TAKの部屋 -9ページ目

TAKの部屋

ムラムラくんという、よく分からない人がよく分からないことを書くブログです。

38年。

そこそこ長い時間を生きてきた実感として、思っていることがある。それがタイトルでもある「二面性」だ。

どんな人間、たとえばそれが歴史に残る大犯罪者でも、それから俺は信じきれていないのだが、いわゆる聖人君子のような奴であっても、きっと表と裏があるものなのだと思う。

平たく言えば、大悪人だって100%すべてが悪いとこばかりではないだろうし、神や仏のような人にも欠点があるものだと思っている。

それを実証するのが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」であったり、サリンを地下鉄にばらまいた某新興宗教の教祖が若かりし頃に言ったとされる「(棚の前に置かれたちゃぶ台を『祭壇』と呼んでいたことについて)形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては。」であろう。また、その人は蚊に刺されて痒くても、蚊を殺さなかったという。それは、一寸の虫にも五分の魂、ということだったらしい。

彼は大悪人として処刑されたが、それでもこの心構えだけは正しく、同時にとても大切なことだと素直に思うのである。

そして、二面性について考えるとき、いつも自分の至らなさについて思いが及ぶのだ。

スケールは著しく異なるものの、平凡な俺なりに小さい二面性をもっているものだ。

お酒を飲みすぎてはいけない、飲まないのは無理でも減らす、と言ったその日からしこたま飲んでしまい、挙句「俺は酒で死ぬことは覚悟してる」なんてのたまう。

どれだけ嫌いな部分が目についても、結局は自分が好きになった以上、肯定的に受け止めるべきだと日々考えている。そして後輩や悩んでいる仲間にそう伝えている。にもかかわらず、たったひとつでも許せないことがあると、すぐにそれを剥き出しにしてしまう。

子供っぽい、めんどくさい。そう言われても何も反論できないほど、小さく情けない出来事を積み重ねてきたのだ。

ただ、開き直りかもしれないけれど、それはそれとして許容してあげるべきなのかもしれない、とも思っている。誰にでも、聖人君子のような人にでも、それから先程挙げた大悪人にでも、それぞれ二面性があるのだ。俺のような平々凡々な一般人にもあって当然ではないか、と。

そして、以前にも書いたことがあるかもしれないが、そんなダメな自分もせめて自分くらいは認めてあげなければならないのではないか、と思っているのである。

俺はまったく素晴らしい人間ではない。そんなことは分かりきっている。でも同時に、だいたいみんなそうなのだ。

1998年だっただろうか。B'zのボーカリストである稲葉浩志のソロシングルに「CHAIN」という曲があり、その中で彼は言っている。

『あの人も この人も 大したもんだけど大したことないや』

みんな大したものなのだ。

そして、みんなが大したものだとすれば、逆説的にみんな大したことないものなのだ。

俺は来年も大したことなく生きる。それが自分である以上、仕方のないことだ。

問題はひとつ。

自分が納得できるか否か、なのだ。

そのためにも二面性を許容すべきである。自分のそれも、他人のそれも。
3ヶ月くらい前だろうか。「ブログを書くこと」という記事を上げた。

そしてそれは、もっと前に書いた「文字を書くこと」という記事と対になるものだ、とも書いた。

それらの続編、というわけではないけれど、ちょっとこういうテーマで書いてみようと思う。

俺はいわゆる本好きとは言えないと思う。高校時代、アイルランドに留学して寮生活をしてから、本を読むこと自体は増えたけれど、決まった作家ばかり読んでいるし、同じ本を何度も読み直していることの方が多いから、世の中に数多くいる「読書家」と比べたらはるかに狭いジャンルの本しか読んでいない。

