抽象の起源1/3 〜アントニ・タピエス 哲学命題作品群にむけて | TetsuYa ガンプラ(GANSTA投稿)/独学3ヶ月入選 抽象画家

TetsuYa ガンプラ(GANSTA投稿)/独学3ヶ月入選 抽象画家

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ほぼコピペですが、誰も読まないでしょ笑(一部省略や変更してますが)


抽象って、そんな感じです。


分かりやすく言えば味変ですね。当時で言えば、戦争のような宗教的概念も必要なのかも知れないですが…今は現代なのに☝️


要は、伝統や懐古主義に飽きないってわけで。取り憑かれたまま。


いつまでもオードリーヘップバーンやニューガンダムが1番だって言っているわけです。(よくもまぁ飽きないわw)


桜が綺麗で当たり前でしょう🌸だからって言って、植え過ぎでしょうw


僕は、人工的に植えた桜など、作られた不自然など、どうでもよいです。雲を見てる方が好き。







美術館にあった絵画.ⅩⅩⅧは、画像で無かったのですが、僕が初めて美術館に展示したビエンナーレ審査員の池田良二さんが、検索候補に上がってくるって言うことなので、まぁそういうことですね…。




したがって、ただひとつの「正常な」もしくは真実の描写などというものはない。


 歴史家のアロイス・リーグルが言ったように「各様式にはそれぞれ独自の自然観がある」ので、これはつまるところ、各時代は異なった「見方」をするということである。異なった見方というのは唐突に現れる訳ではない。各時代には支配的様式として確立されるにいたったいくつかの約束ごとがある。




(こんな書き方する↑小説って、わざと難しく書いたり、難しい漢字使ったりして、文字遊びみたいにして、すげー時間の無駄つうか、文字の無駄っていうか、いやそれが単に難しく見せかけてるだけで、たいした内容じゃない。白黒はっきりつけたら、単に無色透明って言うようなものがほとんどで。最初から最後まで、何度も何度も読む様な小説が、今ありますか?読み終えたら、ただのゴミですよ)



 

 そこに、その約束ごとを打ち破る芸術家が登場して新しい規範を作り上げて行き、それがやがて伝統として確立されることになる。


 しかし、そのような芸術家といえども、無から出発するのではない。哲学的あるいは宗教的理念や社会構造の変化に、いかに間接的であれ、影響を受ける。たとえば、「クワトロチェント(15世紀)」のイリュージョニズムの成果を語る時、ブルジョワ階級の出現に触れずにいることはできない。商業活動を肯定的にとらえる彼らの思考法が刺激となって科学的精神が発達したのである。同様に、宗教改革がカトリック教会に与えた論理的傷痕を考慮に入れずしてミケランジェロの深い苦悩や神秘主義を考察することはできない。


したがって、様式の変化はすべて、その時代の関心、価値、概念などの変化を前提とする。


現代美術の興について考える時、最も核心に関わるものは、根本的重要性を持っていたことは紛れもない。17世紀以降は究極的権威とみなされてきたが、19世紀の頃にはその規則や指針の体系は抑圧的とも言い得るものになっていた。中でも最重要とされた指針は、理想化された人体を描くこと、崇高で高尚な「物語」を表すこと、および他より線を優位とすることである。

 

 しかし、初めは人文主義的理想であった。そして、芸術上の基準としては、賦課というよりむしろ刺激であったのが、次第に時代遅れの紋切り型となり、不充分で陳腐な決まり文句の寄せ集めとなった。

 19世紀の芸術家の中でも最も飽くことを知らない、探究心に富んだ精神の持主たちがこれらの指針に影響されまいとして、興味深いことに、クワトロチェントの経験論的世界観をいくらか取り戻そうとしたのも、したがって、意外とするにはあたらない。コンスタブルやクールべや印象派の画家たちの業績の基本にあったのは「無垢の凝視」である。


 とは言うものの、凝視が現実には無垢であり得ない以上、彼らの仕事が当時公認の指針と衝突することは避けられなかった。コンスタブルーある意味で近代風景画の祖と言うべき画家は草地を緑で描いたというので厳しく批判された。もちろん、誰でも草地は緑だと知っていたが、風景画の慣例で前景には(木や草地であっても)灰色や焦げ茶を用い、背景は奥行きを出すために銀青色で諸調をつけることを定められていた。これに類したことが印象派にも起った。


 印象派の画家たちは線描を軽視した。これは画家自身が充分承知していたというだけでなく、色が明るいということについても咎められた。批評家はこの明るさを行き過ぎだと考えたのである。しかし現代人の眼には、印象派の輝かしい色彩に比べて、それ以前の時代の絵画は暗すぎるように見える。


慣例の決まり文句の代りに真実性や視覚的「誠実さ」を求めるそれはとりもなおさず、アカデミーの論理と道義観に対置するべき論理的真実を求める気持であるにうながされた。


19世紀の芸術家は古典様式以外の様式に目を向け、自分たちの理念の支えとなるるのを探した。こうして、民族美術、中世美術、なかんずく原始美術の見直しが始まった。


原始美術は大半の現代画家に実に大きな影響を与えている。ゴーギャン、ピカン、ドイツ表現主義、シュールレアリスト、アメリカの抽象表現主義と、その例は枚挙にいとまがない。もちろん、原始美術と現代美術の間には大きな違いがある。


