Little脱退後のマディバンドの穴を最終的に埋めたのは、Littleよりも3歳ほど若いジュニア・ウェルズだった。YouTubeの"Standing Around Crying"のハープはジュニアのデビューにあたる。だが、ジュニアに決まるまで紆余曲折があったことは一言付け加えなければならない。
さて、マディがジュニアなら、エイシーズを得たLittleの勢いはまさに飛ぶ鳥を射落とすほどだった。その最たる出来事がNYアポロシアターの一週間連続出演だろう。当時のアポロシアターを知る画像が以下の1952年にアポロに初出演したドミノズの写真である。
1952年10月24日、Little Walterを看板スターに起用したビッグ・イベントの仕事が舞い込んだ。意外だが、ハーレム・ハイ・スポットと呼ばれる黒人音楽最高の殿堂に、シカゴブルースが舞台に上ったことは一度もなかった。
その前例を破ったのがLittle Walterだ。それもこれもジュークのヒットのおかげだ。どれほどの衝撃だったかがよくわかる。
Little以外の出演者は、デューク・ハンプトン、ニュー・キング・オブ・ザ・ブルースなどである。
アポロシアターの出演はLittleを有頂天にさせた。あまり喜びを表に出さない男が義妹のマルゲリータに電話をかけていることからも推測できる。
「……なあ、お前、今夜俺がどこで演奏するか当ててみな。」
「えっ、何、兄さん?どこなの?」
「きっと驚くぜ。俺は今、NYにいるのさ。それもハーレムさ。
アポロシアターに出るんよ。これがどういう意味がわかるか?
マディだって出たことがないアポロに立つ意味がさ。
俺が一番だってことなんだよ!」
この言葉からもマディの存在がLittleの中でかなり大きいことが伺える。マディにとってLittleはなくてはならないサウンドだったが、進化を望むLittleにとって、マディはやはり超えねばならぬ山だった。そのマディを超えたことという事実が何より嬉しかったに違いない。そして、Littleは文字どおりシカゴブルース界で一番であることに酔いしれた。※下は当時のポスター
いずれにしろエイシーズを手に入れたLittleは幸福だったろう。なにしろエイシーズときたら、Littleのレコーディングのためにわざわざ練習することなどなかったのだから…。それほど彼らは、Littleのサウンドを熟知していたのだ。「……俺たちは、時間がきたらスタジオに入って、
20分以内に4曲カットするだけだったよ。
リハーサルなんてものはやらなかった。
やる必要なんてあるか?
毎晩、奴の音を聴いてりゃ、次に何がくるかわかるってもんだ。」
そう、うそぶくのは兄のルイス・マイヤーズだが、リハーサルをやらなかったのは事実だ。当時のレコーディングを考えれば、彼らのような手法は決して珍しいことではなかった。失敗の許されないレコーディングにわずか20分で2枚のシングル盤を量産した連中…それはある種の覚悟であり、また、若さゆえの覚悟のなさの表れだった。
シカゴブルース初のアポロシアター出演に気を良くしたLittleとナイツキャッツことエイシーズに用意されたホテルは、黒人のホテル・ウォルドルフと呼ばれたホテル・テレサである。
1913年に建てられたホテルテレサは40~50年代に入ると、アメリカブラックの社交界の中心地となり、カウント・ベイシーをはじめとするバンドマンやラジオのDJ、政治家などが好んで利用した。マルコムX、キング牧師、キューバのカストロ議長も宿泊したことでも知られる老舗ホテルである。※画像は当時のホテルテレサ13階建ての重厚なホテルの外観も内観もLittleを有頂天にさせるに十分だった。彼はこう思ったろう。
……俺はとうとうここまで来た。俺は俺の力でここまで来たんだ。マディだってここからの景色は見たことはないはずだ。
だが、油断は禁物だ。アポロの客は手ごわいと聞いている。なんとしてでもNYの連中を俺のハープで文字どおり吹き飛ばしてやる。みてろ、NY。
1952年10月24日金曜日、いよいよアポロシアターの初日が来た。Littleとマイヤーズ兄弟、それにフレッド・ビロウが機材搬入をしていた時のことだ。劇場の舞台係が不思議そうに尋ねた。
「おい、あんたらLittle Waler&His Night Catsの関係者かい?
