職人かたぎ譚。
昔気質の職人を知っている人なら、読みながら思わず涙がにじんでくるだろう。
中野孝次がこれらの作品を書いた約二十年ほど前には、すでに腕の良い職人
たちが高齢化し始めていた。昔ながらの日本建築は廃れ、ごく稀に注文が
入るとあちこちに散らばってしまった職人さんを呼び集めることから苦労
が始まる。このあたりは、三谷幸喜の映画「みんなのいえ」にも面白おかしく
登場する。
娘夫婦に新居を建てるため、棟梁ははりきって昔の仲間を集める。それが
揃いも揃って老人。「おお、おめえ、まだ生きてたか」みたいな。
私はこうした集まりを密かに「ジェラシック・パーク」と呼んでいるが、
一度はよみがえったかに見える老職人チームも、悲しいかな跡を継ぐものが
いないのだから、恐竜のように結局は絶滅を免れないのだ。
本にも幾度となく書かれているとおり、何千年もの歴史を持つ日本建築は、
日本の風土と日本人に最も適した様式であり、腕の良い大工の建てたものは
百年でも千年でも持つ。今式のなんとかホームみたいな家が、初めは見てくれ
はいいが二十年もしたらボロボロなのとは大違いである。そういう違いを
知る人がいなくなってきたのも、悲しい現実である。
後継者不足をなんとかしよう、という気持ちはわかる。しかし、職人という
ものは本人の努力も大変だが家族の苦労も並大抵ではない。女房は例外なく
苦労してるし、子供だって平凡なサラリーマン家庭の子がしないような苦労
を経験する。それがあなたに出来るのか?出来ないなら、それはいわば
「CO2削減して環境を改善しよう」とか呼びかけながらフォードのデカイ
ピックアップ・トラックに乗ったり子供の送り迎えにデカいミニバンを運転
するようなもので、お門違いだ。
大体この著者だって、棟梁の息子に生まれながら親父の跡を継がず、学者に
なっちまったのだから、何をかいわんやである。ま、でもこの人は老いてから、
失われゆく職人芸を惜しみこうした本を書いたのであるから、これはこれで
親孝行になっているのかもしれない。
急速に変化する日本文化へ警鐘を鳴らした中野孝次も、鬼籍へ入ってしまった。
光るカンナ屑の美しさを知っているのは、私の世代が最後なのかもしれない。