年をとっても忘れたくないこと | TAKの部屋

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ムラムラくんという、よく分からない人がよく分からないことを書くブログです。

書きたいことはたくさんある。実際に書き始めているものもあるのだけれど、時間がないこと、そしてそれ以上に考えがまとまりきらないことが影響して、下書きだけが溜まっている。

しかし、これだけは書きたいので、手短に。

戦国時代、奥州にその名を轟かせた部将(というか大名)に伊達政宗という人がいる。織田信長に遅れること33年、徳川家康にさえ25年も遅れて生まれ、初陣(1581年)は本能寺の変のわずか1年前、家督を継いだのはさらにその3年後(つまり信長逝去後)、と言えばその遅さが分かるだろうか。

この人がいかに偉大か、ということは平成が終わろうとする今でも「独眼竜」「伊達男」という異名と共に名が残っているくらいだから、説明の必要はないだろう。

政宗は確かに武人としても一流だったが、政治家としての才能の方がむしろ抜きん出ていたのではないかと思う。仙台藩62万石の藩祖、しかしその実石高は100万石にも達したと言われる。つまり、泰平の世にあって40万石近くの開墾を成し遂げたのだ。それも、徳川幕府による最大級の監視(と同時に格別とも言える温情)をかいくぐってのことだ。

また、17世紀の時点で「貿易」に強い興味を持ち、それを実現させようとしたことも、その優れた先見性を裏付ける。さらにそれを遣欧使節という形で実現させたことは、単なる夢想家ではなく実務の才能も持っていたことの証拠だ。

しかし、俺はこう思っている。政宗の最大の才能は戦争ではもちろんなく、政治ですらなく、詩にあったのではないか、と。

紹介したいのは、晩年に詠んだと言われる五言絶句「酔余口号」だ。

馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何

意味するところは

少年時代(といっても関ヶ原以前、30代中盤まで)は馬の上で過ごした(つまり戦争に明け暮れた)

しかし世の中は平和になり、自分も白髪が増えた(年をとった)

まだ私が身体を残しているということは天が生きることを許しているのだろう

ここまでは、おおよそ共通認識と言える。しかし問題は、そして俺が書きたいことの本意は、最後の五文字だ。

不楽是如何──これは二つの意味にとることができる。ひとつは「これ(余生)を楽しまずしてどうしようというのだ」という意味。「楽しまずんば是いかん」と読み下すと、こういう意味になる。平和な世の中を楽しめることが幸せだ、ということだ。

もうひとつの捉え方は「楽しまずして是をいかにせん」と読み下した場合だ。意味としては「しかし、これ(余生)を楽しめないのだがどうしたものか」となる。せっかくの余生なのに、どうしても楽しくないのだ──先ほどの受け止め方とは真逆と言っていい。

学校の教科書に載るような漢文(もどきも含む)は、ご丁寧に「レ点」やら送り仮名なんかをつけてくれているが、もちろんそれは(しっかりした理由があってのことだが)後で付け足したもの。原文にはそんなものはないのだ。

であるからして、厄介なことに正解は政宗本人にしか分からないのだ。

政宗の詩の才能は多くの学者に認められている。だから、不勉強ゆえにどちらとも捉えられるもの、つまり駄作になってしまったとは考えにくい。要するに、政宗本人が謎掛けのようなつもりでこの詩を作ったと考えるべきだろう。どちらでも好きなように受け取ってくれ、今の言葉に直すと「ダブルミーニング」な作品にしたかったのだと思うのだ。

さて、これを読んでしまった皆様はどちらに受け取っただろうか? 正解の分からないものを考えることが歴史学の面白さだと思っている俺は、こういうことこそ歴史の授業で教えてほしいと考えている。だからそれを問いたかったのだ。

繰り返すが、この問題に正解はない。政宗本人にタイムマシンで聞きに行かない限り、誰もが推測しかできない。だからどちらでも間違いとかはない。気楽に考えてみてほしい。

ちなみに、俺は「どちらでもいい」と考えている。というか、この句を読むにつけ、こうやって後世の人間が悩んでいるのを喜ぶ政宗の姿しか思い浮かばない。

伊達男、とは朝鮮出兵の際にド派手な出で立ちで現れたことから名付けられたという説がある。また、小田原参陣が遅れて秀吉に殺されるかもという時にわざわざ白装束で秀吉の元に向かったり、詰問に来た前田利家に茶の手ほどきを受けたいと千利休との面会を要求したりと、とかく普通の人がやるはずのないことを敢えて演出してきた人だけに、これもその一貫なのではないだろうか。

遊び心を晩年まで持ち続けた伊達政宗という男を俺は尊敬しているし、俺もそうでありたいと考えているのである。