ヨットとの出会いを記録しておきたい。
小学校の頃から船が大好きで遊びといえば櫓をこいで遊ぶ。
夏になると、一日中潜っている海の子。
学校へも船で通わないとならない 田舎育ち。
実家がヨットを数十台置ける海面にあり
そんな環境にヨットで遊びに来る人達が大勢いた。
私が小学生のころ、お盆になると30艇はいただろうか。
遠く三浦半島からは、テティス、どんがめ、名古屋からはシンドバット、桃太郎
朝鳥、ビンド7、ボヘミアン、白砂、英源、白雲
大阪からは、コテルテル、などそれは昭和を代表する名艇ばかりである。
左は桃太郎(YAMAHA36)
右がITSUKI (YAMAHA33)
小学5年になると、地元の方がパールレース
(鳥羽から三浦半島までのレース)に参加するため
艇を建造。「ITSUKI」というチームが誕生し、実家の桟橋に
係留することになる。
(見事!パールレース クラス優勝)
この「ITSUKI」チームとの出会いが外洋への一歩となる。
初めは回航や遊びで乗せていただいていたが、気がつくと、
その魅力に取りつかれヨット馬鹿のドアを開けていたんだと思う。
中学1年になると 「ITSUKI」のオーナーより 古いディンギーをいただけることに
なった。YAMAHA 15 である。
とにかくよく乗った。
学校から帰ると、毎日セーリングする。楽しい毎日だった。
おそらく年間乗艇回数は誰にも負けない。
遠く、安乗を超え太平洋にまで出ていき、風がなくなり帰れないこともあった。
(漁船に曳航されて無事に帰れた)
風が強い日にY-15は一人では乗れないが、リーフできるようにして
臨んだ。マストが倒れて漂流したり、寝てしまって漂流したりしましたが
的矢湾という良港に助けられ、どこか海岸に漂着しては
遭難を免れた。そうやってヨットを覚えた。
そんなある日のこと(中学2年の夏)
「ITSUKI」が売りに出されることになる。
また、私はこの9月には 東京への転校が決まっていた。
つづく