そんな俺だが、前は文字を書くことを生業としていたこともあって、本から影響を受けることは特に多かった、と(あくまで)自分では思っている。

読んだ本の数だけ、作家の数だけ、俺の文体というものは練り上げられてきたと思うのだ。

仮にも俺はプロだったわけで、丸パクリみたいなことは、少なくとも商業文書ではやっていないつもりだが、それでもそこかしこに色んな作家の影響を感じることがある。

俺が特に強く影響を受けたのは

宗田理
司馬遼太郎
笹沢左保
椎名誠
石神タカシ

の5人だと思う。

ちなみに、並び順は読み始めた順番と思ってもらっていい。

中学生の頃、夏休みの読書感想文はだいたい宗田理の「ぼくら」シリーズだった。そして、読み方という意味ではこの頃から大きく変化はしていないと思っている。

それは、登場人物の1人に自分をあてはめて、そして他の役は身近な友人知人をあてはめて、あたかも自分の世界のように読んでいたものだ。まだ演劇部に入る前のことだが、極めて演劇的に正しい読み方をしていたように思う。

司馬遼太郎も出会いは中学生の頃だったと思う。ウチは叔父や兄貴がかなり本格的に歴史学を学んでいたため、司馬遼太郎を読んで楽しむ素養は14歳にしてすでに出来上がっていた。

中学時代は主に戦国ものを、そして高校時代は幕末ものを中心に読んでいたように思う。そして、分かりやすくも大きく影響を受けたものだ。

このブログをまめに読んでいてくれる人なら分かると思うが、段落変えに俺が使う「そんなことより。」「それはそれとして。」などのブレイクは、司馬氏の小説によく出てくる「以下、余談」を俺なりに流用したものだ。

分かりやすすぎるブロック変更は、ともすれば技術性ゼロ、すなわち安易と取られるかもしれないが、司馬氏の場合は書いている本の特性上、小説と自分の感想はきちっと分ける必要があるし、元は新聞連載ということもあって読書慣れしていない人にそれを伝える必要性が強かったからゆえの手法であろう。

俺の場合は、そんな高尚なものではなく、ただ単に文章力が足りないゆえの安易な方法と取られても仕方ないのだが。

それはそれとして。←

次に笹沢左保。この人もとても独特な文体を持っていた。具体的には、「暑い日だった。街道には砂煙が舞っていた。誰もが近くの茶屋へ足を運んでいた。だが、その旅人だけは茶屋に目もくれず足を運んでいた。」のように、短い文を「た。」という語尾で繋ぐことでリズミカルな文章を形作っていた。

一文が長い、とよく言われる俺のどこが影響を受けているのか、というごもっともなご指摘もあろうかと思うが、これでも笹沢氏を意識して、かなり短く切っているのだ。

ちなみに、例に出した文章は俺が勝手に作ったもの。だが、雰囲気は伝わると思う。氏の文体は流行作家、という今ではほとんど聞かない大衆性に溢れた作家のものとしては、最上級ではないかと思っている。

椎名誠はもっとも分かりやすく影響を受けた。特に「昭和軽薄体」と呼ばれた初期の文章は、丸パクリと言われても仕方ないほどほぼそのまま流用させてもらっている。口述体、といえばいいのだろうか。文語ではなく口語的な文章は、俺のベースとも言える。

この人の文体も多くの素人に真似されたと言える。例えば「~だもんね。」という語尾や「俺」「僕」「私」といった統一性のまったくない一人称、文章のうしろにカッコ書きで補足する手法、「ビカビカ」「キラキラ」「ドスドス」といった連語的形容詞、そして今まさに使った「~的〇〇」のような言い回しは、一時期そこら中で見かけだものだ。

最後は石神タカシ。この人は文体うんぬんよりも、発想力が素晴らしかった。また、その思いつきをきちんと表現できるという意味で、文章力も非常に高かった。専門誌ライターとは思えぬほど、その文章は未だに輝きを放っていると思う。

ただ。残念ながら、今は文章力だけでメシが食える時代ではないのかもしれない。文章力が評価されるのは、読み手がある程度の読解力を持っていることが前提なのだ。今のように、Twitterなどで言葉尻だけ捉えた、一見正当に見えて実は批判自体に正当性がない炎上目的のコメントがちやほやされる時代では徒花となってしまうのかもしれない。

石神氏からもっとも受けた影響は、オチは短く簡潔に、ということである。長々だらだらとフリを書いておいて、でもオチは最後に短くだけどダイナミックに、という文章は石神氏から学んだ。文章の締め方は石神氏によって作られたと言えると思う。

え? 本の読み方が書いてないって?