原始美術にあっては集団的信仰や楽欲からなる確固たる世界に属しているものが、現代美術では形想に対する自由で実験的な態度に基づいた個人的表現となっていることは、メイヤー・シャピロがいみじくも指摘したとおりである。


さらにつけ加えるなら、近代精神に見る妥協を許さぬ主観主義はフランス革命とロマン主義者の批判精神がもたらした自由の結果である。ロマン主義者は、現状肯定的で物質的な価値観が精神的価値観より優勢な時代に、すでに時代と深く対立していた。


 芸術家や知識人の間の、現状に対するこの不満は、近代世界を形づくるアバンギャルドと位置づける画家たちの特徴である新しい禁欲的誇りを生み出すこととなった。


しかし、こういう誇りは、一般大衆に関する限り、無理解と疎外にあうことを免れなかった。


 やがて、この状況を打開すべく、バウハウスやロシア構成主義などのユートピア的実験が試みられることになる。しかし、今世紀50年代以降は、美術教育の向上、多くの美術館による作品の購入、美術市場の空前の活況などにより、現代美術は、少なくとも先進諸国では、広く受け入れられるにいたった。




日本は知らんけどねw 誰も興味ないでしょ?美術館は観光客ばかりですし。


  抽象美術


19世紀末頃に美術をめぐる状況が変り、画家は次第に慣例的主題から解放されていったが、だからと言って、描写とか表現というお馴染みの古い概念を根本的に新しい視点から取り上げる試みが絶えてしまった訳ではない。この試みは、一見、還的手法であり、外界との関連を確認できる要素をすべて排除


たとえば、モンドリアンの樹の連作の場合のように、もはや 描かれた記号群は見る側に何ごとも伝え得ないと思われるところまで行きついたかのようだ。


確かにこの還主義は歴然としている。しかし、造形言語の基本要素である彩、線、ヴォリュームを「再活性」しようとする努力も同時に行われていることを見落としてはならない。20世紀初頭のアヴァンギャルドの画家たちは、伝統美術のイリュージョニズムの中に絵画自体とは本来無縁の動機や欺瞞(ぎまん)を見てとり、嫌悪を覚えたのである。

  しかし彼らは、自分たちには独自の絵画構造を発明する才があり、ある意味で音楽作品にも比すべき「無主題」の作品を創り出す力があるという絶大な自を持っていた。アポリネールは早くも1908年に、絵画の純粋性、自己充足性について語りつづけていた。アポリネールの考えは、テオ・ファン・ドゥースブルフが1930年に述べた次の言葉に要約されていると言ってよいであろう。「絵画は造形的要素、すなわち平面と色だけで構成しなければならない。造形的要素は造形的要素としての意味しか持たず、したがって絵画は絵画以外の何ものをも意味しない。」

しかし、この種の理由づけは本質上、為にする論議であるし、またいかなる宣言(マニフエスト)であれ仮にも迫力を持たせようとすれば旗職(きし)を鮮明にしなければならないことは周知のとおりである。抽象美術の世界は、実際には、単なる形、色、テクスチュアの組み合わせと言う以上にはるかに奥が深い。

 たとえ、ありきたりの物を描写する領域での実験とされる時 キュビスムの場合に論じられるようにでも、そこに見られる歪曲は新しい世界観に呼応しており、表れた結果は次第に我々自身の世界観に影響を及ぼすようになる。


ピカソとブラックが実践したキュビスムは、畢するに、対象をまず多的な平面に解体したのち、直接観察によらない理念にしたがって、手びひとつにするという、モチーフとの永遠の闘いである。分析的キュビスムでは、テーブルや椅子やギターはもはやルネサンス美術の特徴である明晰さを持っていない。代りに、テクスチュアと暗示からなる新しい物質的統一性を具えている(この新しい統一性は香水の香りのようなものだと言ったのはここで言う暗示の要素による)。


キュビスムが美術に果たした最も価値ある貢献は還主義とは何ら関係がなく、それとは逆に、創り出された現実の諸相、すなわち、テクスチュアや輪郭線に基づいた呼称から「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」やコラージュの手法を含む細部にいたる諸相の間の緊張関係にある。これは言うなれば、新しい写実主義、多様な形式上の解決を手法とする写実主義であり、これらの解決がやがて20世紀美術のさまざまな描写を生んだ。




↑まぁまぁ長たらしく書いてますが、宗教や印象派な線や作品物語を、そういうのを抽象にも、一撃で分かるように出来たらって、構想な話なわけなんすが、そこに芸術がなければならないのは必然。たまには、全面マチエールの様な力を借りる時が来たのかなあと思ってる3分の1の純情な感情です。


あと、2回あるけど…また次回。


とりあえず、ガンプラしましよw