☆☆☆


 妻が鼻歌を唄っている。



 昔ぼくの部屋でよく聞いた曲。

 classの『夏の日の1993』



「マユちゃんのお弁当さ、アンパンマンにしたんだけどさ、不評だったのよ」


「どうしてだい?」


「マユちゃんがゆうにはね、お友達のほうが似てるんだって」


 ぼくはふうんと鼻を鳴らした。キリマンジャロの香りが鼻からぬけた。


 食事も終えて新聞を広げる。ふと妻に一言言った。


「明日どうする?」


「そうね」


 幾分上の空で聞いている。妻は鼻歌を時折唄い続けていた。


「今回は外出やめておうちで食事しないかしら?」


「お好きなほうをどうぞ」


 ぼくも幾分そっけなく応じた。


 妻は食器を片付けると米を研ぎだした。もう明日のお弁当のことで頭がいっぱいになっているのだろうか。


 テレビの料理番組もマメにチェックしている。

 もちろんケチをつけるつもりはない。


 料理の知識は家族にフィードバックされている。マユだって食べ残しがないのだから。


 マユは妻が三十過ぎにできた娘だ。結婚してもう諦めかけているころに巡り会えた大切な娘なんだ。



 大切な、大切な天使なんだ。




 最初は子どもはすぐにできると信じて疑わなかった。

 それに若さもあったんだろう。



 妻の不妊症に気づくのが遅れてしまった。




 すべてはぼくの責任。



 苦労をかけてしまった。




 定期的な病院通いも負担だっただろう。




 すまない。



 お互い三十を越えた頃いや妻はもっと早くかもしれないけれど心境に変化が現れた。

 友人たちの話題が幼稚園の娘や息子の話に変わっていって。


 妻は笑顔で友人の話を聞いているけど、受話器の手はどこか淋しげだった。


 一度だけ妻から離婚したいと申し込まれたことがある。


 病院の医師から子どもは諦めた方がいいとほのめかされたあとだった。

 妻は追い込まれていたんだ。


 睡眠薬をたくさん飲んで病院にかつぎ込まれた。

 ぼくは大人気ないほど妻に軽率な話をした医師につめより文句を言った。










「神様でもないくせに判断しないでくれ!」










 病院を回りセカンドオピニオンを繰り返した。

 どの医師も似たり寄ったりだったけど、ようやくたどり着いた片田舎の小さな病院の医師は頑張りましょうと言ってくれた。


 可能性はどの病院も違いはなかったのかもしれない。

 だけどすがる思いのぼくたちには神さまに思えた。










 神さまはどこかにいるんじゃない。


 人の胸のなかに住んでいる。


 それぞれの胸の中に神さまが住んでいる。


 胸の中に神さまが宿っていると気づかない人は

 己の学んだ知識や経験だけで物事を見てしまうのかもしれない。




 それに、人のぬくもりを与えてくれる、それだけの医師の言葉に、どれだけ勇気づけられぼくたちは前に進めたことか。









 妻は変わらず機嫌が良さそうだった。


 藤井フミヤの『TRUE LOVE』にそれは変わっている。





 学生の頃、青山通りの歩道橋でドラマの撮影が日暮れどき行われていた。


「石田ひかり可愛かったよ。フミヤの歌が頭に流れて来ちゃった」


 あの頃二人ともテニス愛好会のサークルに入っていて


 簡単にいえばコンパで仲良くなって付き合いだしたんだ。


 彼女は高等部からエスカレーター式に進学してきたお嬢様。


