岩佐又兵衛筆 上瑠璃物語絵巻 巻4より『枕問答』

                      そのものズバリ、ベッドシーンでございます。

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というわけで、岩佐又兵衛も第八回を迎えました。
いよいよ又兵衛時代が開花する時代です。
前回長々と主君である松平忠直について詳しく記述したのは、
又兵衛が又兵衛たる絶頂期と深く関係があるからです。
では、いってみましょう!


<謎その1:松平忠直との7年間>

岩佐又兵衛は長命でした。亡くなるのは還暦を過ぎて、江戸に単身赴任してから12年も経った72歳でした。しかし、現在、又兵衛が又兵衛たる所以の最大の特徴と才能が大いに開花したのは、わずか10年ほどです。年代でいうと、大阪の陣前後(1614)から寛永初年頃まで、それ以降になると、淡墨の側筆で描く流麗で、保守的画法に転換します。これをものの本では『成熟期』と呼んでいますが、はっきりいうと全然面白くありません。これは一体何故なのでしょうか?
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又兵衛筆と落款があるものを列挙しますと、以下のとおりです。

<忠直時代>

①豊国祭礼図屏風

②三十六歌仙画冊

③旧金谷屏風六曲一双

④紀貫之、柿本人麻呂図(画像参照)


<忠昌時代>

⑤旧樽屋屏風(池田家屏風)八曲一隻

⑥本性房振力図

⑦布袋図(下の画像は『布袋と寿老人』)

⑧鹿と貴人図

⑨太平記図

⑩和漢故事人物図巻

⑪達磨図


<江戸期>

⑪三十六歌仙図扁額(寛永17年)重文

⑫耕作図屏風

⑬西行図

⑭月見西行図

⑮楊貴妃図

⑯霊照女図


紅花紅子のブログ-hotejuro1 上記は、福井前期の忠直時代から江戸に下ったころまでおよそ30年の開きがありますが、この中で、福井忠直時代の作品と考えられるのは、①~④まで、忠昌時代と考えられるのは⑤~⑩まで、それ以降が江戸時代です。


特に、うち重文にも指定され、その特徴が顕著なのが旧金谷屏風です。これなぜ忠直時代なのか。

◎旧金谷屏風の『官女観菊図』付属の伝来書

忠直と仲が良かった松平直政(忠直の異母弟)が福井の豪商金谷家に下賜したものとあることから推測される。



<謎その2:旧金谷屏風絵の謎>

では、まず旧金谷屏風六曲一双の画題を列挙しますと、以下のとおりですが、現在はバラバラになり、各美術館に所蔵されています。中には所在がわからないものもあります。どうです、重要美術品、重要文化財扱いばかりでしょう?しかし、これがありがたいどころか何故か笑ってしまうのが、又兵衛の凄いところです。復元してみると、こんな感じです。(画像は、2004年10月号 芸術新潮より)


①虎図 墨画

②源氏物語『花の宴(朧月夜)図』 着色=所在不明

③源氏物語『野々宮図』(重美)淡彩

④龐居士図(重美)

⑤老子出関図 淡彩

⑥伊勢物語『鳥の子図』(重美)着色

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⑦伊勢物語『梓弓図』(重文)着色

⑧弄玉仙図(重文)着色

⑨羅浮仙図(重美)着色

⑩唐人抓耳図 着色=所在不明

⑪官女観菊図(重文)淡彩

⑫雲龍図 墨画


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◎旧金谷屏風の特徴

①押絵貼屏風

②和漢混合

③着色、淡彩、水墨混合

④高貴さに卑しの美



①まづ、押絵貼屏風というのは、屏風に様々な画題の絵を貼り付けた屏風の総称です。この頃の屏風には多数見られます。


②は、源氏物語、伊勢物語など和の古典と中国の故事人物などを配置していることを意味します。しかし、このような雑多で雑種的な混合は又兵衛屏風以外には、あまり見られません。非常に珍しいものです。


③水墨画(龍虎図)、土佐派白描画(源氏物語、伊勢物語)、着色(中国故事)といったように画題で、画法も変えています。こういったことは連続性を大事にする屏風には殆ど見られません。


その上、水墨画ひとつ取っても、又兵衛は当時の水墨画の流派(海北派、長谷川派、雲谷派)を取り入れて描いています。まるで自分の達者なところをひけらかせているようではありませんか。得意満面な顔をしている又兵衛が目に浮かびます。


④これこそ又兵衛の真骨頂です。人物がことごとく豊頬長頤の上、老子、龍、虎、そして、仙人までもがこうも威厳もなく、人間臭く描くとは…。画題が高貴であればあるほど下卑てくる又兵衛ならではの腕の見せ所ではありませんか。


