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"Food for Thought"

日々考えていることを、自分の思考をまとめるためにも書きつづっています。

日本の経営者が「コーポレート・ガバナンス」という単語を聞くと、「内部統制・コンプライアンス」と考えるらしい。しかし、欧米で「コーポレート・ガバナンス」と言えば、「経営者それ自身を監督する仕組み」であって、企業の中のマネジメントを指しているわけではない。この辺の認識が大きく違う、と、ある人から聞いた。

また、リーマン・ショック後、日本企業では、「やはり欧米流ガバナンスはダメだ。日本流のやり方がいいんだ」という風潮だが、欧米企業では、「残念ながら、まだ我々のガバナンス体制は発展途上。更に改善が必要だ」と考えているとも聞いた。

別に、欧米を礼賛しているわけではない。ただ、ものごとの考え方が違うということである。

株式市場のひとつの原則として、「Comply or Explain原則」というものがある。「グローバルなスタンダードに従って(Comply)運営してください。でも、もし御社が違う立場をとっているなら説明してください(Explain)。それに納得できれば投資します。」というものである。ここでいう「グローバル・スタンダード」とは、やはりアングロ・サクソン・モデル。「如何に日本流がいいんだ!」と騒いだところで、日本の株式市場は外国人投資家の資金がなければ上昇しない。お金が入ってこなければ、国の経済は発展しようがない。そして、その外国人投資家の5割が米国、2~3割が英国、つまり7割がアングロ・サクソンである。どんなにもがいても、彼らに「Comply or Explain」できなければ日本にお金は入ってこない。

東証の売買高も1日に1兆円に満たない日が多くなった。現在の株価低迷は、BRICsや新興諸国と比較されて、欧米からの資金が日本に入ってこないためでもある。経済が活性化するということは、海外からお金が入ってくるということ。そのためには、アングロ・サクソンのモデルは云々という前に、彼らの思考法はどうなのかをシッカリと理解し、それに対して「我々の考え」はどうなのかを説明できるようになっていなくてはならない。

好き嫌いを別にして、まずは世界の考え方に耳を澄ますことである。反論があれば、その後に。
人(といわず動物)には、2つの目、2つの耳、2つの鼻(の穴))がある。3Dにせよ、ステレオ・サウンドにせよ、2つの入力部分があるから立体的に体感できるわけである。

一方、NHK「サイエンス・ゼロ」で放映していたが、神経が五感のなかで最も集中しているのは「嗅覚」なのだそうだ。食べ物のありかや異性の存在などを、いち早く敏感に感じとるためらしい。電車などで、異臭がしたときは、匂いの方向がわかるが、これも2つの鼻の穴によって、立体的に場所を検知からであろう。

目・耳・鼻といった「入力」の部分は2つあるのに、もうひとつの「口」は1つしかない。

もともとは、食べ物のありかを、視覚・聴覚・嗅覚を総動員して捕らえ、口に入れるというのが「生物学」的な構造だそうだ。ただ、「口で話す」(=出力する)ということを考えると、とても象徴的だ。

情報の入力は、ひとつに偏ることなく立体的に捉え、発信は「二枚舌」とならないよう1つに絞るということを物語っているようである。一方の意見だけを聞いて物事を決めるのではなく、複数の意見を聞き、言を左右にしない。「動物学的(?)」な形からしても、こうしたことが重要だということかもしれない。

常に複数の意見を聞くこと。発言は常に一貫していること。難しいことだが、心がけたい。少なくとも、「あそこの場では、ああ言った(何も言わなかった)が、本当は俺はこうなんだ」ということがないように・・・。





少し前に、ア○ダビの電力入札で、日本連合が韓国連合に負けたと報じられた。政府の動きが弱い、ファイナンスが手薄だ、韓国は大統領が動いた、などなど、色々と報道されている。そして、(サッカーの「ドーハの悲劇」ではないが)これを反省材料に、世界のインフラ需要を「オール・ジャパン!」で取ると新聞等で報道されている。

私が聞いた内容は少し違う・・・。

ア○ダビ電力庁に韓国から乗り込んだのは、ほんの数人。しかも若い一人の韓国人が、英語で全てのプリゼンを行ったそうである。彼が、韓国の政府・企業群を代表して語り、質疑にも即答で答え、ア○ダビ電力庁からの要望を受けて韓国グループをとりまとめたのだそうである。

もう一方の日本連合・・・(とやら)。

著名な企業の代表者(会長・社長などだが多くはご高齢の方)が集まり、役所が「まず、△△社より、※※についての説明をさせていただきます」と通訳を交えて語る。一通り終わると、「では、続きまして、○○社より、××についてご報告申し上げます」とまた通訳を介す。質疑応答となっても、誰が責任者かわからず、「では持ち帰りまして・・・」と、持ち帰ってもなかなか返事が来ない。