 ぼくはといえば親の仕送りだけでは生活できずにバイトぐらしの学生だった。



 その後結婚するなんてまだ遊び盛りのぼくにはもったいないくらいの女の子だったし…


 …だけども誰にも譲りたくない素敵なレディだった。


 そんな彼女が撮影があった歩道橋にのぼったときこういったんだ。


「世界中で未来だけを愛しているって叫んでみてくれない!」


「未来ちゃん、本気、酔ってんの?」


「酎ハイ5杯とカクテル2杯」


 呑んだものは覚えているもんだなと思いつつもぼくは羞恥心を捨てられずにいた。


 酔っているぼくでも冷静な部分はある。











 すると突然
彼女は欄干から
乗り出すように
叫んだ。











「あたしは裕也が大好き。世界で一番大好き!」





 鼻歌がまた変わったので、回想をやめてキッチンの妻を見やる。


 ぼくたちの明日の結婚記念日のプレゼントを楽しみにしているのだろうなと、笑みを浮かべながら妻のもとに向かう。



「どうしたの?」


 妻はエプロンをたたみ自分にコーヒーを沸かしていた。


 ぼくは妻の腰に手を回して頭をなでた。彼女ははたと動きをとめたままぼくを見上げた。

 髪を指ですくうようにぼくは妻の額にキスをした。


 妻はかすかに笑い瞳を閉じた。


「世界中で未来だけを愛しているよ。ぼくの奥様」





 唇を離すと妻はあの頃の笑顔と変わらずこういったんだ。


「裕也が大好き」


 さらにパッと目を輝かせて囁いた。


「赤ちゃんができたのよ!」




 ぼくはこう答えた。




「君に出逢えて良かった。世界中の誰よりもずっと愛し続けることを誓います」










  二人の距離に


  もう言葉は


  いらない☆









この日記はフィクションです。






☆☆☆


200#年春


 ぼくはホテルの受付に来ていた。


 Would you mind my speaking?
 (ちょっといいかな?)


 Why not!
 (なんなりとお申しください!)


 コンシェルジュは気さくな男性だった。左腕にはスイスの高級時計が煌めいていた。


 ぼくは腹ごしらえをしたかった。それから訪米のかいつまんだ事情を説明するとコンシェルジュは太い首をなんどかふった。


 周辺のマップに指差しながらバリトンの響く声で彼はいった。


「流行りのデリはここですよ」


 そこは夏美が美味しいと話していたお店だった。












 早速ミッドタウンのカーネギー・ホールに近い場所にきてみた。すでに行列ができている。


 『カーネギー・デリ』のサンドイッチを知らないニューヨーカーはもぐりだろう。


 ぼくはボリュームたっぷりの牛肉の燻製のサンドイッチを注文して食べた。客足が途絶えないだけに確かに美味だ。




 白人の小さな男の子が軒先にいるぼくを指差してママにせがんでいた。

 It's my favarite one!
 (ぼくもあれが欲しい!)











 それから夕方近くまでいくつかの美術館を徘徊し、セントラル・パークで、入道雲の空の下、太陽を浴びた。



 やがてホテルに戻り、軽い食事を館内で済ませると、ドレスコードは特にないそうだが、新しいネクタイを首に通した。


 夜のブロードウェイ。

 華やかな街。


 夢や希望がつまった、

 ときには失望も備えた坩堝の街!!



