パラドックス | にぼしブログ

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心とまる出来事を ブログに
書き留めてます^ ^;
あなたの心にも 響けば
うれしいです

いい 一日を‼︎

最近 自分を、含め

思うんです




「正しさ」は 

それを 相手に 強要した時

「誤り」に なる。  と


そんな 両刃的パラドックスが

「正しい」という 中には 潜んでる


でも 「正しい」と云うことに

自分が酔いしれてて


相手を 傷つけてることに

余りにも 無頓着に なっている


円錐形の三角を 

下から眺めて

「ほら 丸でしょ 

   だって 私は 正しい位置に 立っていて

   正しく見てるから」


相手が どんなに 三角だと 言っても

相手の立ち位置が 間違ってるから

なぜなら 私は 正しいところにいて

相手は そこに いないから 

見えてないんだよと


でも それは 


どちらもが 見方が 狭いというか

限定的で


本当は 円錐形の三角


もっと 違う視点で とらえないと

本当の姿は 見えなくて


そこに 立つと

丸 も 三角も

ある意味正解


ただ 「自分が正しい」で


攻撃すると  

その時点で

「正しく」ない 行いを してしまう



いつも ひと 呼吸



自分が見ている世界は

自分だけの 見方(世界観)で


もっともっと 高みから見れば

それも ただの 一部


だから 出来れば

色んな 見方が あるよね

って どこかで

分かっていて


何かに 気づいたり

お互いに 違う経験をするための

あえての 違いに 過ぎないよね

って 


心のどこかで

自分が 誰の心をも 傷つけないように

誰からも 自分の心が 傷付かない ように

アンカーのように

持っておきたいなぁ



若気の至りで放った 主張や怒りを

思い出しては

少し 恥じ入るのです


結局 振るった 両刃の剣も

傷つけただろうけど

相手や世界を 思いやっての

愛が原動力


相手から やってきた

押さえ付けるような

非難するような 叱責も

本人は 救いたい 導きたい という

愛だったのかも

しれない


やり方が 不味かった

やり方を 知らなかった だけ


だから その 根本にあった

想いだけ を ありがたく 汲みとって


起こしたこと

起きたことは

流して

先に 進むしかない


それが 赦し 

という ものかなぁ と


そして 究極

それを 学ぶための 

この 経験 なのかなぁ と



だいじょうぶ


だいじょうぶ






なにが起きても

紐解いて 流す


ただ それを やるだけ