母の頭痛は、相変わらず不安定だ。

 

いろんな改善方法を調べて、
これからも提案することはできる。

 

でも、それを実践するかどうかを決めるのは本人だ。

 

母が自分でも調べるのか、調べないのか。
やってみるのか、やらないのか。
そこから先は、その人自身の人生になる。

 

最近、そんなことをあらためて考えるようになった。

 

以前の僕なら、「こうした方がいいんじゃないか」「あれもやってみたらいいんじゃないか」と、もっと母に関わろうとしていたと思う。

 

でも、いくらこちらが考えても、本人が選ばなければ、その先へ進むことはできない。もちろん、情報を渡すことはできる。一緒に考えることもできる。

 

でも、代わりに経験してあげることはできない。

 

これは、母のことだけじゃない。

 

僕自身も同じだ。
誰かに何かを言われたとしても、実際に行動するのは自分。どれだけ良い情報をもらっても、それを使うかどうか、それが自分に合うか合わないかを決めるのも自分だ。

 

自分に合うものを選んでいく。

 

自分の人生を生きるのは、自分しかいない。

 

当たり前のことだけど、最近はこれが少しずつ実感になってきた。

 

自分にできることと、できないことを分ける。

 

これが大事なんだと思う。

 

相手を助けたい気持ちがあっても、
相手が何を選ぶのか。
その結果をどう受け止めるのか。
そこまでは、その人の領域だ。

 

だからこそ、人との距離感も大切にしたい。

 

その人と一緒にいて、
無理をしなくていい距離を探す。
価値観が合う人とは、自然と距離を縮められる。
一緒にいて安心できる。
何かを確認するときも、変に気を遣わずに聞ける。

 

逆に、どうしても合わない人とは、少し離れる。
物理的に離れることができないのなら、
精神的に距離を置いて付き合うこともできる。

 

それでいいと思っている。

 

これは、冷たい考え方に見えるかもしれない。

 

でも、僕はそうは思わない。

 

すべての土台は自分。

 

人を助けてあげるにも、
土台の自分がしっかり整っていることが
前提だと思う。それを見失うと、
いったい誰の人生を生きているのか分からなくなって、苦しくなる。

 

何でもしてあげることが愛情ではない。
自分への愛情を忘れない。

 

必要なときに助ける。できることはする。
でも、無理はしない。自分の土台まで崩してしまうほど背負わない。

 

そのくらいの距離感が、僕にはちょうどいい。

 

一時期は、母とも父とも一切関わらずに生きていきたいと、本気で思っていたこともある。

 

今は、そこまで極端には思わなくなった。

 

母にも感謝している。父にも、たくさん愛情をもらってきた。

 

だから、できることがあれば自然にしたい。
でも、

自分の人生まで手放して、誰かの人生を生きるつもりはない。

 

母は、母の人生を生きる。
父は、父の人生を生きる。
僕は、僕の人生を生きる。

 

それぞれが自分の選択をする。

 

選択は、人生そのものだ。

 

そのうえで、できるときには助け合う。無理をしない。

 

そして、これは僕自身にも言っている。

 

誰かが僕の人生を決めるわけではない。


環境や誰かのせいにして、
立ち止まっているつもりもない。
僕は誰かに支配されているわけでもないし、
被害者でもない。


これまでの人生も、
自分でひとつひとつ選択して生きてきた。
これからも、そうしていく。

 

情報発信をするのも自分。
怖くても、一歩踏み出すのも自分。
どんな環境に身を置くのかを選ぶのも自分。
誰と付き合うのかを決めるのも自分。

 

結局、自分の人生は、自分で生きていくしかない。

 

だから、自分の人生に必要な境界線は、自分で引いていく。

 

それが、僕にとっての「自分を大切にする」ということだ。

 

noteで記事を書くことにも、同じことが言える。

 

記事を書くのは自分。考えるのも、発信するのも、直していくのも自分だ。

 

でも、それを読むかどうか。
スキを押すかどうか。フォローするかどうか。
そこから先は、読んでくれる人が決めること。

 

僕がコントロールできる範囲じゃない。

 

だから、書き終えたら、あとは手放す。

 

それでいい。