☆☆☆
みよちゃんが転んだ。
それでもみよちゃんは手に握りしめたものは手放さなかった。
起きあがると鼻っつらを擦りむいて紅くなっている。
ぼくは娘のみよ子が愛おしい。
愛おしいんだ。
残業を減らしなるべくうちには真っすぐ帰宅している。
給料が落ち生活がギリギリになるときもあるけれど、ぼくは幸せなんだ。
だって、
妻が溢れているから。
どこかしこに溢れているから。
妻はいろんなところに存在した。
キッチンのなかにもいたし、引き出しのなかにも隠れていた。
ぼくのスーツケースのなかにもいたし、みよ子のシャンプーハットにくっついているときもあった。
ぼくたち親子へ
愛に溢れた
メッセージなんだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
その昔、足繁く晴美のデパートに通ったんだ。彼女はデパートの一階で受付をしていた。
瞼の裏で晴美がお客の相手をしていた風情が浮かび上がる。彼女も高校卒業したばかりだったし、ぼくも田舎から都会に働き始めた二十歳の頃だった。
とりわけ赤い制服が輝いて、同じようにつばが長いお洒落な帽子はぼくの胸にときめいた。
一目惚れしたのはぼくで、受付で販売しているテレホンカードや煙草や吸いもしない葉巻や、興味もない映画のチケット。
彼女が働いているときはそうやって不必要なほどの商品を購入した。
「このお芝居は面白いのかな!」
「この映画は怖いの!」
話せたら良かっただけなんだ。
『ぼくが本当に興味があるのはキミなんだよ…』
やがて休みの日を話してくれるようになり…、そのうち電話番号のメモを渡してくれたんだ。
電話で、ぼくは下らない冗談ばかり話した。
~楽しい人。
それが最初のイメージだったかもしれないね。
イメージか…
『記憶に残せたのかな…』
少し経って3ヶ月東京に出張にいくことになった。
千円分で30分話せたね。
無駄に購入していたテレホンカードがこんなに役立つなんて思いもしなかったさ。
それでも一枚二枚と毎日なくなっていく。
あのさぁ、
残りがゼロのテレホンカードが捨てられなかったんだよ。
だって時間の形だし、キミのカケラなんだ。キミを思うぼくのカケラなんだよ。
晴美のカケラを大事にしたかったんだ。
たわいのないお喋りが距離を忘れさせてくれたのかな。
受話器の向こうに
彼女がいて、
ぼくはいつも繋がり、
うんとそばにいたんだ。
いたんだよ。
本当にずっと…。
『ぼくには
キミしか
いなかった。
生涯きっと
キミしか
いないんだよ』
出張が解け、晴美に会う告げた。
「あたしの王子様になるって!!」
よしてよと彼女は言わなかった。ソバージュの髪が風で揺れる。
海の潮風がときに
ロマンチックに
ときにしめっぽくさせた。
彼女のいる空間だけが
オレンジに包まれた
あったかいオーラが射していた。
「じゃあさぁ、海に向かって、叫んでみせて。あたしのこと好きだってこと!」
晴美はクスクス笑った。ワンピースのすそを少したくしあげて、綺麗なひざ頭を見せていた。
ふいに、
彼女は砂のついたサンダルを遠くをめがけ海に投げすてた。
ぼくは慌てて言った。
「流れちゃうよ!」
「早く言わないからよ!」
「でもサンダルが…」
ぼくは自分のほっぺをたたいた。もっと前に進みたいんだろって言い聞かせた。
ぼくは自分のシューズを放りなげた。サンダルよりもっと遠くに。
奥歯をギュッと噛みしめた。
そして砂浜から駆け出したんだ。
海に浮かぶ彼女のカケラを手に入れたくて、無我夢中で走り、海の波でつんのめりながらも突き進んだ。
サンダルとシューズを拾い上げる。
持ち上げて見せると
小さく見える晴美が
手を振った。
大きく何度も何度。
ぼくは叫んだ。
「晴美!」
彼女は動きをとめてぼくを見ていた。
「晴美、オレはお前が好きだ。ずっとずっとこれからも好きだ。だからずっと一緒にいよう!」
ぼくはプロポーズをしたんだ。
友達のままからの
プロポーズ!
晴美は腕を上げた。
おもむろに
しなやかに
そしてかろやかに
まるを作ってくれた。
駆けよりぼくは夢中で言った。
「大切にするよ。泣かせたりしない。いつもそばにいるよ」
すると晴美は意外な一言を言ったんだ。
「あたしもずっと好きだったのよ」
二人は半年後、
婚約した。
それから
春先に式を挙げた。
☆☆☆☆☆☆
春の嵐が過ぎ去り、昼下がりの公園は、高い空、照りつける日差しのもと、ぼくは五歳になる娘と昼食をかねて散歩に来ていた。
妻は入院している。
新しい娘が誕生したんだ。
二人目は困難だと医師に言われていた。
命が危ないと言われたんだ。
二人とも命が散るかもしれないと。
だけど晴美はこういったんだ。
「あなたがいるから産みたいのよ。守ってくれるって信じているもの!」
「守るさ。守るに決まっているだろ。だけど…」
産むのは諦めようということばを呑み込んだ。
代わりにこういったんだ。
「神さまはぼくを試しているんだ。何が何でも妻を守る男なのかを。妻の希望を守る男なのかを」
ぼくは涙をこらえ笑顔で妻に約束した。
「キミのすべてを受け止めるよ」
晴美は腕を伸ばし、いった。「ありがとう。あなたはあたしが選んだ旦那様よ!」
妻は無事に娘を産んでくれた。ぼくにできたことは限りがある。
妻の心配ごとをなくすこと。みよ子とたくさんおしゃべりをしたり公園で遊んだりもした。
妻がいなくてもみよ子は一度も泣かなかった。
☆☆☆
みよ子は転んでもお弁当の入れ物は掴んだままだった。
「大丈夫かい!」
「うん」
みよ子はやはり大事にしっかりお弁当箱を握りしめている。
「綺麗に食べたもんね。おうちに帰ったら綺麗に洗おうね!」
ぼくはみよ子の頭をなでた。
「ママにもお弁当あげるの」
「そうかい。でも綺麗に洗ってご飯を詰めなおさないとね。タコさんも入れようね」
みよ子は首をふりお弁当を差し出した。
そのとき初めてみよ子が涙をためているのが分かった。
ぼくは蓋をあけた。
桜の花びらが一面に
しきつまっていた。
「ママにあげたいの。お腹いっぱい食べさせたいの」
娘をギュッと抱きしめた。それでもお弁当箱は手放さなかった。
出産したあと、妻は空腹を訴えた。みよ子はそばで聞いていたんだ。
花びらがひとつ
ぼくのほほに
かすめて落ちた。
みよ子と二人で空を見上げた。
☆この日記はフィクションです。


