『日本音楽界の雄・谷村新司さん逝く』【前編】 !! | “ Ackee ” の ブログ !! ✒ (b^-゜)

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今月最初のBlog更新、

久々に 『芸能』 関連 のBlog更新と参ろう。

先月は突然たる大物の訃報が次々と相次ぎ、

列島各地に大きな衝撃が走った。

その中で一番衝撃が多かったと言えば、

谷村新司さんの訃報、これに他成らない事だろう。


(フォークグループ 『アリス』 から大きく飛躍し、

日本の音楽シーンに大きな一石を投じた、

谷村新司さん。)


昭和の時代から フォークグループ

『アリス』 のリーダー として活躍し、

また歌手への楽曲も提供する等、

日本の音楽シーンを牽引し、

日本と中国の音楽による架け橋役として、

今日に至り活躍し続けていた。

若い時から彼の活躍を知る世代にとっては、

信じたくない事実でもあるが、

正に否定を出来ない悲しみが遂に来てしまったと言うに、

他成らない。


( 『アリス』 を結成した当時の谷村新司さん〔中央〕。

左端は、矢沢透さん。右端は、堀内孝雄さん。)




(創生期は中々ヒットに恵まれず、

泣かず飛べずの厳しい状態だった。)


谷村さんは、昭和23(1948)年に大阪府で生まれた。

しかし少年時代の谷村少年は 肥満体型だったため

「ブタ」 と渾名され傷付いていた と言う。

母親は長唄の三味線を、姉は6歳から地唄舞を、

ずっと続けていたと言う。

谷村少年自身、歌を褒められる事が多く、

歌う事自体は好きであったというが、

かといって音楽の授業が好きな訳でもなく、

特に音楽に興味があった訳ではなかったと言う。

谷村少年に転機が訪れたのは、

当時映画で 全国放映されていた 『渡り鳥シリーズ』 で、

ギターを弾く小林旭(こばやしあきら)の姿を見て一念発起。

「女性にモテたい一心で」(本人談) と、ギターを練習し始め、

やがてバンド活動も開始した。


(昭和50(1975)年に入り、

やっとヒット曲に恵まれ始め、

ラジオ等のリクエスト番組でも、

流れる様になった。)



(谷村さんが作詞作曲した 『チャンピオン』

この曲の モデルと成ったのは、

元プロボクシング東洋ミドル級王者の、

カシアス内藤氏 だった。)


これが言わば谷村さんが将来に渡って築く、

音楽人生のスタートラインだった。

昭和40(1965)年の、高校在学中に山本峯幸、

島津ちず子とピーター・ポール&マリスタイルの

フォーク・グループ 『ロックキャンディーズ』 を結成した。

当時、阪神地域では絶大な人気を誇り、

神戸のアマチュア・バンド・サークルである

「ポート・ジュビリー」 の看板グループ でもあった。

その後、昭和45(1970)年、

当時の大阪万国博覧会(万博)の会場で、

後に 『アリス』 となる所属事務所

『ヤングジャパン』 社長となる細川健氏 と知り合う事となり、

これが今の『 アリス』 としてデビューする、

プレレールが敷かれるキッカケと成った。

細川氏の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで、

当時ツアーに参加していた、

ソウルバンド 「ブラウン・ライス」 のドラマーである、

矢沢透さん と知り合って意気投合し、

帰国したら一緒にグループを組もうと約束を交わした。


(谷村さんは、他の歌手への楽曲提供にも積極的だった。

その中でも名曲と言えば 『いい日旅立ち』

自ら作詞作曲を手掛け、

当時アイドルとして人気のあった、

山口百恵さんへ提供

赤字に悩む国鉄のディスカバー・ジャパンの

イメージソングに抜擢され、忽ち国民的大ヒットに…。)



(谷村さんが手掛けた、楽曲の数々。

殆どの作詞は自らが手掛けたものが多かった。)


この時、谷村さんの頭の中には、

新グループ 『アリス』 としての構想 が、

徐々に出来つつあったと言う。

帰国後、アマチュア・ロックバンド

「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」 のボーカルで、

アマチュア・バンドサークル

「ポート・ジュビリー」 当時から知り合いだった、

堀内孝雄さんを 『アリス』 に勧誘 した。

昭和46(1971)年12月25日に、

谷村さんと堀内さんの2名で 『アリス』 を結成。

当時は、ロック歌手であった桑名正博さんの、

実家の蔵を借り切って練習を重ねていたと言う。

(谷村さんは、お喋りでも本領を発揮。

深夜放送が全盛だった当時、文化放送ラジオの

『セイ!ヤング』 では、若者のココロをがっちりと掴み、

人気番組となった。)



(番組リスナーからのお便りハガキを読む、

谷村さん。)