これでは、発注するほうも、「(日本の技術のレベルが高いのはわかるが・・・)本当にきちんとやってもらえるのか・・・」と心配になったというのである。責任者が責任を持ってまとめるところと、「オール・○○」と言いながら、それぞれの企業が単に寄り集まってるだけのところと、どちらが発注者にとって安心できるのだろう。如何に個々の技術が優れていても、システムは全体で動かなければ意味がないのである。

以上は、ある投資家から聞いた話である。これが本当かどうか定かではない。しかし、大いにありそうな話と思う。「オール・ジャパン」と言いながら、真摯に日の丸を背負って、(W杯の岡田監督のように)「一人で」全責任を全うしようという輩はいるのであろうか。新聞報道では、日本連合で、これから世界のインフラ需要を取り込むとある。民○党ひとつ取りまとめられないのに、そのようなことが本当に可能なのか、これからジッと見ていきたい。
「個」と「全体」について書き綴ったが、こうした2つの相反するものをどう捕らえるか。

仕事をしていても、2つの相反する事象から選択を迫られることがある。こっちを立てれば、あっちが立たずという状態で、シーソーのように片方が浮かべば、片方が沈むというものである。「トレード・オフ」ということになるのだが、このときにどう判断するのかが難しい。もし、片方の利が圧倒的に勝っているのであれば、誰でもそちらを選べるが、どちらも捨てがたいときが判断のしどころである。

責任あるポジションにある場合、この決断を行わなければならない。何故なら、そのためにこそ、そこにいるからである。すべての事柄が、「右・左」とハッキリ決められるようなものであれば、誰も上位者を必要としない。

個人的には、シーソーに見立てて、その「要(かなめ)」を見るようにしている。中心となる要は何かと考え、バランスを量りながら判断をするということである。ただ、時間をかけて考え抜いても、結局、最後は「直観」で決めてしまうことが多い(なぜそうするかは、別の項で書き留めたい)。

もうひとつの捕らえ方として、故・大平正芳氏の「楕円の思考」がある。

「行政には楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちながら緊張した関係にある場合、その行政は立派といえる。(中略)統制が一つの中心、他の中心は自由というもので、統制と自由が緊張した均衡関係にある場合、はじめて統制はうまくいく。その何れにも偏ってはいけない。」

楕円のように2つの中心を据えて、少し引いて見て、全体的にきれいな楕円が描けるかどうかで考えるというものであろう。故・大平首相の編み出した独特の思考方法らしいが、これなども参考になる。

「少し引いて見る」というのを「メタ認知」と言うのだそうである。いまの立場を少し離れた所から眺めるようにして、自分の行動を処するというものである。頭のよい人とは、「メタ認知」のできる人とも言われるが、一方の立場を主張し、カッカとしているときには、なかなか難しいことだ・・・。
「龍馬伝」がヒットしている。テレビで放映し、最も視聴率が稼げるのは「織田信長」。続いて「坂本龍馬」なのだそうである。いずれも、日本を大きく変革したヒーローといえる。閉塞感のただよう現代の日本に、いまこそ現れて欲しい人物ということになるのであろう。

織田信長と坂本龍馬、この二人に共通していたものは何か。それは、「日本」という概念をもったことであろう。信長は、「天下布武」を旗頭に、日本の統一を図ろうとした。一方、龍馬は、それまでの幕藩体制を否定して、日本をひとつの国とするよう奔走した。信長は、オランダ・ポルトガルといった国が、日本の銀・銅に目をつけていることを熟知しており、一方の龍馬も世界の帝国主義の動きを知っていた。「おらが藩」という概念を飛び越え、「世界における日本」を視座に持っていたと言える。

藩という「部分最適」を超えて、日本という「全体最適」を志向したということである。

戦国時代、あるいは幕藩体制化では、それぞれの領土・藩を中心に考え、広く「日本」ということを考えることはなかったであろう。日本人は、この上位概念を打ち出すのに弱く、往々にして、このような概念を打ち出した者は悲惨な結果を迎えることとなる。

太平洋戦争時代の海軍・陸軍のように、「日本」としてどう勝つかよりも、海軍が勝つか陸軍が勝つかで内輪もめをし、結果的に全体で負けてしまうというのは、現在の日本も同様といえるのではないか。

現代の日本企業そのものにおいても、成果主義の名のもとに、個人や自部門のことだけに拘泥し、その企業全体をどうするかという考えが希薄になったと感じる。

話は変わるが、Jリーグでは、浦和や鹿島などのサポーターがそれぞれのチームを応援し、それぞれが力を競い合う。しかし、ワールドカップでほかの国と戦うとき、そこには浦和も鹿島もない。浦和や鹿島という「部分」を超え、「日本」という「全体」がそこにあるからである。

「部分最適」を図ることによる視野狭窄が現在の日本を閉塞している。これを乗り越えるのは、「全体最適」を支える上位概念である。Jリーグではなく、ワールドカップでの「日本」チーム。薩摩・長州ではなく、「日本」という概念。「わが部」「わが社」ではなく、「日本の企業」。更には、「世界」であったり、「地球」であったりするのかもしれないが、これらが全体をとりまとめる。

