最近はテレビドラマもバラエティー番組も、一時代前に比べると随分“退屈”になったように思いますね。

やはり表現に対するクレームや抗議に敏感にならざるを得ないのでしょう。

自分は必要以上に下品な番組や表現は好みませんが、社会的常識に縛られた上品で“退屈”なだけの番組よりはマシだと思っています。

これは何に関しても言えると思うんですが、人の心をエンターテインさせる事の出来る“面白み”というものは、時として(というか結構な割合で)社会的常識との間に軋轢を生じるさせるものですし、言い方を変えればPTAのカンに障るものなのです。

そういうエンターテインメントを排除していくのも、クレームや抗議などを武器にする人々にとって“より良い世界”を作る一つのやり方なのでしょうが、以外とそういったエッジのある表現やエンターテインメントを消費する事によって、人々は日々つのらせているフラストレーションやストレスを解消しているのもまた一つの事実だと言えるのです。

結果的に見れば、前述した彼ら彼女らの目指す世界にとっても、そういったものを排除し続ける事はマイナスになる可能性もあります。人々がフラストレーションやストレスを抱え過ぎて有効に解消する方法が見つからない場合、最も簡単な解消法として、他人を攻撃するという形をとって社会に向けられる事になるからです。

もちろん過激なだけの番組を作ればいいというような話でもありません、むしろ逆に面白みのある表現を作る作家や表現者にも、かなりの責任が問われるべきだとも思います。そういった物が悪い結果をもたらした場合、批判も含めて受け止めなければいけない訳ですから。

日本においては、人々の心理に潜むサイレントディザイヤーともいうべき欲求を、投影させて昇華させていくべき装置であるスポーツ、芸術を含むエンターテインメント全般が欧米に比べるとあまり成熟していかないと感じますし、本物の“面白み”を提供してくれているのは、かなり数少ない方しかいないように思います。

“優れた芸術とは、人々の心の凍てついた海を打ち砕く斧でなければならない”

というフランツ・カフカさんの言葉が身にしみて分かります。
しかしお金をたくさん稼ぎたいと思う事と、自分の精神性をより高めていきたいと思う事のバランスを取るってなかなか難しい事なんでしょうね。

あまりいませんよね、どっちもグレイトな人って。
自分は“これはこうだ!”と決めつけてしまう人は結構苦手です。

そもそも決めつけてしまえる事なんて、弁証法的見地からみてもかなり怪しい事ですよね。

自分が思うには、“これはこうだ!”と思いつく事があったら(まあ結構あるんですが、そしてついつい他人にもそれを分かって欲しいという気持ちにもなるんですね)まずはちょっとクールダウンさせて、“それはそうじゃないよ”という方向から全力で崩しにかかってみるといいのではという事です。そうすると必ず曖昧な仮説部分や穴が見つかるので、今度は元に戻ってその穴を埋めにかかる、そしてまた崩しにかかる、そういった繰り返しの果てにようやく、他人が真剣に耳を傾ける価値のある、強度の強いアイデアに辿り着くのではないだろうかと思っています。

嫌ですよね、すぐ物事を決めつけて押し付けたがる人って。