 ぼくはチケットを購入して、セントジェームス劇場に入って観劇した。途中でつまみ出されないように口の中にはなにも入れなかった。


 もちろん、ケータイはオフに、財布はチップ用のドル紙幣が数枚、それから…夏美の小さな写真が入っていた。



 『ザ・プロデューサーズ』はユーモアたっぷりで笑わずにはいられなかった。


 ヒトラーを美化させた劇場作品を作り上げ、閉演させてどさくさにまぎれて、売上を持ち逃げするつもりが大ヒットする、そんな内容のお芝居だった。










 夏美はどのへんで笑ったんだろうか。




 ぼくと似ている点があるとするなら、どうでもいいようなポイントで笑いが一致したことかもしれない。









「あたしたちって似た者変人なのかもしれないわね!」









 だけど彼女は去ってしまった。












 頭のなかで何度も起きろ起きろとノックする。


 ジャズのピアニストがぼくの頭を何度もたたき回った。


「たっぷり聴いたじゃないか、チップだって弾んだはずだよ!」


 劇場をあとにしてぼくはジャズバーで一杯引っかけてベッドに潜り込んだんだ。コニャック一杯で酩酊するのは初めてだった。




 ピアニストはさらに頭を殴りつけた。




「ぼくは絶対訴えてやる。じゃなけりゃその指へし折ってやるよ、だからもう騒がないでくれ!」



 ピアニストはスゥッと消えて、頭の痛みと電話のコール音が重なった。


 やれやれ。



 ぼくはヒドい二日酔いに苦しんでいたらしい。


 デッキチェアーの備え付けの電話を乱暴に握りしめた。






「お客様、彼女が最後に立ち寄ったお店が分かりましたよ!」



 コンシェルジュの落ち着いた声が反響した。




「どこだって!」




 やっと実りある情報が収穫できた。




 話を聞き終わらないうちにぼくが向かったのはバスルームだった。



 熱いシャワーを浴びたかった。




☆☆☆


200#年秋





 ぼくは渋谷のBunkamuraのカフェにいた。


 ミルクティのロックアイスがコロンと音を立てる。



 ふいに遠くに目をやると待ち人が小さな体で歩いてくるところだった。



 呼び出したのはぼくだ。




 誰に渡していいのかわからないしぼくが貰うにしても、一言いやただ共有したい、僅かだけど、寂寥感があったのだろう。


 ぼくは手を挙げた。彼女はぼくを知らない。ぼくが彼女を知らないように家族のことはなにも知らなかったのだ。





 夏美の妹はもう高校生になっていた。






 彼女は真っ直ぐな眼差しで、向かいのテーブル席からぼくが取り出すものをじっと見つめていた。


 いくぶん悄然とした雰囲気を感じたけれど若さにあり得る疲労のようなものだった。



 彼女はスポーツバッグをテーブルのしたにおいていた。テニスのラケット。




 夏美もテニスをやっていたことを覚えているのだろうか。



 妹の眼差しはぼくの感慨なんてどうでもよさそうだった。



 ぼくだって……。



☆☆☆


200#年春



 ぼくはシャワーを浴びた後イースト・ビレッジにある古めかしいレコードショップに向かったのだ。


 彼女の事故現場に近い場所だった。レコードショップに立ち寄ったあと、夏美は交通事故に巻き込まれた。




 ~卒業旅行の最終日だったんだ!




 彼女たちが乗り込んだバスは飛び出した人を避けようと横転した。








 夏美は今も胸の中で生きている。だけど永遠に去ってしまったんだ。




 舞い散る花びらのように人の命ははかない。


 だけど消えない記憶、消したくない思い出は虚しく胸に居座っている。


 ぼくはぼくなりに気持ちの整理をしたくて、ニューヨークに出かけたんだ。







 とにかく夏美が捜していたとゆうジャズのアルバムをぼくは手に入れたくて仕方がなかった。





☆☆☆


200#年秋


「ハロー!?」



 彼女はアルバムジャケットを眺めていた。


「うん、Helloだよ、九十年代にリバイバルされた、ジャズシンガーのアルバムなんだ」


 復刻版とゆうヤツだ。


 いろんなシンガーがアルバムに登場する。


「キミは音楽は好きかい?」


 彼女は探索的な瞳を投げかけた。


「嫌いな人っているんですか。あたしはこだわりはないけど楽しい曲ならジャンルは気にしません」


 明るい表情は夏美にそっくりだった。


「どうかしたんですか」

 ぼくはぼんやりしていた。セントラルパークの空の下、夏美が鼻歌をのんびり歌っている様子をなぜだかテーブルの向こうの彼女から連想させていた。





 夏美の妹が鼻歌を歌うんじゃないかって、どうして思ったんだろうか。



「Hello」


 夏美の妹は楽しそうにそういって笑った。



 ぼくもいった。


「Hello」





☆☆☆☆☆


19##年


 夏美からのメール着信。



「Hello、元気!!


 夕べは飲み過ぎたみたい。ブロードウェイは最高だったよ。


 明日は美術館にいって、それからセントラルパークでハリソンフォードを探してみるわ(笑)


 お土産はなにがいい?


 まあいいや。


 明日晴れたらいいね!


 また、メールするね!