翌 昭和47(1972)年03月05日、

シングル 「走っておいで恋人よ」 でデビュー。

同年の05月05日には、矢沢透さんが正式に合流し、

ここに今日に至る『 アリス』 としての形 が出来上がった。

言わば2ギター&ボーカル、1パーカッションという

特異な編成とブルース色の強い演奏については、

リッチー・へブンスの影響を、

少なからず受けていたとの事であった。

しかしデビュー当初はヒット曲もなく、

鳴かず飛ばずの状態であった。

所属事務所 『ヤングジャパン』 は、

何とか打開策を見出そうと、

ソウルミュージックの帝王だったジェームス・ブラウンを、

初来日させる等、挽回策を計った。

当時の日本ではマイナーなアーティストだった事もあって、

来日公演は不入り。逆の意味で “伝説のライブ” となり、

谷村さんが所属している 『ヤングジャパン』 は、

莫大な借金を 背負ってしまった。

この際、 2,700人を収容できる大阪のフェスティバルホールに、

観客が約200人しか集まらなかったと言う。

ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に、

歓声を上げていた谷村さんは、

ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、

舞台袖にいた舞台監督に

「もうだめだ、やりたくない」 と両手でXサインを出している、

ジェームス・ブラウンの姿が見えたという。

この失敗を挽回しようと借金返済のため、

グアムへのクルージング・ツアーを企画するが、

またしても成功には至らず借金を拗らせてしまう結果となり、

挙句は帰国途中に谷村が当事者となった、

コレラ騒動までもが起こった

(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)。

当時、 このクルージング・ツアーには、

人気絶頂だった 『ガロ』 が一緒に同行していたが、

スケジュールの都合の関係で途中で帰国 してしまい、

困った谷村さん達は、何とか自分達で懸命に、

『アリス』 だけでも盛り上げようとした。

これが谷村さん自身にとって、一番苦しかった時期と言える。

苦しかった時期を乗り越え、地道な活動に専念した谷村さん。

昭和49(1974)年には、

年間303ステージという記録を残している。

昭和50(1975)年の 『今はもうだれも』 のヒットを契機に、

『冬の稲妻」『涙の誓い』『ジョニーの子守歌』

『チャンピオン』『狂った果実』 等のヒット曲を次々と連発し、

昭和53(1978)年には日本人アーティストとして初めて、

日本武道館に於いて3日間公演を成功させる等、

一時代を築き、 『アリス』 の名前を世に知らしめる 事となった。


(東日本大震災の被災地復興のため、

チャリティー・コンサートを精力的に行った。)


『アリス』 の活動並行して、谷村さんはソロ活動 も始めた。

コンサート活動こそ無かったものの、

昭和50(1975)年の アルバム 『蜩(ひぐらし)』 を皮切りに、

ソロ名義でのアルバムやシングル制作、

他の歌手への楽曲提供 ( 山口百恵『いい日旅立ち』 等)を、

精力的に行なう様に成った。

アリスとは異なる音楽世界は、

昭和54(1979)年の 『陽はまた昇る』 を経て、

翌 昭和55(1980)年の 『昴-すばる-』 で、

一定の完成を見る様に成った。

昭和56(1981)年には、シングル『群青』 が、

東宝映画配給の 『連合艦隊』 の主題歌 として抜擢された。

谷村さんは歌手としての活動だけでなく、

ラジオのパーソナリティーとしての才能も発揮した。

当時、文化放送ラジオで放送されていた 『セイ!ヤング』 では、

軽妙な語り口で、当時深夜放送世代全盛と言われていた、

若者の心を掴み、また 『純喫茶・谷村新司』 では、

落ち着いた語り口から幅広い世代のリスナーからは、

「マスター」 の愛称で親しまれた。


(紫綬褒章を叙勲を受け、取材に応じる谷村さん。)


因みに 『アリス』 時代から、谷村さんの愛称(ニックネーム)が、

“チンペイ” と良く言われていた事は、

ヘビーファンの方ならご存知の事であろう。

愛称である “チンペイ” は、谷村さんがデビューした当時、

放送作家として活躍していた、

野末陳平(のずえ ちんぺい)氏(後に参院議員)と、

顔が似ているからとも、

シンジ→チンジ→チンペイと変化したからとも、

言われている。

しかも当のご本人曰く 「高校時代から下ネタを話すのが好きで、

それを周りが当時ラジオ番組で下ネタを話していた、

野末(陳平)に准えた事で、

気が付いたらこの愛称に成っていた」 と、

取材でのインタビューでこの様に語っている。


(ソロ活動で、大ヒットした、 『昴-すばる-』 。)



(日中国交正常化45周年を記念して、

中国でコンサートを行った谷村さん。

上海にある音楽学院で教授を務めた事がある。)


谷村さんの音楽活動はそれだけに留まらない。

国内に於いては 東日本大震災で被災した、

岩手、宮城、福島を積極的に訪れ被災地への想いを、

歌にしたため、復興支援に積極的に関わった 他、

春のセンバツ高校野球の大会歌である

『今ありて』 の作曲 を手掛けた(作詞は阿久悠氏[故人])。

更に海外に於いては、中国・上海にある音楽学院で、

教授を務めた事もあり、

中国で人気の日本人歌手として知られていて、

平成29(2017)年には上海で日中国交正常化45年を記念した

コンサートを開いている。

特に代表曲である 『昴-すばる-』 は中国語でもカバーされる等、

幅広く親しまれ、平成27(2015)年には日本だけでなく、

広くアジアに受け入れられる作品を数多く生み出し、

芸術文化の発展に貢献した事が高く評価されて、

紫綬褒章を受章 し、

更なるパワーアップした活躍が期待されていた。


(春のセンバツ高校野球の開会式で、

『今ありて』 を熱唱する谷村さん。)


