高学歴難民 (講談社現代新書)

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正直、講談社という大きな出版社の現代新書として扱うには、誤字も見つけちゃったし、内容がライトな気がします。「難民」というワードの使い方も、どうなんだろう? ただ単に、高学歴なのに拗らせた人の事例集として、複数の人生サンプルを知るための本と割り切れば、それなりに面白いのかな。法科大学院を出たところで司法試験に受からないとか、海外留学から帰ってきたところで結局イマイチ低収入…なんていう事例は、決して極端で少数なものではなく、ちょっと探せば、意外と身近に転がっているものです。

 

それなりの教育投資の結果である高学歴は、必ずしも人生の幸福を約束するものではない。

にもかかわらず、学歴コンプレックスなのか、親の愛(≒甘やかし)なのか、家庭内の財政事情を無視して、教育投資は惜しまないという御家庭が結構あるようで。良かれと思って投資した結果が、不幸を招くなんて辛すぎます。

 

どうも、この本で出てきた所謂「高学歴難民」の方々は、人からどう思われているかに敏感でプライドが高い。

まさに、自己肯定感が低いのに自己愛が強く、承認欲求の塊。

自己肯定感と自己愛 | 「めざせ!中学受験!」からの「めざせ!大学受験!?」 (ameblo.jp)

 

幼稚園、小学校、中学校、高校・・・・と、それぞれのステージで先生方に好かれ、優秀とされてきた子どもたちが、それぞれのステージをクリアしたその後、どういう末路をたどっていくのかについて、きちんと研究している機関ってあるのかなぁ? 各ステージにおける先生方の教育の成果は、次の進学先の難易度の高低なんかではなく、将来子どもたちが大人になったときの本人の幸福度や、社会的影響力、年収などまで、トータルで責任を持つべきなんじゃないだろうか。先生の言うことをきちんと聞いていた「まじめな良い子」「負けず嫌いで頑張る子」は、今、幸せに過ごしているのかな~? 先生の指導は、本当に子どもたちを幸せに導くことができたのか? その振り返りもせず、ひたすら新しい学年を担当して、不幸を量産するのは、間違ってるよね・・・・・。

 

そもそも、学校で勉強するのが得意な子が、社会で仕事をするのが得意なわけではない。

個人プレーは得意でもチームプレーが苦手で、自己愛と承認欲求が強めな人は、いつまでも資格や学歴や見栄えにこだわってしまい、ますます貧窮し、社会から孤立してしまうのかもしれません。でも、そんな価値観を作ってしまったのは誰? 親や先生の影響って結構あるんじゃないかな?

 

特に、新興の進学校や、塾予備校などは、「とにかく煌びやかな進学先」をKey Performance Indicatorとして、志願者を増やし、偏差値・評価を上げていこうとするのでしょうが、それに踊らされてはいけないと思います。せめて、学校や家庭では、「自分自身が幸福に感じることができて、かつ、人のために貢献できる役割」をじっくり見つけ、それを叶えるために見守る場でなくてはいけないと思いました。誰かに羨ましく思われることが、自分の幸せではないのです。

 

こちらもぜひ。人生後半の戦略書 | 「めざせ!中学受験!」からの「めざせ!大学受験!?」 (ameblo.jp)