だったら、いつバンドが到着するか知らんかね。
時間が迫っているから急いでくれと伝えてくれないか。」
「もうついてるさ。」
「どこに?」
「あんたの目の前だよ。俺たちがそのLittle Waler&His Night Catsさ。」
舞台係は絶句した。たった4人で……まさか…冗談だろ?俺は『ジューク』って曲を知ってる。ありゃ、大音量のホーンだった。それがこんな少人数のバンドだって…信じられない。
舞台係は目を丸くしたまま司会者のもとに走った。看板スターのLittle Walter&The Night Catsがたった4人ということを大慌てで知らせに行ったのだ。
「さて、皆さま。いよいよ本企画の真打ち登場でございます。
アメリカ南部で大ヒット中の『ジューク』といえば、もうご存知でしょうが、
北部、いや、ここNYでのライブショーは今夜が初お目見えなのですが、
彼らをご紹介する前に、一言申し上げたいことがございます。
ギター2本に、ドラムが1つとだけ申し上げておきましょう。
あとはご自分の眼で確かめていただきたいのです。
私供アポロシアターが自信をもって送り出すのは、シーンにおける
新しいスタイルなのです。
では、今一度、座席に深く座り直し、リラックスしていただきとうございます。
さあ、Little Walter&The Night Catsの登場です。」
司会者のMCに続き、緞帳が上がると、広い舞台にちんまり座った4人の姿があった。
オープニングは、1938年のヒット曲、トミー・ドーシーの『ブギウギ』だったが、Littleはトミー・ドーシーバンドの12人分のホーンセクションをたった一人でものすごい勢いで吹き、文字どおりオープニング一曲で観客を吹き飛ばしてしまった。
客席は興奮と驚嘆で熱狂の渦と化し、危険を感じた司会者が慌てて飛び出した。
「皆様、落ち着いてください。この騒ぎを治めるには中止しかございません。
彼らのショーはまだ1週間続きます。明日のお越しをお待ちしております。
では、皆様、さようなら。」
こんな状態でアポロの初舞台はたった1曲で終わったが、翌日からこの騒ぎを聞きつけた観客の数は日増しに増え続け、しまいには、劇場を二重にも三重にも囲むほどになった。
最終日に近づくころには、ジャズミュージシャンのアルビノ・レイや画像のロカビリーシンガー、カール・パーキンスなどをはじめとして、プロのミュージシャンや関係者も彼らの評判を聞きつけ顔を出すようになったほどだ。Little初のアポロ公演は大成功に終わった。その上、最終公演終了後の早朝、ホテルテレサでボヤ騒ぎが起き、はしご車が繰り出すというおまけまでついた。
しかし、話はここで終わらない。この成功に気をよくしたNYのエージェントがイギリスはロンドンの名門パラディウム劇場での39日間公演のオファーを持ち掛けたというのだ。もし、これが実現していたとすれば、Littleの人生はどうなっていただろう?おそらく大幅に変わっていただろう。
しかし、Littleは断った。理由はごく些細なものだった。飛行機だ。これまでLittleが乗ったことがあるものと言えば、おんぼろ汽車か、中古のキャデラックくらい。彼にとって『外国に飛行機で飛ぶ』というのは全く考えもつきないことだった。だが、もしロンドンに飛んでいたとしたら……と考えずにはいられない。全く、返す返す惜しい出来事ではないか。
結局、Littleたちがシカゴに戻れたのはアポロ公演から4か月も過ぎた1953年の2月だった。