しかし今年の03月 『アリス』 の全国ツアー開始を前に、

急性腸炎に罹り入院を余儀なくされ、

来年へ持ち越しを発表した直後の悲報と成ってしまった。

亡くなる直前、谷村さんは病床からSNSを通じて、

「しっかりと療養に専念し、

元気な姿でまた戻って来ます」 と発信をしていただけに、

各方面への衝撃は大きかった。

特に 日本テレビ系のチャリティー番組である、

24時間テレビ “愛は地球を救う” の、

番組エンディングとして知られている 『サライ』 は、

谷村さんが詞を手掛け、

共演していた加山雄三さんが曲を付けた。

加山さんは自らのウェブサイト内で、

「(谷村君が)亡くなった事、先程知りました。

ショックと悲しみで正直混乱しています。

ちんぺいとは 『サライ』 を始め、

たくさんの思い出があります。

ヤンチャーズ楽しかったよな。

たくさんの場所で一緒に歌ったよな!

陶芸に誘ってくれた兄弟子でもあるし、

いつもチンペイには 『加山さん勝負じゃないんだから!』

って言われてたっけ。

ほんとの兄弟のように慕ってくれて、

一緒にいる時は本当にいつも楽しかったよ。

その兄想いの弟が先に逝ってしまった今、

気持ちをまとめてくれと言われても、

彼に伝えたい事はたくさんあって、言い切れないよ。

一言だけ彼に伝えるなら、やっぱり 『ありがとう』

この感謝の言葉しか見当たりません。

永遠の 『サライ』 を谷村くんと共に…」 と、

この様に綴った。


(政府の犯罪防止推進会議のメンバーとして、

選ばれた谷村さん。)


メンバーである堀内孝雄さんは、

「学生時代に 『プロにならないか?

一緒にアリスをやろう』 と、誘ってくれた時、

心の底から嬉しかった。

チンペイさんが、あの時誘ってくれなかったら、

今の僕はありません。

ずっと一緒に音楽活動が出来た事が幸せでした。」 と語った。

同じメンバーである矢沢透さんも、

「東京に住む僕と大阪に住む谷村と、

何の因果か運命の出会いか堀内を紹介され、

3人アリスとして歩み始めました。

時にはいがみ合い、

時には抱き合い幾多の苦難も喜びも共有し、

無我夢中で駆け抜けた。

そして気が付けば51年という、

長きに渡って谷村と関わるとは・・・、

あの日からは想像もしませんでした。

若さの灰汁も抜け、

『これからは本当に音楽を楽しんでやっていこうね』 と、

新しいアリスの始まりに胸躍らせていた矢先の事でした。

谷村なら大丈夫、谷村ならきっと戻ってくる、

根拠のない確信めいたものを感じておりました。

でも谷村は戻って来ませんでした!もういないんです。

悲しいというよりも悔しいんです。」 と、

悔しさを滲ませ涙ながらに言葉を詰まらせながら語った。

谷村さんの訃報は国内外を問わずに大きな衝撃を与え、

日中両国の政界関係者からも哀悼のコメントが相次いだ。


(日本テレビ系のチャリティー番組である、

“24時間テレビ” 『愛は地球を救う』 で、

加山雄三さんと共演した谷村さん。

番組のエンディング曲である 『サライ』 は、

余りにも有名だ。)


当時日本の音楽シーンが、

フォークからニューミュージックへの、

移行期間と言われる過渡期に、

新しい日本の音楽シーンを作るべく登場した谷村新司さん。

『アリス』 としてデビューした当時の世の中は、

高度経済成長期からオイルショックの影響で、

低経済成長期を余儀なくされる、

時代へ突入仕掛ける世相だった。

本業である音楽活動を筆頭に、

飾らない人柄と語り口から、

ラジオのパーソナリティーも勤め上げる等、

言わば当時の深夜放送族だった、

今の中高年世代にとっては、まさに希望の星 だった。

片や数々の名曲を次々と世に送り出し、

令和の時代となった今日に於いても、

その輝きは色褪せる事はなく、

全ての世代に愛され続けている。

まだ74歳と言う余りにも早過ぎる訃報。

寧ろこの事は谷村さんご本人が一番悔しがっている事であろう。

昭和・平成・令和の時代を駆け抜けて来た、

日本そして世界を代表するひとりのアーチストが、

惜しまれながら、静かにこの世から逝ってしまった。

謹んでご冥福をお祈りを申し上げたい...。


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【お知らせ】

次回は、谷村新司さんの功績を偲び、

ピクチャー及び、音楽集関係を後編としてお届け致します。

更新は、今月下旬頃の予定と成ります。

次回の更新まで、暫くお待ち下さい。

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JG7MER / Ackee