性の多様性は、自由なのか | 「アジアの放浪者」のブログ

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首相秘書官が差別発言の責任を負わされ、更迭されました。

性に対する多様性…もはや社会は、こうした方向に流れているのでしょう。

 

宗教教指導者の中には、性的多様性を容認できないと発言をする人もあり、実際に同性愛については厳しい取り締まりを行っている国も存在しますが、それで一時的に流れを抑えることができても、いつかはきっと、抑えきれなくなるのではないかと思っています。

 

私は、性の多様性にたいへんおおらかなタイに住んでいます。

トランスジェンダーの人たちが社会で活躍していても、もはやそれはニュースにすらなりません。極めて日常的。そういう国であっても、一般的な婚姻法とは別に「パートナーシップ法」を制定し、性の多様性に政治的に対応しようとしています。つまり、性の多様性が日本より受け入れられているタイですら、男女の婚姻とまったく同じ扱いではないわけです。やはり社会の根底に、男女の婚姻と同列とすることには抵抗があるのでしょう。

 

そしてこのタイミングで、インドからひとつのニュースが配信されています。

Times of India 電子版。2月5日に掲載された記事「父が妊娠した時:トランスジェンダーが赤ちゃんの誕生を待つ」。

 

 

インド南西部にあるケララ州の街コチ。

ここに一組のカップルが住んでいます。夫の名はザハド(Zahad)さん。妻の名はジヤ(Ziya)さんです。

ザハドさんは、女から男になろうと乳房を切除。一方のジヤさんは、男から女になろうと豊胸手術を受けています。

 

 

結婚して3年。二人はついに夢を叶えました。それは夫であるザハドさんの妊娠。待望の赤ちゃんを授かることができたのです。

この記事が掲載された時点で、すでに妊娠8ヶ月。赤ちゃんは、3月4日に出産予定です。ジヤさんのインスタグラムから、幸せそうなカップルの写真を転載します。

※私は下の写真のジヤさんの表情がとても好きです。命に対する最大限の敬意を感じます。

 

 

性の多様性は、自由なのでしょうか。

「自由」というと、なんとなく、ひとつの権利といった認識につながっていく印象です。そしてその「自由」について、私がタイでさまざまな人たちと触れ合う中で気がついたことは。

 

「相手の自由を尊重するということは、私自身の寛容性を広げ、受け入れていく努力をすること」。

「私の自由を尊重してもらうということは、相手に寛容になってもらい、私を受け入れていただくこと」。

 

相手の自由は、私自身の寛容性によって左右される。そして私の自由は、相手側の寛容性によって左右される…。お互いの寛容性が高まれば高まるほど、双方の自由度は大きくなっていく…。この自覚、とても大切だと思うのです。「私の自由を受け入れろ」という主張だけでは、世の中ギスギスしてしまう…。「性的多様性を受け入れない」と主張する自由だってあるわけですから。相手の価値観を変えることは難しい。だからまず、自分自身が寛容になって相手を受け入れ、それをもって相手に自分を受け入れていただく…。こうした謙虚さを表す風潮にならないと、お互いさま批判合戦ばっかりになってしまいそうな。そしてそうなってしまったら、お互いに強硬姿勢、ファイティングポーズを構えてしまうばかりです。

 

更迭された首相秘書官。

ザハドさんとジヤさんの写真をみたら、「見るのも嫌だ、隣に住むのも嫌だ」というのでしょうか。

 

私は、おそらく彼はそうは言わないと思います。

首相秘書官を更迭された人の不運は、おそらく彼の身近に同性愛者やトランスジェンダーがいなかったことだと思うのです。首相官邸に、あるいは以前配置されていた経済産業省の職場に、堂々とカミングアウトしている同性愛者やトランスジェンダーが複数勤務していれば。あるいはそうした友人がいたら。「好き」になるまでには至らなくても、彼の性的多様性に対する認識は、きっと大きく変わっていただろうと思っています。

 

人を知ると、寛容性が広がる。

異なる価値観を受け入れる努力をしていくことが、社会の自由につながっていく。

以上は論点を極めて単純化した話ではありますが、多様性を云々するために、まずはさまざまな価値観の人たちと接していくことがとても大切だと思います。