公立中学を選ばずに私立中学を選んだ意味については以下に書きました。

我が家は娘が中学受験が終わった頃から、「大学は国公立ね(ただし、レベルやエリアは不問)」と言ってきました。だから「全教科手を抜くな」と。

 

その上、ふざけて(いや、半分本気で)私立大学に進学させる(+浪人させる)お金はないからね(正確に言うとお金がないのではなく、払いたくない)と脅迫してきたわけですが、実はそれだけが理由ではありません。ある意味、やなせたかしさんの名作、『ルルン=ナンダーの星』のように、娘に自力で飛びだてる強くたくましい羽を授けて幸せになってほしいという強い気持ちがあったからです。

 

私が思う、国公立進学の圧倒的メリットは、その入試制度にもあります。

  1. 入試科目数が多い
  2. 入学に至るルートがシンプルで、私立に比べるとまだ公平
入試科目数が多いということは、学生にとっては大変ですが、高等学校での学習を幅広く受験科目として真剣に向き合って習得することには大きな意味があると思っています。教科を絞ってがむしゃらな努力をするだけでなく、効率的にマルチタスクをこなしていく能力は、社会においても大いに役に立ちます。しかも、その評価が学校によって基準がばらばらな評定などではなく、共通テストという一発勝負というフェアネス。
 
逆に言うと、入試科目数が少なくなれば、本来高校で学ぶべきことから手を抜くようになってしまい、授業をサボったり、ギリギリ赤点取らないようにするだけで終わってしまいます。そうなると、本来持つべき文理を超えた豊かな知識や教養が得られえず、将来の大きな機会損失につながりかねません。無駄なことを学ぶことに意味がある時期なのに、もったいないです。
 
「じゃあ、学校の勉強を頑張って評定平均取って推薦でもいいじゃん?」という言説もあるかと思うのですが、それには全く同意できません・・・。学校の偏差値帯によって、あるいは、教師と生徒の相性で、いかようにも操作可能な評定平均なんてものが、まかり通っているのが理解不能です。何のための「共通」テストなのか? どこにフェアネスがあるのか?
 
子どもが望むものを全て叶えてやるのが愛情だとは思いません。
「おもちゃを買ってほしい」と思っても、誕生日やクリスマスまで待つとか、お小遣いやお年玉の範囲でやり繰りする、あるいはどうしても必要だから親を説得するという経験は、とても大事なことだと考えます。違う考えのご家庭があっても、それは「他所は他所」。
 
「国立縛りなんてかわいそう」と思われることもあるのですが、それが娘に与えられる愛情の一つでもあると思ってます。
ただ、本人が「浪人はメンタルを保てる気がしない」と恐れているし、当日の体調不良などもありうるので、実際には、「私立は絶対NG」とは言えないかもしれません、言いたい気持ちはあるけれど。とりあえず、国公立を目指してフェアな勝負で戦い、頑張ることはして欲しいと思ってます。
 
そうは言いつつ、「大学に進学することが全てではない」とも思っていますし、仮に大学進学が上手くいかなかったからといって、中高一貫で私学に通ったことが無駄だったとも思いません。承認欲求や高い自己評価に囚われて他責的な人間にさえならなければ、人生にはいろいろな道が繋がっていくはずだと思うし、娘は中高を通じてそういう教育を受けてきたと思います。謙虚に、誰かに感謝され、何らかの社会貢献をしていく中で、きっと幸せは見つけられるでしょう。
 
そして、娘のサポートの在り方も、信じて祈ることしかできないと思ってます。かまいすぎることなく、つまり物理的サポートはせずに、私は私の仕事を粛々とすることで、娘はまた強くなれるのではないかと思います。