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妻が鼻歌を唄っている。
昔ぼくの部屋でよく聞いた曲。
classの『夏の日の1993』
「マユちゃんのお弁当さ、アンパンマンにしたんだけどさ、不評だったのよ」
「どうしてだい?」
「マユちゃんがゆうにはね、お友達のほうが似てるんだって」
ぼくはふうんと鼻を鳴らした。キリマンジャロの香りが鼻からぬけた。
食事も終えて新聞を広げる。ふと妻に一言言った。
「明日どうする?」
「そうね」
幾分上の空で聞いている。妻は鼻歌を時折唄い続けていた。
「今回は外出やめておうちで食事しないかしら?」
「お好きなほうをどうぞ」
ぼくも幾分そっけなく応じた。
妻は食器を片付けると米を研ぎだした。もう明日のお弁当のことで頭がいっぱいになっているのだろうか。
テレビの料理番組もマメにチェックしている。
もちろんケチをつけるつもりはない。
料理の知識は家族にフィードバックされている。マユだって食べ残しがないのだから。
マユは妻が三十過ぎにできた娘だ。結婚してもう諦めかけているころに巡り会えた大切な娘なんだ。
大切な、大切な天使なんだ。
最初は子どもはすぐにできると信じて疑わなかった。
それに若さもあったんだろう。
妻の不妊症に気づくのが遅れてしまった。
すべてはぼくの責任。
苦労をかけてしまった。
定期的な病院通いも負担だっただろう。
すまない。
お互い三十を越えた頃いや妻はもっと早くかもしれないけれど心境に変化が現れた。
友人たちの話題が幼稚園の娘や息子の話に変わっていって。
妻は笑顔で友人の話を聞いているけど、受話器の手はどこか淋しげだった。
一度だけ妻から離婚したいと申し込まれたことがある。
病院の医師から子どもは諦めた方がいいとほのめかされたあとだった。
妻は追い込まれていたんだ。
睡眠薬をたくさん飲んで病院にかつぎ込まれた。
ぼくは大人気ないほど妻に軽率な話をした医師につめより文句を言った。
「神様でもないくせに判断しないでくれ!」
病院を回りセカンドオピニオンを繰り返した。
どの医師も似たり寄ったりだったけど、ようやくたどり着いた片田舎の小さな病院の医師は頑張りましょうと言ってくれた。
可能性はどの病院も違いはなかったのかもしれない。
だけどすがる思いのぼくたちには神さまに思えた。
神さまはどこかにいるんじゃない。
人の胸のなかに住んでいる。
それぞれの胸の中に神さまが住んでいる。
胸の中に神さまが宿っていると気づかない人は
己の学んだ知識や経験だけで物事を見てしまうのかもしれない。
それに、人のぬくもりを与えてくれる、それだけの医師の言葉に、どれだけ勇気づけられぼくたちは前に進めたことか。
妻は変わらず機嫌が良さそうだった。
藤井フミヤの『TRUE LOVE』にそれは変わっている。
学生の頃、青山通りの歩道橋でドラマの撮影が日暮れどき行われていた。
「石田ひかり可愛かったよ。フミヤの歌が頭に流れて来ちゃった」
あの頃二人ともテニス愛好会のサークルに入っていて
簡単にいえばコンパで仲良くなって付き合いだしたんだ。
彼女は高等部からエスカレーター式に進学してきたお嬢様。
ぼくはといえば親の仕送りだけでは生活できずにバイトぐらしの学生だった。
その後結婚するなんてまだ遊び盛りのぼくにはもったいないくらいの女の子だったし…
…だけども誰にも譲りたくない素敵なレディだった。
そんな彼女が撮影があった歩道橋にのぼったときこういったんだ。
「世界中で未来だけを愛しているって叫んでみてくれない!」
「未来ちゃん、本気、酔ってんの?」
「酎ハイ5杯とカクテル2杯」
呑んだものは覚えているもんだなと思いつつもぼくは羞恥心を捨てられずにいた。
酔っているぼくでも冷静な部分はある。
すると突然
彼女は欄干から
乗り出すように
叫んだ。
「あたしは裕也が大好き。世界で一番大好き!」
鼻歌がまた変わったので、回想をやめてキッチンの妻を見やる。
ぼくたちの明日の結婚記念日のプレゼントを楽しみにしているのだろうなと、笑みを浮かべながら妻のもとに向かう。
「どうしたの?」
妻はエプロンをたたみ自分にコーヒーを沸かしていた。
ぼくは妻の腰に手を回して頭をなでた。彼女ははたと動きをとめたままぼくを見上げた。
髪を指ですくうようにぼくは妻の額にキスをした。
妻はかすかに笑い瞳を閉じた。
「世界中で未来だけを愛しているよ。ぼくの奥様」
唇を離すと妻はあの頃の笑顔と変わらずこういったんだ。
「裕也が大好き」
さらにパッと目を輝かせて囁いた。
「赤ちゃんができたのよ!」
ぼくはこう答えた。
「君に出逢えて良かった。世界中の誰よりもずっと愛し続けることを誓います」
二人の距離に
もう言葉は
いらない☆
この日記はフィクションです。