◎明治以降散逸

屏風の12扇のうち、7扇が重要美術品か、重要文化財に指定されているのは珍しいことです。明治期に各画題ごとに軸装され、売り立てられた考えられています。 明治期はこうして旧時代の遺物を競売にかけることが多くなるわけですが、それも全てを買えるだけのコレクターが現われず、結局一扇ごとに売ることになった為でしょう。惜しい限りです。


<謎その2:旧樽屋屏風とは?>
紅花紅子のブログ-oshokun1 ◎旧樽屋屏風=旧岡山藩池田侯爵家伝来

忠直の息子光長は、父の配流後、忠直の弟の忠昌との国替えで、越前高田藩の藩主となるものの、越前騒動で天和元年(1681)改易されます。その後、光長は、元禄10年(1697)隠居し、養子の松平宣富に美作津山藩が与えられます。


この屏風が岡山藩(津山藩)に伝わるのはこの為だと思われますが、同じ押絵貼屏風の旧金谷屏風と異なり、華麗ではありますが、大胆さに欠け、今までの又兵衛の特徴が影を潜めます。また、この頃から頻繁に『勝以』の落款を使い始めます。


①貴人の雪見 所在不明

②王昭君図 画像(サンフランシスコ・アジア美術館)

③寂光院 (重文)

④伊勢物語『花の宴』 所在不明

⑤伊勢物語『梓弓』 所在不明

⑥伊勢物語『五十三段』

⑦僧を訪ねる武人 所在不明

⑧職人尽・傘貼りと虚無僧(重美)


日本に現存するのは、8枚のうち3扇だけという有様ですので、再現してみても貧相です。大正8年の売りたてで分割され、中には画像の『王昭君図』のように海外に流出したものまでありますが、旧金谷屏風にくらべ、色調も似たものにし、連続性を重視していますが、これといって特徴がなく、可もなく不可もないといったものです。アーティストとしてはかなり不満だったでしょう。



<謎その3:二つの屏風絵の差異は?>

屏風に描かれているのは、二つの屏風ともに和漢混合という雑多なモチーフを取り入れてますが、その印象はかなり違います。旧金谷屏風が又兵衛ならではのものならば、旧樽屋屏風は、達者ではありますが、又兵衛でなくとも描ける無難なものになっていることです。これは一体どういうことなのでしょうか?


◎宮仕えのお抱え絵師

同じ絵師でありながら、こうも印象が異なる作品を描いたのは、他でもなく仕える主君の好みだと考えられます。舟木本や豊国祭礼図屏風、旧金谷屏風に見られる自由奔放な又兵衛のタッチは、松平忠直好みだったと考えられます。したがって、忠直在職期間に完成した作品の数々が現在なお心を打つのは、又兵衛の特徴が余すことなく現われているからです。


◎保守的な主君

ところが、忠直が配流され、実弟の忠昌が新しい主君になると、又兵衛は絵師としての仕事以外のことを任されます。元織田信雄の近習だったこともあり、主君に代わって、家臣の財政事情や祐筆、あるいは、土地相続問題などの仲介役をかって出るなど、秘書的な役割を果たすようになります。


新しい芸術に理解があった忠直と異なり、真面目な忠昌は、又兵衛の新しい美を理解できず、保守的でわかりやすい絵画を求めます。側筆で流麗な淡墨も、忠昌好みなのでしょう。一見、美しく、そつなく描かれてはいますが、絵には情熱が感じられません。その上、又兵衛が早描きで、器用なため一層様々な仕事に追いやられるのです。


◎主君思いの絵師

絵師の仕事以外のものが増えていきますが、生活は安定していますし、有能な又兵衛を忠昌は頼りにします。文献には、又兵衛の江戸行きが決まると、『忠昌は涙を流して見送った』とも記されていますから、本当に頼りにされていたのでしょう。


<謎その4:時を超える作品とは?>

国宝や世界遺産に指定されるような作品には何があるのでしょうか?もちろん、作者の才能が一番ですが、他にもあります。


国宝級の芸術作品=作者の才能+パトロンの存在+保護する環境


才能ある芸術家と、芸術家を育て、支えるパトロンの存在と、時代を超えて、芸術作品を保護しようとする環境の3つがなければ、国宝級の作品は残りません。金に困ったからと言って、ご先祖伝来の遺産を売ってしまうような子孫や、目利きがいなければ、宝は宝として存在しないのです。


そういう意味では、松平忠直という人物は、又兵衛にとってのパトロンだったわけです。又兵衛は忠直の注文や依頼によって、これまで手がけたこともなかった大作に着手するのです。


では、次回は、これぞ又兵衛の代表作『山中常盤物語絵巻』です。お楽しみにね。