 チャオ!」









 ぼくはジャズのボリュームを上げて鼻歌を泣きながら歌った。






 完





 この日記はフィクションです。






200#年春


 ぼくが本を閉じて目を閉じた頃、機体はぶ厚い雲に突入した。

 激しく揺れるなかぼくはまったく別なことを考えていた。






☆☆☆


19##年


 食事は、まだ化粧映えもしない夏美が作ってくれた。


「こんなもんばっかし、食べてるからひっくり返っちゃうのよ!」


 夏美は料理をテーブルにおきしな、カップラーメンの買い置きを非難したかったのか。


 キッチンの下を目配せすると、せかせかと冷蔵庫をあけて、缶ビールを二本取り出した。


「でもツラいことには気付け薬も必要だけどね!」




 一本をぼくに渡した





 夏美はグビっともう始めていた。


「夏場はビールに限るね、ところで夏美んちのおじさんは元気なの?」


「さあ、どうしてんのかしら、ビールのことならお気遣いはいらないわよ、気風がいいのは昔からの」


 夏美は仕送り代わりにビールを送り届けてもらっていた。


 おすそ分けをぼくがもらう。もらうとゆうより夏美が置いていくのだ。


「酒屋ってそんなに儲かるのかい!?」


 夏美はくすんと笑った。


「バカね、んなわけないじゃん!!」


 夏美はそれ以上答えることもなかった。ぼくも聞くこともない。




 どうでもいいことだ!





 ぼくが家族の話をしなかったように夏美もとくに求めなかった。お互い貧乏学生には変わらないんだけど、それと親のことと線を繋げることもなかったのだ。


☆☆☆


200#年春


 機内のアナウンスが流れた。ベルトの着用をまだ怠っている乗客がいるようだ。




 そんなことはどうでもいい!!



 窓に打ちつける雨の流れを見つめた。雫が上に流れていく。




 機体は徐々に下降していく。ランディングまでわずかのようだ。


 目を閉じて、再び機内のアナウンスが流れるまであのアパートの夏美に声を掛けていた。







19##年


「『オリンポスの果実』はもう読んだの!?」


 夏美は首を振った。まだとゆうことか。ぼくの部屋にあった文庫本。


 初めて夏美がきたアパートの帰りにぼくが渡したのだった。




 一途な恋のストーリー。




 どうして渡したのか。夏美が読みたいといったのか。今は忘れてしまったけれど文庫本を手にしたときの夏美は楽しそうな笑顔を向けていたのだった。



 夕食の支度はできて夏美は自分が作った和風スパゲティをビールで流し込んでいた。


 のど元に汗の雫が流れている。ぼくも二本めをあけてグビグビやった。

 栄養はつけるようになったし、スポーツの授業で立ちくらみもしなくなっていた。


 夏美と話すようになったのも大学のスポーツの授業がきっかけだった。


 夏美がアパートにくるようになって一年が過ぎていた。


 ぼくのベッドは夏美の香りが染み着いていた。


 愛した記憶もなにもかもひとつに重なっている。2人がそうしたようにベッドにはたくさんの思い出が染み着いている。


 会話とゆうより、どうでもいいようなテーマで議論した朝方に、夏美は始発の駅に急ぎ出したこともあった。


「仕送りが午前中にくるんだった」


 仕送りといっても配達されるのはビールケース。時間指定で届けられるらしい。


「受け取らないと、送り主に連絡がいくとゆうわけか」


 第三者を使って娘の在宅の有無を知ることができるわけか。誤魔化しようがない。


 だけど、もっと大きなものを感じてやまなかった。



「本当に見送りはいいのかい」


 ベッドのなかから情けない姿で問いかける。


「バカね、どうせまた午後から学校で会うんだし、学食はおごってよね、うふふ」


 なにがうふふなのか分からないけど、ぼくはあははと笑って頷いたのだった。










200#年春


 ジョン・F・ケネディ国際空港からシャトルバスに乗った。


 地下鉄を乗り継ぎニューヨークに到着した。


 ぼくはタイムズ・スクエア付近のホテルに一泊した。


 彼女の手がかりは僅かしかない。取りあえず、今夜はゆっくり疲れを取るとしよう。ぼくは服を脱ぎ捨て熱いシャワーを浴びたくて我慢できなかった。