違う。こうやって色んな人の文章のいいところを盗み理解し分解し再構築することで、俺は文字を書くことを生業としてきたのだ。

俺にとって本を読むこととは、文体を理解し流用するために必要不可欠な神事なのだ、ということだ。

え、分かりにくい?

ああ、そう。ごめん。
俺はお酒が好きだ。

ということは、きっと読んでくださっている皆様にはとっくの昔からご承知置きのことだと思う。

基本的には毎日飲むのだが、最近は体調の悪さゆえに一滴も口にしない日も増えてきた。昨日も書いたが、俺は酒で死ぬのは覚悟しているものの、長く付き合いたいという欲もまだあるので、往生際の悪いことに休肝日なんてものも作るようにしているのだ。

そんな俺だが、体調がどれだけ悪かろうとこんな日だけは絶対に飲む! という日が2パターンある。

それは、とてもよいことがあった日、と、とても悪いことがあった日、だ。

特に後者は飲んだくれる。

傍から見れば荒廃的と思われるだろうが、これには深い理由がある。

悲しくてやりきれないことがあった場合、俺は思想を単純化させるようにしている。

たとえば女に振られた、ならば、それでもまだその子が「好き」なのか「振られたならば諦める」なのか、という具合にだ。そこだけを考えるようにする。

もちろん、事はそう単純ではないから好きだからと言っても諸々付随してくるものもあるだろう。しかし、俺はそれを敢えて切り捨てて、もっとも根本となるところだけを考えるのだ。

そうすれば、今後俺がどうするのかが分かりやすくなるからだ。

しかし。

このブログを読んでくださっている方ならお分かりと思うが、俺は比較的物事を深く考えるタイプの人間だ。周りの友人知人に「そんなに考えなくても…」と言われるほどに。

そんなタイプの俺が単純化しようと思っても、シラフでは上手くいかない。

だが、酒を飲むとそれができる。皆さんも経験があるだろう。飲むと色んなことがめんどくさくなるではないですか。自分をよく見せるための嘘をつくとか、思ってもないけど場の空気を壊さないためにおべっかを使うとか、そういうのが煩わしくなるではないですか。

それと同じで、酔うと深く考えることを拒絶するようになるので、単純化させやすいのだ。

これは言い訳や後付ではなく、俺はそのために必ず酒を飲むようにしている。

そして、本質、根っこの部分だけを考える。

そうすれば進むべき道が見えてくる。

どれだけ悩んでも、どれだけ悲しくても、どれだけ辛くても、根っこの部分でまだ諦めたくないのならば、その気持ちに素直になって進めばいいと思うのだ。

逆に、もう諦めようと素直に思ったのであれば、それはそれで正しいのだろう。それならばまた素直に新しい道を探せばいいのだ。

誰にでも出来そうで、でもやっぱり過去の経験や未来の予測をしてしまい出来ないこと、それが思想の単純化だと思う。

俺は酒の力を借りることで、それを行える。

人生で何度酒に助けられてきたことだろう。

だから、俺の酒に女やツレはいらない。マイペースな一人酒こそが最高の飲み方なのだ。

昨日も今日も飲んだ。問題の根っこを考えた。進むべき道を決めた。それでよいのだ。

うまくいってもいかなくても、自分が選んだのだから後悔などするはずもない。

お酒よ、今夜もありがとう。