ、
氣の理は逆です。
吐けば吐くほど、
空間が生まれます。
空間があれば、
氣は流れます。
流れがあれば、
命は光ります。
終活とは、
死に向かう
稽古というよりは、
自らの内に
「空(くう)」を
取り戻す呼吸の修行とも
言えます。
すべてを
吐ききったあと、
静けさの底で
気づくはず。
生きるとは、
いま、
この瞬間を
吸い込み、
吐き切る事なのだと…
※岡本太郎美術館
ちなみに、
50歳からの
”終活”という文脈では
終わりを意識するから、
生が燃え始めるという事です。
「危険だと感じる道こそ、
自分が生きる道だ」
(芸術家•岡本太郎)
大昔は
ただのロックな名言に過ぎないと
思っていました。
ですが、
50歳を過ぎた頃から、
その意味が
体に沁み込んできます。
挑むとは、
戦うことではなく、
生きようとする
”呼吸”
そのものであり、
「終活」とは、
死に備える準備ではなく、
生を締めくくる
「本番前の
ウォーミングアップ」
でもなく、
むしろ、
ここからが
人生の“本戦”ー。
そして、
この時期に
やるべき事は“手放す”ー
虚勢を手放し、
肩書きを手放し、
そして
「まだ何者かになれる」
という幻想さえ手放す。
そのときに
ようやく見えてきます
「何者でもない自分」
が。
そして、
それこそが
最も自由で、
最も挑戦的な存在だと。
「人間は
死ぬ瞬間まで、
挑むべきなんだ」
(岡本太郎)
そう、
終活とは、
死に備える儀式ではなく、
“終わりを通して、
生を燃やす稽古”であり、
終わりを恐れるのでなく、
生をもう一度
「攻める」
ための
最高の入口なのですよ、
とm(_)m