アフガニスタン、イラン、イラク。これらと米国が如何に反目していようと、もし宇宙人が地球を攻めてきたら、もはやアフガンもイランもイラクも米国もなくなる。そのときは、「地球人」として戦うのであろう。部分最適を排除する上位の概念をどう形成するかが重要なことである。

と、こんなことを偉そうに書いていれば、悲惨な結末を招くのかもしれないが・・・。
「従業員は従業員らしく、経営者は経営者らしく、株主は株主らしく、一人ひとりがその役割をしっかり果たすことが重要」と「競争の作法」(斎藤誠 著)にある。

従業員は、その給与以上の付加価値を創出し、経営者は資本コスト以上のリターンを実現し、株主はそれをしっかり監視する。そうした当たり前のことがないがしろにされながら、政府や日銀の責任を問い、国にその成長戦略を期待するのはおかしいという主張である。

「全くそのとおり!」としか言いようがない。いつから、我々はお上に頼るばかりの種族に成り下がったのであろうか。不況となれば公共事業、それが既得権化して更なる公共投資。親が子供を甘やかせてダメにしてしまうように、国家が国民を甘やかせてダメにしてしまったのではないか。

新聞などの論評では、政府が成長戦略を描くべきとある。しかし、経済活動の主担当は民間企業であり、その経営者たるべきである。国・政府は、民間企業が思い切り力を出せるよう、側面支援・規制緩和を行えばよい。

IR(Investor Relations)の世界にいれば誰でもわかることだが、海外の投資家たちは、「日本株チーム」を解散・縮小し、日本企業を「アジア・ファンド」「グローバル・ファンド」のなかの「One of them」として運用している。かつてのように、日本の業界内・企業間での比較ではなく、投資対象として比較考量されるのは、欧米のみならず中国やインドの企業なのである。国がどこであろうが、「個社」の魅力が問われる時代、なぜ国にそれほどまで頼ろうとするのか。為替の問題などあろうが、為替などは国際経営をする上での与件であり、いまさら円高になって騒ぎ立てるのは経営をしていない証左といえる。

アパレル業界でレナウンが中国企業に買収されようが、ユニクロは個社としてグローバルな動きを加速させている。日経平均が9000円すれすれと言っても、きちんと株価を上げている企業もいる。

お上に頼るから、頼られたほうは何かをせざるを得ず、無駄な支出が増え、規制が増える。そんなことを考えるより、自らの企業、あるいは自ら自身を丹念に磨き上げることに専念するほうが、余程世間は良くなる。
「i文庫」を購入した。450円きりで、内蔵されている本が151冊、更に8000冊がダウンロードできる。学生時代に読んだような名著が主体だが、この価格には驚かされた。151冊だけでも文庫本で揃えれば、数万円の支出と相当のスペースを要するだろう。

日本のGDP云々という議論が盛んだが、これが生活実態を反映しているのか疑問に思う。

・本は好きだが、新刊本以外、最近は図書館を利用することが多い。自宅のネットで検索・予約をすれば、メールで到着を教えてくれ、手間がかからない。しかも、無料。本そのものを読む時間は増えたが、支出はぐっと抑えられている(もっと早く、上のようなネット書籍のことを知っていれば、更に支出を抑えて読むことが可能であった)。

・飲み会も、大人数で行くときには、「飲み放題プラン」。いくら飲んでも一定の上限を超えることはない。よって、かつて以上に飲んでも、支出が増えるわけではない。

・このネットの料金も「定額制」。かつてのように使う量に応じて課金されるわけではない。

・車の買い替えがついに「10年」になったらしいが、自分の車も使い始めて10年になった。自動車の品質が向上し、故障しない。そもそも都内では、車自体なくともやっていけ、買い換える時期が更に遠のきつつある。

・地デジ対応でテレビとDVDを買い換えたが、家電も故障がないので、以前からものを使い続けている。といって、生活にすごい不便が生じているわけではない。

・時刻表が簡単にネットで手に入り、バスナビでバスがどこにいるかがもリアルタイムでわかる。以前は、乗り物待ちで、駅の喫茶店などで時間をつぶしたが、そういった機会は限りなく減った(つまりコーヒー代が減った)。

別に倹約を生業としているわけではないが、図書館やブックオフ、定額制、ネットなどをうまく活用すると、生活での固定費を下げられる。その上、「モノ」は品質管理が進んだおかげで故障がなく、「持ち」もよい。これらを考えると、GDPに直結する個人消費(家計支出)に関わる部分は伸びようがない。マクロの個人消費が伸びなくても、個々の「自分の」生活が大変になったわけではないのである。

かつてと異なり、一人ひとりが効率的に賢く生活し始め、全体の数値が伸びないという「誤謬」が生じているのではないか。